17.姉妹(2)
しかし覚悟した刃は、フェイヴァに及ばなかった。
(どうして……)
飛びかかってくる鼠を斬り捨てながら、フェイヴァはハイネの動きを観察する。彼女はフェイヴァが肩の傷に動きを鈍らせたあと、すぐさま攻撃に移らず、上空で旋回していた。最小限の翼の動きで方向転換し、フェイヴァを斬りつけることが可能だったはずだ。何故そうしなかったのだろう。激痛に意識が囚われたその一瞬ならば、剣は難無くフェイヴァの胸に届いたのに。
フェイヴァの中に、ひとつの予想が浮かぶ。けれどもそれは、いまだ現実を受け入れられない自分が考え出した、愚かな逃避なのかもしれない。
ハイネは大きく羽ばたいたあと、急降下した。フェイヴァが最後の一匹の息の根を止めると同時に、接近する。
フェイヴァは左手を動かし、土を掴んでハイネに投げつけた。彼女は舌打ちし顔を背けたが、砂粒は確かに顔面を捉えていた。
目を閉じたまま、ハイネの剣が闇雲に突き出される。
肉を突き破る音。刀身が沈む。血が飛び散り、ハイネに振りかかる。
彼女の身体が小さく震えた。血の生温かさに、戸惑っているみたいだ。次の瞬間フェイヴァは――彼女の驚倒とした声を聞く。
ハイネの剣が貫いたのはフェイヴァではなく、首を斬り落とされたスライトだった。
フェイヴァはハイネの背後に回り込むと、剣を突き出した。刀身は灰色の羽を折り、欠片が地面に突き刺さる。腕を引き、更に剣を振るう。ハイネの背中を縦に斬り上げた。
ハイネは悲鳴も呻き声も上げなかった。ただ、斬られた衝撃に仰け反った身体を、制動しようとした。左足を軸にして振り返ると、フェイヴァの腹を蹴りつける。
重量を感じさせる蹴りは凄まじい衝撃を与え、フェイヴァはしばらく起き上がることができなかった。ハイネが歩み寄ってきて、握っていた剣が蹴飛ばされる。
「まさか、こんな手を使ってくるとはね。少しびっくりしたよ」
フェイヴァの赤く染まった衣服の襟を掴んだ。仰向けにすると、右手の剣を振り上げる。
切っ先は、天を向いたまま動かない。
彼女は険しい表情で、フェイヴァを見下ろしていた。眉間に刻まれた皺。強張った口許。
ハイネの心が、せめぎあっている。葛藤が手に取るように伝わってくる。彼女は本心から、この状況を望んでいるわけではないのだ。だからフェイヴァに止めを刺せる機会があっても、実行に移さなかった。本気で破壊するつもりなら、最初から大剣を抜いて斬りかかってくるはずだ。フェイヴァの武器にあわせて片手剣を使う必要はない。
けれども、いつまでもこの状況が続くとは思えなかった。敵に対する情けを、ハイネは遅かれ早かれ捨ててしまうだろう。今の状況はただの、気の迷い。情に流されるほどの気持ちしかないのなら、初めからフェイヴァたちの邪魔をしたりはしない。ハイネとルカには、止むに止まれぬ理由があるのだ。友人であるフェイヴァたちよりも――きっと彼女たち自身の命よりも大切な、譲れないものが。
フェイヴァは浅く空気を吸い込むと、ハイネの額に勢いよく頭をぶつけた。両足を踏みしめ跳び上がり、彼女に激突する。
仰向けに倒れたハイネの剣を、蹴りつけた。剣は放物線を描いて岩に突き立つ。
ハイネがフェイヴァの足首を掴み、地面に引き摺り倒した。フェイヴァは両手で身体を跳ねらせ、立ち上がろうとしたハイネの肩口を蹴り上げた。ハイネは砂埃を巻き上げながら後方に吹き飛ぶ。
フェイヴァがよろめきながら立ち上がると、ハイネもほぼ同時に地面に足をつけていた。
互いの身体の切創は、死天使の自己修復機能によって塞がりつつあった。流血は止まり、痛みもやがて消えるだろう。けれども身体に受けた傷よりも深い創痍が、心には刻まれている。
ハイネの視線が素早く走る。岩に突き立った剣までの距離と、フェイヴァとの間合いを測っているのだろうか。剣を取りに行くまでの時間がないと判断したらしい。彼女の足がフェイヴァに向けられる。
「もう……やめよう」
駆け出そうとしたハイネに、静かに訴える。
「どうして私とハイネが戦わなくちゃいけないの!? こんなの、虚しいだけだよ!」
「あんたたちを、ここで殺すのがわたしたちの役目なんだよ。こうなることは……訓練校にくる前から決まってたんだから。演技だったんだよ。あんたたちとの会話は、全部」
ハイネの冷笑は真に迫っているように見えて、その実、空っぽだった。こんなに感情が籠っていない顔つきを、フェイヴァは見たことがない。
「相手の信用を得るのは潜入の基本だよ。本当に騙されやすいんだから」
「違う。ハイネはそんな人じゃない」
彼女の言葉が嘘だと言うことを、フェイヴァは知っている。
フェイヴァを叱り、自信を持つように言い聞かせてくれた。周りの顔色を窺い、流されるままだったフェイヴァに、生き方を教えてくれた。
「あなたは、苦しんでいた私に寄り添ってくれた。私を想って叱ってくれた。あの二人組に壊されかけた時も、ハイネの言葉があったから私は立ち上がれたんだ。あなたがいてくれなかったら、私はここにはいられなかった。今までかけてくれた言葉が……演技だったなんて思えない」
ハイネは強く首を振った。苛立たしげに足下を蹴りつける。
「あんなの全部、適当に言っただけなんだよ! 心なんて籠ってない! それを言葉通りに受け取るなんて……だからあんたのことが嫌いなんだ!」
「じゃあどうして、ハイネは泣いてるの?」
はっとして、ハイネは自身の顔に手をやった。指先に、目尻から流れた涙が触れる。自分でも信じられないように目を見開いて、あふれる滴を拭う。
「違う、これは……! わたしはあんたたちのことなんて、なんとも思ってない!」
ルカ以外の前ではつれない態度をとるハイネが、泣いている。拭っても拭っても止まる気配のない涙に、彼女の本心が現れていた。
込み上げてくる衝動を堪えながら、フェイヴァはハイネに語りかける。
「私たち、もう二人きりなんだよ。この世界でたった二人の、心を持った死天使なんだ。私にとってあなたは……時々傷つくことも言うけど、でも、なんでもできる、お姉ちゃんみたいなものだから!」
醜い化物の中から生まれ、人に疎まれることが約束された、温かな血が通わぬ身体。
けれども、投げ捨てることはできない。逃げ出すことはしたくない。
自分のことを好きになれる日は遠いかもしれない。心の底から受け入れて、信じてやれる日はいつになるかわからない。けれども、血を吐きながら生きていかなければいけないのだ。
それを教えてくれた、たった一人の姉妹。
「ハイネと友達になれて、嬉しかった」
同じ痛みを知っているのが、優しいあなたでよかった。
フェイヴァの頬を、涙が濡らす。微笑もうとしたけれど、唇が震えただけだった。
ハイネは顔を歪める。目の際に盛り上がった滴が、こぼれ落ちていく。白い頬に涙の筋が幾重にも走った。
「どうして……そんなこと言うの……」
顔を伏せると、緑青の髪が彼女の目元を隠す。唇が、強く噛み締められる。
「でも、それでもわたしは……!」
背中に伸びた腕が、大剣の柄を掴む。一息に引き抜くと、磨き抜かれた刀身が陽光を照り返す。
「両方とも選べない。ここで退くわけにはいかない!」
ハイネ自身を奮い立たすように響き渡るその声は、激しく強い。
髪をたてがみのように振り乱し、ハイネが間合いを詰める。
情も躊躇いも振り切って、ハイネは猛然と駆ける。ただひとつのもの。自分の命よりも大切なものを、優先するために。
彼女の心は決まった。
打ち破らなければ、ハイネはフェイヴァの前に立ち塞がり続けるだろう。
ハイネを迎え撃たなければならない。彼女の言う通り、どちらとも選ぶことはできないのだ。助けたい人がいる。覚悟を決めなければならない。
フェイヴァは足下の岩を蹴り砕いた。石の破片が散弾のようにハイネに襲いかかる。それは力強い剣筋で、すべて弾き飛ばされる。
ハイネが肉薄する。フェイヴァと彼女の視線が交わる。
フェイヴァは右足を振り下ろした。靴底は大剣の背を捉え、地面にめり込ませる。ハイネの身体が大剣に一瞬、引っ張られる。
フェイヴァは右腕を引き絞ると、振り抜いた。拳は鋭く風を切り、ハイネの腹を正確に捉えた。重々しい音に続き、空気が弾ける。発生した風圧が、フェイヴァの全身を嬲っていった。
ハイネは後方に吹き飛ぶ。叩きつけられた岩に亀裂が入り、彼女は岩の破片の上に投げだされる。
フェイヴァは大剣を引き抜くと、仰向けになっているハイネに突きつけた。
「まさか……あんたに負けるなんてね」
乾いた笑い声がハイネの口から漏れた。
迷いを抱きつつの戦いで、本気を出せるわけがない。自分では全力で戦っていると思っていても、無意識に力を抑制してしまっているはずだ。もしもハイネが煩悶を抱いておらず、フェイヴァに対して友愛を感じていなかったならば、今立っているのは彼女だっただろう。
「一思いに殺ってよ」
フェイヴァは大剣の切っ先を、地面に向けた。
「もう、おしまい。ハイネも私も傷だらけ。これで恨みっこなしだよ」
「……またそんな甘ったれたことを」
今回ばかりはハイネも人のことを言えない。
「二人がこんなことをしたのは……もしかして、アーティちゃんと関係がある?」
ルカが語ってくれた施設での暮らし。彼とハイネの妹のような存在だった、アーティという少女。重度の侵蝕病を患い、寝たきりの生活を強いられているという。
ハイネの眉が、小さく跳ねる。フェイヴァの予想が的外れではないことを、彼女の反応が証明していた。
「ユニを助け出したら、みんなで話し合おうよ。二人で悩んでるより、ずっといいと
思う」
レイゲンは反帝国組織の兵士見習いだ。彼から組織に働きかけてもらえば、何かできることがあるかもしれない。
安易な気持ちでそう口にしてしまって、後悔した。ディーティルド帝国で、三人がどのような立場に置かれているのか、フェイヴァは知らないのだ。できることなど、ないのかもしれない。
ハイネ自身にも結果は目に見えているのか、彼女はフェイヴァの言葉に表情を動かさなかった。疲れきったふうに見える横顔
は、空を仰いだままだ。
「……これ、借りていくね」
フェイヴァは大剣の柄を握りしめると、飛翔した。翼の羽ばたく音に紛れて、涙を堪えた小さな声が届く。
「アーティ……許して」




