15.嘘(2)
フェイヴァは死天使の向かった方角に飛行する。北東へ。
いつしか眼下には、カルトスと呼ばれる、低く平らな地形が広がっていた。都市ネルガルと隣都市であるリューネの間に横たわる、十三万キロにも及ぶ大平原である。
フェイヴァはそこで敵の姿を補足した。ユニを連れ去った死天使は、大平原の上空を滑るように飛んでいる。
フェイヴァは翼を強く翻した。速度を上げる。
ユニを抱えた死天使の姿が、だんだんと小さくなっていく。それと入れ違うように、新手らしきものが向かってくる。死天使の視力でさえ点にしか見えないほど距離が離れているため、数はわからない。
(どうして……)
敵はウルスラグナ訓練校を襲撃した死天使だけではないのか。一体どれだけの数が向かってきているのだろう。
もしも敵が大量に投入されているとしたら、自分の力だけでは太刀打ちできない。
フェイヴァはわななきそうになる身体を、意志の力で押さえつけた。
(いまさら弱気になるなんて!)
剣の柄を強く握りしめ、ひたすらに翼を羽ばたかせる。
と、頭上に影が差した。天高く昇った太陽を背に、群青色の翼竜が降下してくる。
「フェイヴァ、無事か!」
「レイゲンさん!」
レイゲンはフェイヴァの隣で、翼竜の羽ばたきを緩やかにする。
「どうして……闘技大会は」
「死天使の大群がこちらに向かっているのが見えてな。自主的に抜けてきた」
進行方向に向けられた、鋭い瞳。そよぐ青藍色の髪。助けは得られないと思っていた人が駆けつけてくれて、フェイヴァは安堵を覚えてしまった。レイゲンがいてくれる。もう大丈夫だ。彼に頼ってしまいそうになる弱い自分を、内心で叱る。
動揺を悟られまいと律したつもりだったが、顔に出てしまったらしい。レイゲンの表情が曇る。
「何があった? あいつらは無事か?」
「死天使が訓練校を襲ったんです! サフィが、サフィが……死んでしまって……ユニが拐われて……!」
言葉にすることは、あまりに大きなものを失ったことを実感させた。語尾が震えてしまう。フェイヴァは自分が情けなかった。
レイゲンは息を詰まらせた。柳眉をきつく寄せ、唇を噛む。
彼はフェイヴァと違って取り乱したりはしなかった。顔に現れた衝撃は漣のように消え、次にはいつもの冷静な相形に戻る。レイゲンはしっかりとフェイヴァを見つめた。
「……しっかりしろ。落ち着くんだ。今はユニを助けることを優先する。お前は訓練校に戻っていろ。危険だ」
「嫌です! 私も行きます!」
「レイゲン!?」
重量感のある羽音を響かせながら、翼竜に乗った三人がやって来る。リヴェンはいるはずのない人物を目にし、わずかに驚いた様子を見せた。ルカとハイネは揃って硬い表情になる。
「お前……なんでここに」
ルカの疑問には答えず、レイゲンはフェイヴァに視線を移す。
「話はあとだ。フェイヴァ、ルカとハイネを連れて戻れ。お前たちでは無駄に命を散らすだけだ。リヴェン、行くぞ」
「ざけんじゃねえ! 誰がテメェの言うことなんざ聞くか!」
レイゲンはリヴェンに指示をするが、彼は不快げに声を荒げる。先を争うようにして、今まさに向かってこようとしている敵影に接近していく。
通常の死天使が少し強くなった程度に過ぎないフェイヴァよりも、無類の強さを誇る風の能力を持つリヴェンを連れていくのは、賢明な判断だった。
自分では二人の足を引っ張ってしまう可能性がある。それでも、この場を任せて逃げ去るのは嫌だった。何かできることがあるはず。
ハイネとルカが後ろから近づいてくる。二体分の翼の音を聞きながら、フェイヴァは振り返らずに声をかけた。
「二人は戻ってて。ここは私たちに任せて」
「そういうわけにはいかないよ」
平静なハイネの声に続いて――風切り音。
灼熱に似た激痛が走って、フェイヴァは驚愕した。
刀身がフェイヴァの脇腹を抉っている。
ハイネが握る柄に、血が伝う。
「あんたたちを、ここから先には行かせられないからね」
フェイヴァは吐息を吐いた。何が起きているのか、理解が追いつかない。焼けつくような痛みがただ、フェイヴァに現実を突きつける。
肩越しにこちらを振り向き、気づいたのだろう。レイゲンがフェイヴァの名を呼ぶ声がした。
レイゲンとリヴェンの前に、翼竜が躍り出る。ルカの身体を黄金色の光が取り巻いた。彼の周囲に四つ光球が出現し、爆ぜる。レイゲンは手綱を繰り、寸でのところで翼竜を退避させた。光球の破片が飛び散って、翼竜の鱗に傷をつける。
「おい、テメェら……何のつもりだ」
リヴェンのドスの利いた声に、ルカは口を開く。平素と同じく、何気ない口調で。
「俺は魔人で、ハイネは死天使なんだ。ここでお前たちを足止めするのが俺らの役目だ」
フェイヴァはルカたちから、正面のハイネへと顔を向ける。彼女はフェイヴァから剣を抜くと、柄を引き絞った。研ぎ澄まされた切っ先が、躊躇なくフェイヴァの胸部を狙う。
フェイヴァは反射的に剣を振り下ろした。攻撃のためではない。両手で握った剣が、ハイネの刀身を上から押さえつける。
互いの力が拮抗し、刃が震える。フェイヴァは顔を強張らせて、ハイネに問うた。
「嘘、だよね?」
「嘘じゃないよ」
あっさりと否定して、ハイネは剣を引く。翼竜の手綱から手を離し、鞍から滑り落ちた。
彼女の背から立ち上がり広がっていくものに、フェイヴァは我が目を疑った。
身の丈よりも大きな、灰色がかった翼。陽光が羽の一枚一枚を、鈍く輝かせる。
それは間違いなく、金属の骨格と人工皮膚を持つ兵器の証だった。人型殺戮兵器――死天使。
「……嘘だ」
ずっと騙していた、なんて。
ハイネは口許に酷薄な笑みをのせた。緩い風が、緑青色の短髪を弄んでいく。
「ここはルカたちの邪魔になる。二人でゆっくり話せる場所に行こうよ」
肉薄からの斬り下ろし。あまりの速さに、フェイヴァは戦慄とともに剣を掲げる。刃が噛み合い剣花が散る。防いだところに腹に蹴りを食らい、落下する。
地上すれすれで体勢を立て直すも、ハイネが追撃する。閃光のごとく速さで迫り、真横を過ぎていく。剣が叩き折ったのはフェイヴァの翼の一部だった。羽が折れ、飛び散る。身体を支えきれずに、今度こそフェイヴァは地面に叩きつけられる。
身体が砕けたのではと思うほどの衝撃。地は抉れ、濃い土煙が立ち上る。
ハイネは空中で旋回すると、急降下する。翼が風を裂く。両手で構えた剣が迫る。
フェイヴァは翼を収納し、片腕と片足を使って転がった。胸の横ぎりぎりに剣が突き立つ。
「反撃しないの?」
「戦えないよ……! 私は、ハイネを斬れない」
ハイネが死天使だと知った今でも、何かの間違いであってほしいと思っている。友達として生活してきた人に、剣を向けることなどできるはずがなかった。
ハイネは顔を歪ませた。侮蔑の表情。
「そう。じゃあいつまでも、偽善者に徹してれば」
ハイネの腕が伸び、フェイヴァの粗末な服を掴んだ。翼を強く羽ばたかせ飛び上がり、ルカたちから離れていく。
小さくなっていく三人。ルカを援護するためだろう。翼竜に乗った男女が続々と近づいてきて、レイゲンとリヴェンを取り囲んだ。
フェイヴァはハイネの腕を掴んで離れようとしたが、服を掴む手にさらに力を込められただけだった。
レイゲンたちが見えなくなった、と思った矢先、手を離される。フェイヴァは地面に落ちた。
黒々とした岩が突きだした大地に、青い草が繁っている。
フェイヴァは顔を上げる。空に悠然と浮かぶハイネは、剣の切っ先をフェイヴァに向けている。大剣は背の鞘に収められたままだ。彼女が握っているのは、騎乗中に使う片手剣だった。
悪夢というものがあるのなら、きっとこの状況を言うのだろう。
「ハイネ、言ってたよね? ルカたちと一緒に施設で暮らしてたって。あの話は全部、嘘だったの?」
「……本当に何も知らされてないんだね」
どこか同情を滲ませた声音だった。
「あんたに話したわたしの過去には、何一つ偽りはない」
では、どうして。フェイヴァは押さえきれない思いをこめて、ハイネを仰ぐ。
ハイネはフェイヴァを見下ろす。顔にかかった前髪を払った。
「一つ、昔話をしてやろうか。人の顔色を窺ってばかりいた、哀れで愚かな女の子の話だよ」




