11.家畜(2)
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女子の喧騒が耳障りだった。どこか静かなところで、一人になりたい。
ユニはフィーナとリアラに一言断って、部屋を出た。
真昼だというのに、窓から注ぐ陽はあまりに弱々しい。薄暗い通路を一人で歩いていると、気持ちが更に沈んでいくのがわかる。
誰もいない場所といっても、ユニには思いつかなかった。
行く当てもなく、ただ歩く。
図書室に続く階段に差しかかった時だった。
「ユニ」
名前を呼ばれて顔を上げれば、本を数冊抱えたサフィが、上からユニを見下ろしていた。
薄紫の少し長い髪が顔にかかって、影のある表情を作り出している。灰色の瞳は驚いたように瞬いた。
「図書室に用事?」
「違うわ。アタシ、上の階には用がないから」
早々に会話を切り上げて、サフィに背を向ける。
フェイヴァに面会してほしい。サフィにそう頼まれてからは、彼とは碌に話していない。ユニは逃げるように距離を取っていた。
「待ってよ」
本をその場に置いて、駆け下りてくる靴音がする。ユニは前方に顔を向けたまま、歩き続けた。
慌てたような声が背後から聞こえた。滑り落ちて、重量のある物が落下した風な音が続く。
あまりの大きな音に、ユニは驚いて階段の方を見た。
「……う、いたた」
サフィが蹲って呻いていた。急ぐあまり足を踏み外し、転落したらしい。
ユニは自然と溜息が漏れてしまうくらい呆れてしまう。歩み寄って手を貸した。
「何やってるのよ」
「ああ、ありがとう。慌てると周りが見えなくなって……情けないところ見せちゃったね」
サフィはユニの手を取って、立ち上がった。柔和な顔が赤くなっている。相当恥ずかしかったようだ。
「……いつまで握ってるつもり?」
「あっ! ごめん!」
サフィはぎょっとした表情をし、大振りな動作でユニから離れた。
「……あのさ、用事がないなら少し話が出来ないかな?」
フェイヴァと近しい人の側にいるのは耐えられない。ユニはサフィから顔を背けた。
「どうせあなたも……アタシを責める気なんでしょ」
「今の君を見て、そんなことはできないよ。……ユニ、辛そうな顔をしてるよ。君が苦しんでるってことが、わかるから」
背中に投げかけられた言葉に、動けなくなる。温和なサフィらしい物の言い方だった。
彼はユニに好意を抱いている。フェイヴァ寄りの見方をしているレイゲンたちと違い、彼だけは中立なのかもしれない。
そのことが少しだけ、ユニの心を動かした。安心した、といっていい。
「……本当に、酷いことは言わない?」
「うん。約束するよ」
顔を見なくても、サフィの声音から実直さが伝わってくる。背中を真っ直ぐに見つめている、彼の姿がユニには想像できた。
階段を上り、図書室の扉を押し開ける。
どっしりとした書架が壁を囲むように設置されている。椅子に腰かけている数人の訓練生は、二人が訪れてもさして気にする様子はなく、読書に夢中になっている。
耳に届くのは、頁を捲る音だけだった。
サフィは扉の近くにある机に、自分が抱えていた本を載せると、指で奥を示した。部屋の西側は奥行きがあり、書架で区切られていて狭い通路のようになっていた。そこで会話をすれば中央まで声は届かず、他の訓練生の邪魔にはならない。ユニもサフィ以外には、話を聞かれたくなかった。
サフィに続いて、場所を移動する。書架の間を縫うように移動して、椅子が数脚配された場所に着く。
サフィが座ったのを確認して、ユニは彼の隣の椅子を少し動かして腰かけた。ユニとサフィの間には、一人分の距離が生まれる。
背後には、ユニの背丈を越える書架があり、二人に薄い影を落としていた。古い紙の独特の匂いが、間近に漂う。
「……よかった。こうして話ができて。ずっと心配してたんだ。このところ、ずっと顔色が優れなかったから」
「……失望したでしょ。アタシが、こんなにどうしようもない人間だってわかって」
口から出た言葉を、嘲笑する自分が心の中にいる。
本当に、醜い女だ。
ユニは無意識に、サフィが裏切らないとわかっている。彼だけはどんなことがあっても自分を肯定してくれるのだと理解していた。
サフィの気持ちを試すような物言いをしたのは、彼の口から自分の望む言葉を引き出したいからだった。
「確かに君のしたことはフェイヴァを傷つけた。それは事実だ。……でも僕は、君のことを酷い人だとは思えない。ユニがレイゲンを好きだってことは知ってる。二人の姿を見て、君がどんな風に感じたのか……わかるような気がするんだ。君の抱いた感情は、同じ状況になれば、誰もが少なからず感じるものだと思う」
サフィはユニを傷つけまいと、細心の注意を払っているようだった。彼の労るような言葉からは、責める響きは一切感じ取れない。
ユニはサフィの声に、黙って耳を傾けた。
「それに君は、ミルラを失っている。君たちの仲の良さは端から見ていてもよくわかったよ。親友を亡くすってことは、とても大きなことだ。君の感じた悲しみは、想像を絶するものだと思う。……苦しみや辛さが、たくさん積み重なっていたんだね」
どこまでもユニの立場に立って、サフィは言葉を選んでくれた。
彼の穏やかな声が、ユニの心に染み入ってくる。
堪えていたものがあふれそうになって、ユニは俯いた。泣いては駄目だ。自分にそう言い聞かせても、沸き上がってくる衝動をやり過ごすことができない。
目許を指で拭う。
肩が震える。
「ミルラは……小さな頃から一緒だったの。一人じゃ何もできない子で、いつもアタシの後ろをついてきて……」
サフィは小さく、相槌を打つ。
「下らないことで男子にからかわれてて……アタシがそれを、いつも助けてた。……ずっと守る側だったのに、いつの間にか、強くなってた。ここに入学する前は、アタシの方が励まされることが多いくらいで。労働が辛くて給金も少なかったけど、二人でいれば乗り越えられた。……本当はミルラは、アタシよりも、ずっとずっと強い子だった……」
記憶が色鮮やかに甦る。ミルラの人懐っこい笑みを、ユニは鮮明に想起することができた。まるで今も、隣で座ってくれているように。
「……どうして死んじゃったの? あの時、アタシがもっとちゃんとしてれば……!」
声とともに、涙が滲む。留まりきれずに頬を流れていく。
「ミルラが亡くなったのはユニのせいじゃない。自分を追い詰めてはいけないよ」
悲痛な声で、サフィはユニに手を伸ばす。けれども、距離は詰められない。掌は触れることはせずに、宙を漂う。
ユニは自分から、サフィの腕の中に飛び込んだ。
彼は肩を跳ねらせた。そして、動きを止める。動揺しているのかしばらくそのままだったが、やがて硬直が解けた。
想像していたよりも筋肉がついた腕が、ユニの背中を抱く。
「ユニ……大丈夫だよ」
緊張した響きを伴った、けれどもしっかりとした声だった。平常心を保つのさえやっとのはずなのに、サフィは懸命にユニを励まそうとしている。
他者の苦しみに寄り添う優しさ。自身を強く保つほどの、ユニへの思い。
ユニはこの時初めて、サフィという人間を異性として意識した。
頑なだった自分の心が、解けていくのを感じる。
フェイヴァに対する感情、ユニの中に潜むディヴィアという魂。すべてを、サフィに告白したい。もう独りで抱え込むことは、できそうになかった。
サフィに相談しても、事態は何も変わらないかもしれない。けれども、どうしようもない不安や恐怖を、分け合うことはできる。
誰かが自分の気持ちを理解してくれている。その事実はどんなに心強いことだろう。
(……許さぬぞ。話してどうなる。この男には何もできん。お前のおかれた状況は変わらん。私はお前が死ぬまで、決してこの身体を離れることはない)
怒気を孕んだディヴィアの声に、ユニは内心で頭を振る。
(……そんなことわかってる。でももう、アタシは耐えられないの! アタシは貴方の所有物じゃない!)
心を決めてしまうと、重く立ち込めていた霧が、晴れたような心地になった。
ユニは大きく息を吸う。
「サフィ……アタシ」
騒音。次いで悲鳴。
突如室内に反響したけたたましい音に、ユニは心臓を鷲掴みにされたような驚愕に襲われた。
サフィがユニの身体を離す間にも、部屋の中央からは逃げ惑う靴音が聞こえていた。時折上がる絶叫は、強い恐怖を帯びており、唐突に断ち切られたように止む。書架が視界を遮っており、何が起きているのか理解が追いつかない。
「一体何が……!?」
「ユニはここに隠れているんだ。いいね?」
サフィはユニに言い聞かせると、走り出した。
(ユニ、この場を動くな)
ディヴィアの命令を、ユニは気に留めなかった。
サフィの後ろ姿に、ミルラの背中が重なる。彼女はユニを守るために死天使に立ち向かい、殺されたのだ。
「待って、アタシも行く!」
ユニはサフィの後を追った。書架の隙間から抜け出すと目の前に、彼の背中があった。サフィに駆け寄ろうとしたユニは、凍りつく。
先程まで読書を楽しんでいた生徒たちが、床に伏している。俯せか仰向けかの違いがあるだけで、みな制服は赤く染まっていた。
サフィの眼前で、今まさに最後の一人が刃の一撃を受けた。背中に振り下ろされた大剣は、肉を易々と突き破って床に到達する。
「どうして……ここに……」
サフィの声がわななく。
生徒たちを無差別に斬り殺していたのは、人形のように整った容姿をした男だった。眉も口許も表情を形作ることはなく、被せられた仮面を見ているようだ。身につけている衣服の色は、フェイヴァを助けに行った際に遭遇した、兵器と同様の漆黒だった。
(死天使……!)
何故ここにいるのか、という疑問はすぐに意識の外に弾かれた。
躊躇なくミルラを斬り殺した死天使。どこまでも感情を滲ませないその顔を思い出して、ユニの身体は固まる。
視界が大きく揺れて、後ろに転倒した。サフィがユニを突き飛ばしたのだ。ユニの身体は書架の隙間に収まるような形になり、サフィによって隠される。
床に伏せたユニは、サフィの身体と書架のわずかな隙間から男を見る。
出口は男の後方にある。死天使は突風のように速い。走って逃げても追いつかれてしまう。
(助けてっ!)
ディヴィアの力なら、死天使を粉砕できる。彼女ならばサフィを救える。
(あの時みたいにあいつを殺して! お願い! サフィが殺される!)
死体から刀身を引き抜くと、死天使はサフィたちの方に身体を向けた。無機質にも思える瞳が、ユニを庇う彼に向けられる。
(……何か勘違いしているようだな。私にとってお前の友は、その辺りで草を食む家畜と同じだ。何故私が家畜の諍いに介入しなければならない?)
死天使は大剣を片手で構えると、床を蹴った。
銀の閃光が走った刹那――ユニに鮮血が降り注いだ。
サフィは床に膝をつく。彼の腹を大剣が貫通していた。
ユニの絶叫が谺する。
死天使はサフィの身体から大剣を抜こうとした。しかしサフィは、刀身にしがみついたまま離れない。
サフィを刺し貫いた時と同じ無表情で、死天使は彼を蹴った。仰向けにし柄を持ちかえると、無理矢理刀身を捻り、引き抜く。
腹部に開いた大きな傷。夥しい血が石の床を伝う。サフィの瞳は虚空に投げかけられ、身体は弛緩する。
身動ぎさえしなくなったサフィを、ユニは見つめた。
さっきまで自分を抱きしめてくれていた腕。穏やかな声。
(どうして二人とも……アタシをおいていくの……)
重々しい音が響き、視界が開けた。死天使が書架を引き倒したのだ。本が床に散乱する。
視線を感じた。死天使の顔が、自分に向けられているのだ。けれどもユニは逃げる気にはなれなかった。立ち上がることさえできない。足から力が抜けている。
大きな瞳にただ、事切れたサフィを映している。
死天使に向けて力を放出しようとしていたディヴィアが、訝った。
(……どうやらお前に用があるようだな)
乱暴に腕を掴まれて、ユニは顔を上げた。大剣はユニに振り下ろされることなく、死天使の背中の鞘に収められている。
死天使はユニを引き摺るようにして歩き始めた。死体を踏みつけて、扉から出ていく。
(面白い。少し様子を見てみるか)
自分に一体何が待ち受けているのか、ユニには考えられなかった。切り裂かれた心は、涙の代わりに血を流していた。




