01.季節は巡り◇
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季節は巡り、フェイヴァにとっては二度目の春が訪れた。
フェイヴァたちは、フレイ王国のルネという都市で暮らしていた。ディーティルド帝国を脱しても追っ手の影は執拗にふたりを狙っている。反帝国組織の兵士がときおり家を訪れ、ふたりは命じられるままに都市を移った。テレサとの暮らしは、平穏でいて慌ただしく過ぎていた。
あたり一面には、木の柵で囲まれた草原が広がっている。厩舎から出された五頭の牛が、散らばって草を食んでいた。
ルネの西にある農地区の一角。そこにフェイヴァはいた。テレサとの生活で農地区に足を運ぶようになってから、動物が穏やかに過ごしている様子を見るのが好きになったのだ。今ではひとりだけで農地区に来ることも多い。
柵の前でもごもごと口を動かしている牛に歩み寄り、フェイヴァはそろりと頭を撫でた。初めて牛を見たときは怖くて近づくこともできなかったが、今では触ることに抵抗もなくなった。
「ドンちゃん、美味しい?」
ドンちゃんとは、フェイヴァが触るようになった牛の愛称である。身体がずんぐりむっくりしていて、どんと大きいからドンちゃんという、安直な名付けである。額に特徴的な丸い模様があるため、どこにいてもすぐにわかった。
差し伸べられた手に反応したのか、牛は頭を上げた。きょろきょろと動く円らな瞳が愛らしい。濡れた鼻が冷たくて、フェイヴァは手を引っ込めた。
「いっぱい食べて、もっと大きくなってね」
「おーい!」
怒鳴るような野太い声がかけられて、フェイヴァは肩を跳ねらせた。草原を横切って近づいてくるのは、麦わら帽子を被ったいかつい顔の男だった。牛たちの飼い主だ。時々見かけることはあったが、フェイヴァは声をかけることは決してしなかった。
動物はフェイヴァを傷つけることはない。だが人間は違う。冷たい態度を取り、ひどい言葉を投げかけてくるかもしれない。
「またね、ドンちゃん」
フェイヴァは足を後ろに運ぶと、身を翻して逃げ出した。人前で走るときは速度に注意しなさいという、テレサの言葉を思い出す。全速力で駆け抜けたい衝動に駆られながら、フェイヴァは農地区から出た。
見知らぬ人たちに囲まれていると、際限なく不安が湧いてしまう。居住区に向かう乗客たちが乗る馬車の中で、フェイヴァは俯いていた。自宅に近づくと、御者に声をかけて降ろしてもらう。運賃を手渡すと足早に家に向かった。
こぢんまりとした家は木造特有の温かみを感じさせる。木の柵で囲まれた庭も一月前に整え、今では小さな花が咲いている。そよ風が白い花弁を揺らして、甘い香りを運んできた。
「ただいま」
フェイヴァが扉を閉めると、テレサが廊下を歩いてきた。たった今まで料理をしていたのだろう。両手を布巾で拭いている。若草色の前かけはテレサの銀髪を引き立て、後頭部で一つに纏められた長髪は、彼女の面長な顔をよりすっきりと見せていた。
二十四歳という年齢が作りだす容貌は若々しく、フェイヴァはときどきテレサのことを、母ではなく姉と呼んだほうがいいのではないかと思ってしまう。
「お帰りなさい。逃げることはなかったのに。その人はきっと、あなたが牛を見続けていたから、そんなに好きなら世話をしてみないかと言おうとしただけだわ」
テレサはすぐさまフェイヴァの不安を読み取った。もしもそれが本当なら、悪いことをしてしまったとフェイヴァは反省する。
「そうなのかも。私はすぐに怖くなってしまうんだ。いけないと思ってるんだけど」
フレイ王国に逃れてから、フェイヴァはテレサ以外の人とまともに対話をしたことがなかった。避けられるかもしれない。嫌悪の表情を浮かべられるかもしれない。悪い予感ばかりが先走って、声をかけることができない。人の顔を見るたびに思い出すのは、兵士たちの不審を露にした顔つきだ。
「今回は少し早計すぎたわ。次から気をつければいいのよ」
テレサに励まされて、フェイヴァは曖昧に頷く。テレサに続いて廊下を歩いた。
「フェイ、今日はなんの日か覚えている?」
フェイヴァを振り向いて、扉に手をかけたテレサが、にっこりと微笑んだ。フェイヴァはわからず首を傾ける。
彼女が扉を開くと、フェイヴァとテレサがくつろげる安らぎの空間が顔を出す。
台所と居間が一体となっている部屋は、テレサの家事好きが高じてちりひとつない。仕切りで区切られた台所に置かれた道具も、欠かさず手入れされているので輝いて見える。居間の壁際に置かれた本棚には、フェイヴァの好きな童話や絵本が並んでいる。中央に置かれた机にある物を見つけて、フェイヴァは瞳を輝かせた。
「お誕生日、おめでとう」
白い乳脂で飾りつけられた円形の菓子だ。フェイヴァの顔よりも大きいかもしれない。表面には甘く煮られた赤青黄色の花弁が散らされている。フレイ王国の伝統料理であるプルームと呼ばれる菓子である。
フェイヴァがいまわしい部屋の中で目覚めて、一年が経過したのだ。フェイヴァはこの一年間、ディーティルド帝国からフレイ王国にいたるまでの旅で起きた出来事を、できるだけ思い出さないようにしていた。レイゲンの背中に張り紙を貼ったり、彼に服を選んでもらったりと楽しいこともあったが、それ以上に辛い思い出の方が多かったのだ。
忘れようと努力し暮らしていく中で、フェイヴァは完全にテレサに心を開き、彼女もそれを受け入れた。母の前だけでは、明るく少々天然な自分の姿を、自然と見せられるようになったのだ。
「お母さん、ありがとう! 私今日で……何歳になるんだろう?」
テレサはプルームを切り分け、フェイヴァの前に置いた。杯に爽やかな香りのする茶を注ぐ。
「あなたの容姿は十五歳のまま変わらないけれど、あなたの目覚めた日を祝いたかったのよ」
「……そうなんだ。じゃあ、気持ちだけでも十六歳になれるように頑張るね!」
拳に力を込めて決意表明するフェイヴァに、テレサは嬉しそうな、それでいて影のある表情をする。
「主よ。今日という日を祝福くださり感謝します」
一日の始まりや食前後に祈るテレサを見て、フェイヴァもすっかり神への祈りが染みついてしまった。
小さな家庭祭壇からフェイヴァたちを見下ろしている聖王神オリジンの像に手を合わせたあと、フェイヴァは菓子に向き合った。突き匙で切り取り口に運ぶ。
酸味のあるさっぱりとした乳脂が、蜂蜜で煮られた花弁の甘さを引き立てていた。ふわふわの生地も甘さが控えめであり、乳脂の味つけのおかげでいくらでも食べられそうだ。
フェイヴァは頬に手を添えると瞳を閉じ、甘くて優しい味わいを堪能した。
「すごぉぉぉく美味しい!」
「ありがとう。喜んでもらえて嬉しいわ」
「今年のお母さんの誕生日は、私がお菓子を作るから楽しみにしててね!」
テレサの顔にびしっと指を突きつける。彼女は深く頷くと、はっとした表情をした。席を離れると、台所に隠していたらしい箱を持ってくる。桃色の織物で飾りつけられたそれを、フェイヴァに手渡した。
「誕生日と言ったらこれよ。はい」
「わーい! くれるの? ありがとう、開けてみてもいい?」
「いいわよ。私も見たいわ」
「うん! なんだろな~」
フェイヴァは逸る気持ちを押さえながら、包装された箱を開けた。薄橙色をした、上下一体となった衣服だ。下は太股が隠れるくらいまでの長さの筒型の衣装になっており、ゆとりのある胸元には蝶々結びにされた織物が飾りつけられている。テレサに促されて、フェイヴァは早速身につけてみた。
「どどーん! どうどう? 似合う?」
「……とても可愛いわ、フェイ」
テレサの前で回転すると、空気を含んだ衣装がふわりと踊る。フェイヴァは桃色の髪を指先でいじりながら、えへへと笑った。
ささやかな誕生会は、穏やかに過ぎていった。菓子を食べ終わったフェイヴァはテレサと一緒に食器を片付けた。テレサが前かけを脱ぎ畳んだのを見て、フェイヴァは壁にかけられた、ぜんまい式の時計を仰ぐ。
もうそろそろ午後の勉強の時間だ。フェイヴァは自分の部屋から、教本を持ってこようとする。
「待って、フェイ。話があるの。椅子に座って」
テレサは階段に足をかけたフェイヴァを見上げた。母の真摯な表情に、何かただならないものを感じる。頭をもたげたのは、不吉な予感だった。不安を拭い去りたくて、フェイヴァはテレサに提案する。
「何を話したいのか、当ててみようか?」
フェイヴァはテレサの瞳を見つめる。頭の中に浮かんできたのは、まとまりのない映像だった。めまぐるしく場面が変わり、状況を判断することができない。
「む~ん。やっぱり駄目かあ」
テレサと暮らしていく中でフェイヴァに備わった、不思議な力。相手の目から特定の記憶を読み取る能力。そういう不可思議な能力を持って生まれてくるのは人間だけらしい。
なぜ死天使である自分がそんな力に目覚めたのだろう。テレサは原因がわからないと言っていた。けれど、フェイヴァは不安に思うことはなかったのだ。
テレサも、人の心と記憶を読むことができる。母から娘へ能力が遺伝したのかもしれない。そう考えると、まるで血の繋がりのように、不可思議な能力は尊く感じられた。
様々な人の目を通して過去を見てきたフェイヴァだったが、テレサの記憶は今のところまったく読み取れない。記憶が奔流のように押し寄せてきて、はっきりとした形を捉えることができないのだ。
フェイヴァは諦めて、椅子に腰かけた。テレサはフェイヴァの向かいに座る。
「……フェイ、学校に行ってみるつもりはない?」
「え?」
テレサの突然の提案に、フェイヴァは戸惑いの声をもらした。
都市の公共区には、五歳から十五歳までの子供が通う共通校がある。フェイヴァの容姿は十五歳程度であるため入学することはできないだろう。共通校より発展した学問を教える、高位校というものもあるのだが、フェイヴァはつい最近基礎的な勉強をテレサに習い始めたばかりだ。高位校のレベルにはとてもついていけない。
「ウルスラグナという学校があるの。反帝国組織の指導者が、あなたをそこに入学させてもいいと言ってくれたのよ」
「その人が通わせたい学校って……もしかして」
フェイヴァの言葉を次ぐように、テレサは口を開いた。
「ウルスラグナは、都市の治安を守る守衛士や、王に仕える国軍兵士を育成する訓練校よ。けれどそれは表向きの顔。本来は、反帝国組織の兵士を養成するために設立された機関なの」
フェイヴァは絶句した。兵士──彼らは自分を、ディーティルド帝国との戦争に出すつもりなのか。
よりによって、誕生日という記念すべき日。フェイヴァの平穏な生活は終焉を迎えたのだった。




