08.黄昏に祈る(1)
◇◇◇
地帝の月――二十四日。秋半ばの月も、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
その日は朝から冷え込み、通路を巡回していた守衛士の息が白く染まるほどだった。
獄所の外からは、雨の音が聞こえている。雨粒が石畳を跳ねる音は不規則な曲調を刻んでいて、どこか物悲しげに思えた。
フェイヴァは薄い毛布を抱き締めて、身体を丸めていた。暗闇の中に意識を浸していると、石の壁一枚挟んでいるというのに外の雨音が驚くほど澄んで聞こえた。濡れるのも厭わずに、雨の中に立っているような気分になる。天から花弁のように舞い落ちてくる雨の冷たさを、肌に感じるようだった。
(……来てくれるかな)
守衛士がたった今消えていった通路に、フェイヴァは視線を投げる。
今日、フェイヴァに好意的な守衛士たちが牢獄に駐在するのは、昼を過ぎた頃だ。フェイヴァはこの日のために、昨日の朝面会にきてくれたハイネたちに頼み事をしていた。
明日の昼にユニに牢獄にきてもらいたいと、フェイヴァが口にすると、案の定ハイネは渋い顔をした。
『もしかして、謝るつもりじゃないよね。ユニが私を怖がるのも仕方がないからって? ……いい加減に学習したら。はっきり言うけど、話すだけ無駄だよ』
ハイネの隣に立っていたルカは、彼女にちらりと案ずるような眼差しを向けた。
フェイヴァに向き直り、どこか哀れみを感じさせる表情をする。
『こんなことあんまり言いたくないけど……ハイネの言う通りだ。また嫌な思いするだけだぞ』
フェイヴァの目線に立って物を考えてくれるハイネならまだしも、中立の立場だと思っていたルカまでもが、最早ユニとフェイヴァの仲を修復できないと断ずるとは。
正直、傷ついた。
『ユニのことを、恨んでる?』
ハイネとルカの言葉遣いに心痛を湛えたかのような顔つきをしていたサフィが、ためらい勝ちに声をかける。
『……よくわからない。悲しい気持ちの方が大きいかな』
ユニに好意を抱いているサフィに気を使ったわけではない。それはフェイヴァの、素直な気持ちだった。
『私はユニに謝りたいわけじゃない。ユニが気に入るような言動を取るつもりもない』
『じゃあ、何?』
腰に手を当てて見下ろしてくるハイネの視線を、フェイヴァはしっかりと受け止める。
『ユニとミルラは、訓練校に入って初めてできた友達なんだ。それなのに、ミルラが亡くなってしまってから、私たちきちんと話をしてない。私は五日後に、この都市から出ていかなきゃいけない。大切な友達と、このまま別れるなんて……嫌なんだ』
反帝国組織に連れていかれれば、戦場に立ちディーティルド帝国の人間や兵器と戦わなければならない。この先、自分がどうなっていくのかわからないのだ。
悔いは残したくない。
『だから、お願い』
フェイヴァは三人に頭を下げた。
『わかった。ユニには僕から伝えてみるよ』
憂慮を抱いた風に顔を曇らせるハイネとルカとは違い、サフィは快く了承してくれた。
『サフィ、ありがとう』
***
不安と緊張がない交ぜになった感情を抱き続けていると、時間は恐ろしく長く感じられる。
昼に近づく頃には、降り続いていた雨は止んだ。兜や軽鎧に水滴をつけた守衛士が、フェイヴァの顔を見にくるついでにパンを持ってきてくれた。普段は自然に喋れるのに、時間が差し迫ってくると胸が張り裂けそうになってしまって、フェイヴァは口数が少なくなってしまう。
頭を過るのは、牢獄に入る前に見たユニの顔だ。
明るい微笑みは消え失せ、瞳には暗い愉悦がにじんでいる。
(……いけない)
脳裏に焼きついたユニの顔を忘れてしまおうと、思考を切り替える。
(雨がやんでよかった。今も降り続いてたら、ユニはきっときてくれない。風邪を引いちゃうもの)
無理矢理に捻り出してみて、自嘲する。
何故ユニがきてくれると期待しているのだろう。彼女はきっとフェイヴァの顔を見たくないはずだ。サフィに頼まれたとしても、気持ちは揺るがないかもしれない。天気が回復したとして、彼女の心が晴れるわけではないのだから。
明度を調節された薄暗い牢屋に、蝋燭の火が揺らめいている。
フェイヴァは、守衛士が立ち去って行った通路を見つめていた。自然に背筋が伸びていて、自分の心がいかに張り詰めているか実感させられる。
通路の奥から守衛士の呼び声が聞こえたのは、それからいくらも経たない内だった。
石の床を擦る、男のものとは違う軽い靴音。
「……ユニ」
絹のように繊細で緩やかな、ユニの金色の髪。壁に備えつけられた蝋燭の明かりを受けると、それは夕陽の下で波打つ小麦のように、輝いて見えた。
長い睫毛に縁取られた、海を投影した瞳。ユニはそれを、真っ直ぐにフェイヴァに向けた。
「……来て、くれたんだね……」
ユニが会いに来てくれたというだけで、身内から込み上げてくるものがあった。視界がぼやけてしまって、フェイヴァは慌てて顔を伏せる。目の下を拭った。
「ありがとう。私……もう、ユニに会えないんじゃないかって思ってたから……」
ユニはフェイヴァの前まで歩いてくると、片手で髪を梳く。座る様子はない。
「……何の用なの? 今更」
冷淡な声。覚悟していたとはいえ、フェイヴァは哀情を覚えずにはいられなかった。
彼女は自分に会いたがってくれていたかもしれない。ありえるはずのない淡い希望を、一瞬だけでも抱いてしまったのだ。
「あんたと話すことなんて何もないわ。アタシに、文句の一つや二つ言う気になったの? ……当然よね。こんな場所に閉じ込められちゃったんだから」
ユニは自身の背丈を優に越えている鉄格子に顔を向ける。口の端がつり上がり、皮肉めいた笑みをつくる。
「……違うよ。そんなことしない」
きっぱりと言い切ると、ユニの顔が怒気に歪んだ。
「あんた、相変わらずなのね。普通こんなことされたら、相手を罵るだけじゃ足りないわよ。……そういうところが、理解できない」
フェイヴァとユニ。
機械と人間。
二人の間には望洋とした距離が開き、今となっては互いの顔さえ認識できない。
声は届かない。思いは見えない。
「……私のことはどうでもいい。私はユニに聞きたいことがあるんだ」
フェイヴァが発した声は、乾いている。
「こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけど、私……最初はユニがレイゲンさんに向ける感情がなんなのか、わかってなかったんだ。だから、ユニがいる前でレイゲンさんと話したりしてた。ユニが不愉快な気持ちになるってこと、全然理解してなかった」
ユニの顔を見つめていられずに、膝下に視線を落とした。彼女がどのような表情をしているのか、確かめるのが怖かったのかもしれない。
「ミルラが……いなくなって」
一気に言い切ってしまえずに、尻込みし吐息を落とす。
石床を擦る靴音が、一際大きく響いた。ユニはフェイヴァから二三歩離れていた。彼女もまた、ミルラを振り返るのが辛く苦しいのだろう。
「悲しくて辛くて、どうしようもなくなったのはわかるよ。今もまだ引き摺ってると思う。忘れることなんてできない。
衝撃に打ちのめされたことと、私が今までユニにしてきたことが積み重なって……私は今、ここにいるんだよね。
自分の中で答えを見つけようとしてみたけど……納得できないんだ。本当に、それが理由なの?」
伏せていた顔を上げて、ユニを見やる。
彼女は少し、驚いた風でもあった。強張った口許。青い瞳が小さく揺れる。
「私が死天使だったこと、ユニに嫌な気持ちをさせたこと、悲しい出来事――それが、ユニにこんなことをさせたの? ……他にも何か、理由があるんじゃないの?」
確証があるわけではない。
ユニを信じたい。彼女は本心からこんなことをしたのではないと、思いたかった。当事者以外の人間から見ても、フェイヴァを裏切る正当な理由があった。それを知って、自分を慰めたいだけなのかもしれない。
「立ち尽くしていた私に、二人は話しかけてくれて、友達になってくれた。どこに行くにも一緒だった。私が狩人の人を殴っちゃった時も、心配して追いかけてきてくれて……そんなユニが、こんなことをするなんて……まだ、信じられないんだ」




