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機械仕掛けの天使は闇夜を翔る  作者: 夏野露草
8章 魔の血族
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20.闇に沈む




 気を失えればよかった。


 自分の身に起こっていることは悪夢なのだと、現実逃避したかった。


 きつく瞳を閉じて、願いとともに瞼を持ち上げるのだ。そこにはきっと、変わることがない日常が待っている。


 母が作ってくれた朝食を食べて、共通校に向かう、当たり前の日常が。


 けれどもレイゲンの肉体は、精神に反して今に目を向けさせた。断崖絶壁の下に広がる、絶望よりもなお色深い、暗黒。


 奈落の現実に。


 天井の崩落が収まって、レイゲンは身にのしかかった瓦礫を退けた。身体を動かすと、石材は騒々しく床に転がり落ちた。衣服が裂けていたが、身体には掠り傷程度しか負っていない。驚くほどの軽傷は、ほどなく癒えてしまう。


 頭上から鈍い光が差し込んできて、レイゲンは仰ぐ。


 天井にぽっかりと空いた穴から、夜空が見えていた。


 石材を組み合わせた壁は、不自然に丸く切り取られている。父が放った漆黒の刃が、レイゲンがいる部屋の天井と、その上に建つ屋敷を突き抜けていったのだろう。


 風が鳴き声を上げて吹き下ろしてくる。天井の断面から、石の欠片が転がり落ちてくる。


 レイゲンの耳はただ、天井から剥がれ落ち、瓦礫にぶつかってくる礫の、カラカラとした音を拾っていた。


 他には何もない。


 思うことも、考えることもできなかった。


『マティアもお前のことを心配していたぞ』


 真っ白だった頭が急激に思考力を取り戻したのは、守衛士を殺した父の発言を思い出したからだった。


(……お母さん)


 レイゲンにひどい仕打ちをし、守衛士を殺した父だ。屋敷に残った母に何をしているかわからない。


 一度考え出すと、胸の奥から吐き気のように、焦りが這い上がってきた。


「……お母さんを、探さないと」


 レイゲンは床に敷き詰められた石を踏みつけて、立ち上がった。部屋の外に出て、階段を上がる。扉を開くと、見慣れた廊下が広がっていた。


 後ろを向いて、扉に施された装飾を見上げる。


 父が屋敷を空けるようになってから、レイゲンは父の面影を求めて、よくこの扉の前に立っていた。


 檻が並べられていたあの部屋は、父が秘密にし続けていた地下室だったのだ。


 灯火が消えた屋敷は、薄気味悪いほどの静けさを湛えている。


 室内には、外と同様に夜が満ちている。最早暗闇は、レイゲンの視野を妨げることはなかった。


 真っ直ぐに続く廊下。


 壁に飾られた大剣や鎧が、くっきりとした彩度を放っている。


 自己の変化について、思い悩んでいる場合ではない。そもそも、それについて深く思考を巡らせることさえ、今は耐えられない。


 レイゲンは強く頭を振ると、足早に歩き始めた。


 廊下を過ぎ、絨毯が敷かれた大広間に足を踏み入れた時だった。


 泣き声が耳に入り、レイゲンは足を止める。絨毯をゆっくりと這いずる音も、悲痛な嗚咽の合間から聞こえていた。


 大広間の奥から、誰かが近づいてくる。


「……お母さん?」


 地下室であれだけ泣き叫んだというのに、レイゲンは喉を痛めていなかった。


 やるせなさを帯びた自身の声が、壁に当たって跳ね返ってくる。


 途端、絨毯を這いずる音が大きくなった。


 悲しみに暮れていた声が、唐突に叫び声に変化する。


 終わりなき激痛に苛まれているかのように、尾を引いて響き続ける。


 小さなシルエットが、急速に距離が縮まるごとに、色と形を明らかにする。視界に映し出された――それ。


 引きつけを起こしたみたいに、レイゲンは息を吸い込んだ。悲鳴は出なかった。


 仰向けの状態で、両手両足を床について歩行する化物。途切れることなく叫びを上げるのは、頭部についた口だ。あべこべに頭についた赤い瞳が、レイゲンを注視している。


 その異様な姿はとても素早く動けるようには見えなかったが、想像とは裏腹に、痩せ細った手足は獣じみた躍動を見せる。


 レイゲンは身を翻し駆け出した。が、化物は俊敏だった。すぐに追いつかれてしまい、背後から飛びつかれる。



 レイゲンの片足に頭部が激しく噛みついた。牙の間から、興奮を帯びた歓喜の叫びを発する。


「うわぁっ!」


 レイゲンは無事な方の足で、化物を蹴った。薄い肉と骨の感触が、靴裏にはっきりと伝わる。


 怯ませる程度の効果しかないと考えていた蹴りは、レイゲンの予想に反して爆発的な威力を見せた。ぎゃっ、と呻きをもらして、化物は後方に吹き飛んだ。


 轟音とともに壁に叩きつけられる。壁の一部が壊れ、石材が化物の上に崩れた。


 レイゲンは一瞬、自分が怖くなる。


 床に這いつくばっていた化物は、ゆらりと身を起こした。レイゲンを探して頭を動かすと、四肢で床を這ってくる。悲鳴なのか絶叫なのかわからない声が、甲高く鳴り渡りレイゲンの鼓膜を激しく震わす。


 レイゲンは片足で跳ねるような走り方をして、廊下に引き返す。


 化物を蹴りつけた瞬間の感触が、鳥肌が立つほど恐ろしかった。もう二度と味わいたくない。


 武器になりそうなものを探してさまよわせた視線の先に、壁に飾られた大剣が映る。しかし背が低く、手を伸ばしたくらいでは柄に届かない。


 直感に突き動かされるまま跳躍すると、柄を掴み大剣を引き抜いた。


 自身の半身ほどの長さがある刀身を、レイゲンは迫ってくる化物に突きつけた。


 昔、父に抱えてもらって柄を握ってみた時には、かすかに動かすことさえできなかったのに。


 手の中の大剣は、食事用のナイフと同じくらいの軽さだった。


「く、来るな!」


 精一杯の大声で威嚇する。装飾用の大剣だが、レイゲンには本物の刃と違わぬ鋭さを宿しているように見えた。


 張り上げた声と鋭利な刃先に、化物が恐れをなして逃げていかないかと一瞬期待する。


 しかし、化物は背中を見せるどころか、速度を緩めることなく接近してきたのだ。黒々とした髪の間から、頭頂に開いた口が覗く。


 赤々とした口内が、黄色く変色した牙が、レイゲンの肉を食み骨を砕こうと迫る。


 足が震えて、今にも床に倒れそうになりながら。歯を食い縛って荒い呼吸をし、レイゲンは両腕で大剣を振り下ろした。


 硬い手応えは、刀身が化物を斬り裂いた感触ではなかった。振り抜いた大剣は、刃を床に沈ませていたのだ。


 回り込んで刃を回避した化物は、頭を突き出しレイゲンに突進する。


 逃げなければ。


 瞬時に浮かんだ思考に答命じられるまま、レイゲンは床を蹴った。後ろに跳ぶつもりで運んだ足は、次の瞬間にはレイゲンの身体を宙に跳躍させていた。


「……えっ!?」


 涙が滲んでいた瞳を、大きく見開く。


 身体を包み込む浮遊感。横幅のある廊下が、ずっと低い位置にある。


(僕の身体、浮いてる……!?)


 あまりの驚愕に、呼吸さえ止まりそうになる。


 たった一度の跳躍で、レイゲンの身体は軽々と宙に浮かんだ。そればかりではない。今は天井と床の中間で浮遊しているが、レイゲンの意志の持ちようで、更に高く上昇し、鳥のごとく天井すれすれを飛ぶことも可能だった。


 おぞましい肉片によって与えられた力が、レイゲンの身体に馴染み、開花し始めている。


 それは空想などではなく、身の内から沸き上がった確信であった。


 化物は、四肢を踏み締め跳躍した。レイゲンの足に食らいつこうと、頭頂の口を大きく開ける。


 体内から吹き上がる力が、レイゲンの周囲で形を創る。暗夜を切り取った色をした刃が生成され、投擲された槍よろしく次々に化物へと殺到する。


 隙間もないほど肉体に刃を突き立たせた化物は、床に叩きつけられた。赤い液体を吹き出して、今際いまわきわに身体を痙攣させる。


 レイゲンが離れた場所に着地した頃には、突き刺さった刃は消滅しており、化物は物言わぬ肉塊に成り果てていた。


 仕方なかった。他にどうしようもなかった。自分に言い訳しても、化物から流れ続けている血液の色は、レイゲンの胸を凍えさせた。


(……なんだよ、これ。なんでこんな……)


 レイゲンは床に膝をつくと、身体を両腕で抱き締めた。そうしていないと、震えが止まらなかったのだ。


 涙が静かに、頬を流れる。


***


 頭痛が起きるまで泣き続けて、レイゲンはやっと立ち上がった。


 重い足を引き摺って化物の横を通り過ぎると、床に突き刺さっていた大剣を引き抜いた。


 無理矢理押しつけられたこの不気味な力を使うくらいなら、大剣を振り回している方がずっとマシだった。刃が肉を裂く感触の方が、力をひけらかして、一歩ずつ化物に近づいていく気持ちになるよりも、遥かに気が楽だったのだ。


(空を飛んだり……子供じゃ考えられない怪力を出したり……)


 噛みつかれた足には、かすかな痛みさえ残っていない。無数の刃を使役するこの能力も、今まで聞いたことがなかった。


 父の書斎で、覚醒者と特殊覚醒者の能力をまとめた本を読んだことがある。生き物の体内や、空気中に漂うエネルギーを反応させて力を発現させる覚醒者。彼らが使える能力の種類は決まっており、【治癒のアイル】、【攻撃のフラム】、【防御のボーデン】、【補助のヴィエトル】と四つに分類される。


 それらに該当しない能力を持つ者を特殊覚醒者と呼ぶが、その大半が人の感情や記憶を読み取る能力だ。


 力を使っていないのに身体能力が向上したり、空を浮遊したりといったことができる特殊覚醒者の存在など、本には記されていなかった。


『魔獣の上位種。妖魔の肉片を、お前の身体に縫い合わせてやった。お前はもう人間ではない。私と同じ半妖になったのだ』


 暗い興奮に彩られた父の声が、生々しく蘇る。


 屋敷の天井を貫いて、翼もなく飛び立っていった父。レイゲンは彼と同じことができるようになってしまった。父の言う通り、自分も人間ではなくなってしまうのだろうか。


 曇りのない銀の刀身に己の瞳を映しそうになって、レイゲンは顔をしかめた。気の迷いを、胸の深い場所に押し込める。


 今は余計なことを考えずに、母の捜索に意識を向けるべきだ。けれども何も考えずに、足を進ませるということがレイゲンにはできなかった。


 乱心してしまった父。母の安否。明らかな変化をきたしている、自分の身体。


 気を抜けば囚われて動けなくなってしまう煩悶はんもんが、背中から迫ってきている。何かを頭に描いていなければ、押し潰されてしまいそうなのだ。


 広間を横切りながら、ふと自分が殺した化物に目を向ける。五本の指。白い手足が床にだらりと投げ出されていた。


 地下室の扉の前で耳を澄ませていた時に、聞こえてきた呻き声らしきもの。地下室に並んでいた四台の檻。そして、父の言葉。


『魔獣の肉を埋め込んだ出来損ないども』


 父は家族に知られぬように、常軌を逸した実験を繰り返していたのだ。何食わぬ顔をしながら、なんとおぞましいことに手を染めていたのか。


 化物の正体は、少し頭を巡らせれば簡単に理解できることだった。だがレイゲンは、答えを追求することを止めた。


 自分のしでかしたことを、理解してはならない。それは足を止めこそすれ、進めさせる原動力にはならないのだ。悟ったが最後、恐怖と嫌悪と狂気に晒され、やがて飲み込まれてしまうのだから。


 レイゲンは大剣の刃を引き摺りながら、前に進んだ。母を探しだす。それ以外の事柄を、胸に思い浮かべることは危険だった。


(お母さん……!)


 母と二人でこの屋敷から出られれば、壊されたはずの生活が、帰ってくるような気がした。


 母さえいてくれれば、自分の身に起こった何もかもを、悪夢だったと忘れ去れる。


 きっと、できるはずだ。


 心の底からそう信じた。



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