20.闇に沈む
気を失えればよかった。
自分の身に起こっていることは悪夢なのだと、現実逃避したかった。
きつく瞳を閉じて、願いとともに瞼を持ち上げるのだ。そこにはきっと、変わることがない日常が待っている。
母が作ってくれた朝食を食べて、共通校に向かう、当たり前の日常が。
けれどもレイゲンの肉体は、精神に反して今に目を向けさせた。断崖絶壁の下に広がる、絶望よりもなお色深い、暗黒。
奈落の現実に。
天井の崩落が収まって、レイゲンは身にのしかかった瓦礫を退けた。身体を動かすと、石材は騒々しく床に転がり落ちた。衣服が裂けていたが、身体には掠り傷程度しか負っていない。驚くほどの軽傷は、ほどなく癒えてしまう。
頭上から鈍い光が差し込んできて、レイゲンは仰ぐ。
天井にぽっかりと空いた穴から、夜空が見えていた。
石材を組み合わせた壁は、不自然に丸く切り取られている。父が放った漆黒の刃が、レイゲンがいる部屋の天井と、その上に建つ屋敷を突き抜けていったのだろう。
風が鳴き声を上げて吹き下ろしてくる。天井の断面から、石の欠片が転がり落ちてくる。
レイゲンの耳はただ、天井から剥がれ落ち、瓦礫にぶつかってくる礫の、カラカラとした音を拾っていた。
他には何もない。
思うことも、考えることもできなかった。
『マティアもお前のことを心配していたぞ』
真っ白だった頭が急激に思考力を取り戻したのは、守衛士を殺した父の発言を思い出したからだった。
(……お母さん)
レイゲンにひどい仕打ちをし、守衛士を殺した父だ。屋敷に残った母に何をしているかわからない。
一度考え出すと、胸の奥から吐き気のように、焦りが這い上がってきた。
「……お母さんを、探さないと」
レイゲンは床に敷き詰められた石を踏みつけて、立ち上がった。部屋の外に出て、階段を上がる。扉を開くと、見慣れた廊下が広がっていた。
後ろを向いて、扉に施された装飾を見上げる。
父が屋敷を空けるようになってから、レイゲンは父の面影を求めて、よくこの扉の前に立っていた。
檻が並べられていたあの部屋は、父が秘密にし続けていた地下室だったのだ。
灯火が消えた屋敷は、薄気味悪いほどの静けさを湛えている。
室内には、外と同様に夜が満ちている。最早暗闇は、レイゲンの視野を妨げることはなかった。
真っ直ぐに続く廊下。
壁に飾られた大剣や鎧が、くっきりとした彩度を放っている。
自己の変化について、思い悩んでいる場合ではない。そもそも、それについて深く思考を巡らせることさえ、今は耐えられない。
レイゲンは強く頭を振ると、足早に歩き始めた。
廊下を過ぎ、絨毯が敷かれた大広間に足を踏み入れた時だった。
泣き声が耳に入り、レイゲンは足を止める。絨毯をゆっくりと這いずる音も、悲痛な嗚咽の合間から聞こえていた。
大広間の奥から、誰かが近づいてくる。
「……お母さん?」
地下室であれだけ泣き叫んだというのに、レイゲンは喉を痛めていなかった。
やるせなさを帯びた自身の声が、壁に当たって跳ね返ってくる。
途端、絨毯を這いずる音が大きくなった。
悲しみに暮れていた声が、唐突に叫び声に変化する。
終わりなき激痛に苛まれているかのように、尾を引いて響き続ける。
小さなシルエットが、急速に距離が縮まるごとに、色と形を明らかにする。視界に映し出された――それ。
引きつけを起こしたみたいに、レイゲンは息を吸い込んだ。悲鳴は出なかった。
仰向けの状態で、両手両足を床について歩行する化物。途切れることなく叫びを上げるのは、頭部についた口だ。あべこべに頭についた赤い瞳が、レイゲンを注視している。
その異様な姿はとても素早く動けるようには見えなかったが、想像とは裏腹に、痩せ細った手足は獣じみた躍動を見せる。
レイゲンは身を翻し駆け出した。が、化物は俊敏だった。すぐに追いつかれてしまい、背後から飛びつかれる。
レイゲンの片足に頭部が激しく噛みついた。牙の間から、興奮を帯びた歓喜の叫びを発する。
「うわぁっ!」
レイゲンは無事な方の足で、化物を蹴った。薄い肉と骨の感触が、靴裏にはっきりと伝わる。
怯ませる程度の効果しかないと考えていた蹴りは、レイゲンの予想に反して爆発的な威力を見せた。ぎゃっ、と呻きをもらして、化物は後方に吹き飛んだ。
轟音とともに壁に叩きつけられる。壁の一部が壊れ、石材が化物の上に崩れた。
レイゲンは一瞬、自分が怖くなる。
床に這いつくばっていた化物は、ゆらりと身を起こした。レイゲンを探して頭を動かすと、四肢で床を這ってくる。悲鳴なのか絶叫なのかわからない声が、甲高く鳴り渡りレイゲンの鼓膜を激しく震わす。
レイゲンは片足で跳ねるような走り方をして、廊下に引き返す。
化物を蹴りつけた瞬間の感触が、鳥肌が立つほど恐ろしかった。もう二度と味わいたくない。
武器になりそうなものを探してさまよわせた視線の先に、壁に飾られた大剣が映る。しかし背が低く、手を伸ばしたくらいでは柄に届かない。
直感に突き動かされるまま跳躍すると、柄を掴み大剣を引き抜いた。
自身の半身ほどの長さがある刀身を、レイゲンは迫ってくる化物に突きつけた。
昔、父に抱えてもらって柄を握ってみた時には、かすかに動かすことさえできなかったのに。
手の中の大剣は、食事用のナイフと同じくらいの軽さだった。
「く、来るな!」
精一杯の大声で威嚇する。装飾用の大剣だが、レイゲンには本物の刃と違わぬ鋭さを宿しているように見えた。
張り上げた声と鋭利な刃先に、化物が恐れをなして逃げていかないかと一瞬期待する。
しかし、化物は背中を見せるどころか、速度を緩めることなく接近してきたのだ。黒々とした髪の間から、頭頂に開いた口が覗く。
赤々とした口内が、黄色く変色した牙が、レイゲンの肉を食み骨を砕こうと迫る。
足が震えて、今にも床に倒れそうになりながら。歯を食い縛って荒い呼吸をし、レイゲンは両腕で大剣を振り下ろした。
硬い手応えは、刀身が化物を斬り裂いた感触ではなかった。振り抜いた大剣は、刃を床に沈ませていたのだ。
回り込んで刃を回避した化物は、頭を突き出しレイゲンに突進する。
逃げなければ。
瞬時に浮かんだ思考に答命じられるまま、レイゲンは床を蹴った。後ろに跳ぶつもりで運んだ足は、次の瞬間にはレイゲンの身体を宙に跳躍させていた。
「……えっ!?」
涙が滲んでいた瞳を、大きく見開く。
身体を包み込む浮遊感。横幅のある廊下が、ずっと低い位置にある。
(僕の身体、浮いてる……!?)
あまりの驚愕に、呼吸さえ止まりそうになる。
たった一度の跳躍で、レイゲンの身体は軽々と宙に浮かんだ。そればかりではない。今は天井と床の中間で浮遊しているが、レイゲンの意志の持ちようで、更に高く上昇し、鳥のごとく天井すれすれを飛ぶことも可能だった。
おぞましい肉片によって与えられた力が、レイゲンの身体に馴染み、開花し始めている。
それは空想などではなく、身の内から沸き上がった確信であった。
化物は、四肢を踏み締め跳躍した。レイゲンの足に食らいつこうと、頭頂の口を大きく開ける。
体内から吹き上がる力が、レイゲンの周囲で形を創る。暗夜を切り取った色をした刃が生成され、投擲された槍よろしく次々に化物へと殺到する。
隙間もないほど肉体に刃を突き立たせた化物は、床に叩きつけられた。赤い液体を吹き出して、今際の際に身体を痙攣させる。
レイゲンが離れた場所に着地した頃には、突き刺さった刃は消滅しており、化物は物言わぬ肉塊に成り果てていた。
仕方なかった。他にどうしようもなかった。自分に言い訳しても、化物から流れ続けている血液の色は、レイゲンの胸を凍えさせた。
(……なんだよ、これ。なんでこんな……)
レイゲンは床に膝をつくと、身体を両腕で抱き締めた。そうしていないと、震えが止まらなかったのだ。
涙が静かに、頬を流れる。
***
頭痛が起きるまで泣き続けて、レイゲンはやっと立ち上がった。
重い足を引き摺って化物の横を通り過ぎると、床に突き刺さっていた大剣を引き抜いた。
無理矢理押しつけられたこの不気味な力を使うくらいなら、大剣を振り回している方がずっとマシだった。刃が肉を裂く感触の方が、力をひけらかして、一歩ずつ化物に近づいていく気持ちになるよりも、遥かに気が楽だったのだ。
(空を飛んだり……子供じゃ考えられない怪力を出したり……)
噛みつかれた足には、かすかな痛みさえ残っていない。無数の刃を使役するこの能力も、今まで聞いたことがなかった。
父の書斎で、覚醒者と特殊覚醒者の能力をまとめた本を読んだことがある。生き物の体内や、空気中に漂うエネルギーを反応させて力を発現させる覚醒者。彼らが使える能力の種類は決まっており、【治癒の水】、【攻撃の火】、【防御の土】、【補助の風】と四つに分類される。
それらに該当しない能力を持つ者を特殊覚醒者と呼ぶが、その大半が人の感情や記憶を読み取る能力だ。
力を使っていないのに身体能力が向上したり、空を浮遊したりといったことができる特殊覚醒者の存在など、本には記されていなかった。
『魔獣の上位種。妖魔の肉片を、お前の身体に縫い合わせてやった。お前はもう人間ではない。私と同じ半妖になったのだ』
暗い興奮に彩られた父の声が、生々しく蘇る。
屋敷の天井を貫いて、翼もなく飛び立っていった父。レイゲンは彼と同じことができるようになってしまった。父の言う通り、自分も人間ではなくなってしまうのだろうか。
曇りのない銀の刀身に己の瞳を映しそうになって、レイゲンは顔をしかめた。気の迷いを、胸の深い場所に押し込める。
今は余計なことを考えずに、母の捜索に意識を向けるべきだ。けれども何も考えずに、足を進ませるということがレイゲンにはできなかった。
乱心してしまった父。母の安否。明らかな変化を来している、自分の身体。
気を抜けば囚われて動けなくなってしまう煩悶が、背中から迫ってきている。何かを頭に描いていなければ、押し潰されてしまいそうなのだ。
広間を横切りながら、ふと自分が殺した化物に目を向ける。五本の指。白い手足が床にだらりと投げ出されていた。
地下室の扉の前で耳を澄ませていた時に、聞こえてきた呻き声らしきもの。地下室に並んでいた四台の檻。そして、父の言葉。
『魔獣の肉を埋め込んだ出来損ないども』
父は家族に知られぬように、常軌を逸した実験を繰り返していたのだ。何食わぬ顔をしながら、なんとおぞましいことに手を染めていたのか。
化物の正体は、少し頭を巡らせれば簡単に理解できることだった。だがレイゲンは、答えを追求することを止めた。
自分のしでかしたことを、理解してはならない。それは足を止めこそすれ、進めさせる原動力にはならないのだ。悟ったが最後、恐怖と嫌悪と狂気に晒され、やがて飲み込まれてしまうのだから。
レイゲンは大剣の刃を引き摺りながら、前に進んだ。母を探しだす。それ以外の事柄を、胸に思い浮かべることは危険だった。
(お母さん……!)
母と二人でこの屋敷から出られれば、壊されたはずの生活が、帰ってくるような気がした。
母さえいてくれれば、自分の身に起こった何もかもを、悪夢だったと忘れ去れる。
きっと、できるはずだ。
心の底からそう信じた。




