19.狂気
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レイゲンがまず感じたのは、尋常ならざる痛みだった。
口から絶叫が迸る。今まで生きてきたなかでの、最大の痛苦がその小柄な身体に襲いかかっていた。半ば半狂乱になり、涙を流しながらもがく。
床を激しく掻きむしり、爪が剥がれる。それは身体の痛みに比べれば、取るに足らない苦痛だった。レイゲンは構わず叫び続け床を転がった。
声が掠れるまで悲鳴を上げ、涙が枯れるまで泣いて、やがて身体が弛緩した。小刻みに痙攣する。
「想像を絶する痛みだろう。だが、越えなければならない。人間を超越するために。……恐れるな。痛みはじきに治まる」
父の冷徹な声が、遠くから聞こえた。
しかし、意識が朦朧とした今のレイゲンでは、父の言葉の意味を理解することができなかった。
痛みに苛まれるまま、掠れて甲高くなった弱々しい悲鳴を喉の奥から絞り出す。
手放しかけた意識が激痛によって鮮明になる。それを数えきれないほど繰り返して、レイゲンはやっと呼吸が楽になったことに気づく。
冥界で受ける断罪に等しく思えるほど、身体を蝕んでいた痛み。それはゆっくりと和らいでいき、やがて引いていった。
レイゲンは忙しく呼吸を繰り返した。多大な疲労により、眠るように気を失うかと思ったが、予想に反して身体は剛健な反応を見せた。
疲れきっているというよりも、力が湧いてくるのだ。今まで泣き叫んでいたのは、夢だったのかと錯覚しそうなほどに。
身体のどこにこれほどまでの気力が蓄えられていたのだろう。レイゲンは上半身を起こして、首を巡らせる。
奥行きのある部屋の中に、レイゲンはいた。壁に設置された燭台には火が灯されていないが、何故か視界が暗闇に閉ざされることはない。
レイゲンのそばには古めかしい台があり、父が持ち帰ってきた鞄の中身がぶちまけられていた。蓋が外れた数本のガラスの筒と、血に濡れたナイフが転がっている。
壁際に設置された書棚は埃を被っており、長年誰の手入れも受けていないことが見て取れた。書棚の前には、四台の檻が並んでいる。中には何も捕らえられておらず、開かれた扉が軋んだ音を立てていた。
石造りの内装には、強い既視感がある。ここは屋敷の一室だ。けれども檻がある部屋なんてあっただろうか。
「素晴らしい……! やはり死ぬことはなかったか。お前は正真正銘、私の息子だ……!」
高ぶった声とともに近づいてきた父は、レイゲンの前で立ち止まる。
血のついた白衣から、黒いコートに着替えていた。仕事に行く際の父の正装だった。服装だけを見れば、昔と同じ父がそこにはいた。しかし、顔つきは恐ろしいほどに正反対だ。眼窩からこぼれてしまいそうなほどに赤い瞳を見開いて、父は高笑いを響かせた。
「お父……さん……」
不自然な笑みを湛えた父の顔を見た瞬間、気を失う前に目撃した強烈な光景が脳裏に叩きつけられる。
首を切断され、地面に転がる守衛士の姿。
レイゲンは恐怖の悲鳴をあげた。父から逃げ出そうと駆け出す。
「どこに行く? 私がせっかく迎えに行ってやったというのに」
肩が掴まれ、無理矢理父の方を向かされた。レイゲンは膝から床にへたり込んでしまう。
「身体の変化を感じるだろう? 光がなくても物が見えるはずだ。疲労もなく、身内の奥底から際限なく力が溢れてくる。爪ももう生え揃っている。見てみろ」
言われるまま、己の膝の上に目を向ける。剥がれたはずの爪が、綺麗に生え揃っていた。
怖気が吹き上がって、寒さを感じるほどだった。
(違う! きっと最初から、爪は剥がれてなかったんだ……)
自分に言い聞かせ、信じこもうとした。
赤く濡れた指先と、視界の隅で床に散らばっている血塗れの爪の欠片から、目を反らす。
絶対に、こんなことはあり得ない。剥がれた爪が瞬時に再生するだなんて。
「僕に、何をしたの?」
「胸を見てみろ」
耳にまとわりつく愉悦を帯びた声音。レイゲンは自身の衣服を捲った。
そこにあったのは、見慣れた自分の身体ではなかった。
紙のように白い肌が、痛々しい傷に縁取られていた。しかもその色は、レイゲンの健康的な肌色とは明らかに違っているのだ。まるで胸を切り開いて、死人の皮膚を移植したかのような。
信じられずに見つめている間に、傷は修復していく。異様な白さの皮膚は、元々の肌色に馴染み始めた。レイゲンの身体の一部となっていく。
「魔獣の上位種。妖魔の肉片を、お前の身体に縫い合わせてやった。お前はもう人間ではない。私と同じ半妖になったのだ。お前はこの私と同じ力を宿す資格がある。だから、与えてやった」
あまりにも目紛しく状況が移り変わり、常識外れな出来事が立て続けに起きて、レイゲンは視界が歪むほどの恐慌状態に陥った。
早く、この気持ち悪い皮膚をどうにかしないと。自分の身体が、まったく別のものになってしまう。
焦燥感によって身体が熱くなる。
「い……いやだっ! これ、どうにかしてよ! お願いだよ!」
「常人なら拒絶反応を示しとっくに死んでいるところだ。お前も私も生まれを間違ったな」
「お父さん……!」
「一突きで破裂するような愚鈍な劣等種として、この世に生を受けた……。だが、優れた力は種の垣根さえ打ち壊すのだ! 私は人生で今以上の充足を感じたことはない!」
父が完全に正気を失っていることは、誰の目から見ても明らかだった。
レイゲンの想像を易々と打ち壊して、父は理解の範疇へと飛び出してしまったのだ。足を止めることはない。一度たりとも振り返らない。
こんなはずではなかった。狂気や死は、レイゲンにとって縁遠いものだった。自分たち家族には、決して関わりがないものだと思っていたのに。
退屈で平穏な日常が、他ならぬ父の手によって壊されたのだ。
それを痛感しても、レイゲンは父の発狂を心の底から信じることができなかった。
守衛士を殺したのも、レイゲンにこんな仕打ちをしたのも、父の本心ではないはずだ。
研究に追われ、精神を疲弊させた結果、父は変質してしまったに違いない。父に落ち度はないのだ。
今レイゲンの前にいるのは、記憶の中の父ではない。父の姿をした別物に決まっている。
「……仕事のせいなの? 何かあって……それでお父さんは悪いものに変わっちゃったんだ! そうでしょう!?」
父の大きな背中に憧れていた。
少しでも近づきたくて。もっと構ってほしくて。目を、向けてもらいたくて。
「答えてよ……。僕、お父さんが元に戻るなら、なんだってするから……。だから、だから」
父の口の端に宿っていた歪んだ笑みが、鳴りを潜める。ぎらついていた瞳は、いくらか正常な光を宿した。
「……私はずっと、生きている実感がなかった。他者が当たり前に好ましいと思うものに、私は何一つ興味を持てなかった。色褪せて見えた」
唐突に語り始めた父に、レイゲンは息を詰めた。
よりにもよって今、この時に。ずっと知りたかった父の内面が晒け出されるだなんて。
それは、狂気に染まってしまった父に残された人間性の、最後の囁きのように感じられた。
「お前が生まれて、いくらか人間らしくしようとしてみたが……結局駄目だった。意味を見出だせない。私の心が唯一強く動かされたのは、妖魔についての研究だけだ。それこそが私の運命だった! 私はやっと、生の実感を得ることができた!」
レイゲンは、膝の上においていた手を強く握りしめた。
そんな言葉を、許容することはできない。
「わからないよ……! どうしてそんなにひどいことを言うの!? 僕たちとの暮らしに、意味がなかったって言うの!?」
見開いた瞳から涙があふれ、レイゲンの頬を伝った。
「違うよね!? 本当は、そんなこと思ってないよね? だって、お父さん……一緒に、遊んでくれた……」
仕事が一段落した後に、球蹴りをして遊んでくれた。
「……ナイフの使い方も教えてやったな」
まだ幼いレイゲンに、父が食事の仕方を教えた。小さなナイフとフォークに悪戦苦闘するレイゲンを、母は嬉しそうに見つめていた。
「神話の本をくれて……頭を、撫でてくれて……」
雫が止まることなく目尻から流れ落ちて。声を震わせながら、言葉を一言一言絞り出すレイゲンに。
父は感情のない声で告げた。
「お前たちとの暮らしには、何の価値もない」
口からもれた吐息は、やがて大きな叫びとなった。レイゲンは心のままに絶叫し続ける。
家族で積み重ねてきた思い出を。
憧憬を抱いていた父親像を。
完膚なきまでに破壊された衝撃は、レイゲンの精神を激しく打ちのめした。
「私と血が繋がったお前ならば、私の思想を理解できるかと思ったが……落胆させてくれる」
父は床に置いていた箱を腕に抱えた。中にはまだ化物が捕らえられたままらしく、小刻みに揺れている。
父の周囲に光が収束し、やがて五枚の刃を形成した。守衛士を殺したものよりも一回りも大きなひし形の刃は、空を覆う帳よりもなお黒い。ふわふわと父の周りで漂っていたそれらは、切っ先を上に向けると一斉に射ち上がった。轟音とともに天井が吹き飛び、唸りを上げながら瓦礫が落下してくる。
「今日のために玩具を用意してやった。魔獣の肉を埋め込んだ出来損ないどもだが、力を使う練習にはなるだろう。ここを生き延びてみろ。そしていずれ、私と同じ高みに辿り着け」
床を蹴りつけた父は、宙に飛び上がる。崩れ落ちる瓦礫を避けながら、急速に上昇していった。
やがて天空の星々の間に消えてしまう。




