18.寒空
レイゲンの自室は三階に位置している。階段は正面玄関に続く廊下の反対側にあった。
居間から出て廊下を過ぎ、直接屋敷の出入口に向かうまでは問題ないだろう。だが扉の開閉音は大きく、確実に居間まで響くのだ。父がどんな行動を起こすか予想がつかないため、正面玄関を通るのは避けた方がいいだろう。
父に知られないように屋敷から出て、居住区を見回っているであろう守衛士を探し話をする。
そこまで考えて、レイゲンは迷った。居間から持ち出してきたランプの火が揺れて、暗い廊下をぼんやりと照らし出す。
守衛士と会えたとして、どうやって父のことを理解してもらえばいいのだろう。
一年ぶりに帰ってきた父が白衣に血をつけていて、おかしくなっているからどうにかしてほしい。――駄目だ。子供の戯れ言と受け取られるに決まっている。
そもそも、白衣に付着している血は動物のものに決まっているのだ。父は研究者だ。安価で手に入る鼠や鳥を実験に使用する機会は多いだろう。
きっとそうだ。間違いない。母の言う通り忙殺され、心を病んでしまったに違いないのだ。
レイゲンの脳裏に、父の凶悪な笑みがまざまざと広がった。背中に嫌な汗をかく。鳥肌が立った。
(……あれは何かの見間違いだ。忘れよう)
守衛士に事情を話すのは、父を捕まえて牢屋に入れてほしいからではない。第三者に説得してもらい、父に適切な治療を受けてもらいたかったのだ。父の擦りきれた精神を、対話と静養で癒さなければならない。
『お父様は私達のために、一生懸命お仕事をしてくれているのよ』
誇らしげに話していた母を思い出す。言葉にしなくとも行動で示してくれていた父が、異常なままのはずがない。必ず元に戻ってくれる。
レイゲンは三階に上がると自室に入り、屋敷の裏手にテラスに出た。
自分の手さえ判然としない深い闇の中。ランプで手摺りの下を照らしてみると、木製の梯子が地上まで続いていた。生気を失った色をした雑草が、葉をそよがせている。
レイゲンたちが住むこの屋敷には、元々父方の両親――レイゲンの祖父母が住んでいた。彼らがまだここで暮らしていた頃、火事によって数人の死傷者が出た。一階で炎が発生し、二階と三階にいた父の兄弟が助からなかったのだ。二階や三階から直接外に出ることができれば、子供たちは死なずに済んだ。祖父母はそう悔やみ、屋敷を新しく建てる際に、また火事が起きた時のためにと、二階と三階の裏手に梯子を設置したのだ。
レイゲンは紐を使って腰にランプを結びつけると、格子に掴まりゆっくりと地上に下りていった。
冷えきった梯子と身体をなぶる風が、レイゲンの体温を奪っていく。吐き出した吐息は橙色の光を受けて、白く輝き夜気に散る。
もしもの時のためにと、母と何度か避難訓練をした経験が生きた。明かりを頼りに一歩一歩梯子を下り、レイゲンはやっと地面に足をつけることができた。
ふう、と安堵の溜息を落とすと、ランプを片手に駆け出した。居住区を巡回しているであろう守衛士を探す。
外に出られたことで、緊張に縮こまっていた心が解き放たれた気分だった。
まずは守衛士を見つける。レイゲンの話が理解を得られれば、父と母の様子を見に屋敷に行ってくれるだろう。母は自力で屋敷から出る必要はなく、レイゲンと一緒に保護してもらえる。数人の守衛士に取り囲まれれば、父も冷静に話を聞かざるを得ないだろう。それから父は治療院に入院し、ゆっくりと休養する。レイゲンは母と一緒に見舞いに行くのだ。
事態が好転する想像がどんどんと膨らんで、レイゲンを勇気づける。普段は馬車でしか移動しない目抜き通りも、挫けることなく走ることができた。
密集した家々も庭つきの屋敷も、明かりを消していた。レイゲンは肩で風を切る。自身の靴音と、呼吸の音しか聞こえない。
やがてオイルが切れ、ランプの火が弱々しくなった。
膝が震えだし、踏み出すたびに足の裏が痛くなるまで歩き続けた頃。
視界の先に、明かりを持った人物を見つけた。魔獣の鱗を使って造られた軽鎧と兜を身につけ、散弾銃と大剣を帯びた兵士。
母と商業区に買い物に行った際や、共通校の帰り道で見かけたことのある、見慣れた守衛士の姿だった。
レイゲンは希望に背中を押され、足に力を込めた。鉛のように重かった身体が軽い。守衛士に会えただけで、不安が解消したように感じた。
きっとすべてが上手くいく。悪いことは起こらない。
「すみません!」
声を張り上げ手を大きく振ると、突然聞こえた子供の声に守衛士は驚いたらしい。慌てて駆け寄ってくる。
守衛士の持つランプは暗闇の中で激しく揺れて、目に眩しいほどだった。
「坊や、こんな時間に一体どうしたんだ!?」
「お父さんが……お父さんの様子が、変なんです。僕は屋敷から出てきて、今はお母さんがお父さんと二人きりで」
どうしてもっと、緊張感のある訴えができないのだろう。疲れがどっとのしかかってきて、目眩がする。
倒れかけたレイゲンを、守衛士の手が支えてくれた。太い両腕で地面に座らせてくれる。父に勝るとも劣らない、大柄な身体つきをした男だった。
「坊や、名前は?」
「レイゲン・クレージュです」
「クレージュ……。あの一番高いところに建ってる屋敷のお子さんか」
息を弾ませるレイゲンに、兜の下の目が気遣うように和められた。この人は話を聞いてくれるだろうか。信じてくれるだろうか。
「お願いします……屋敷に、行ってください……。お父さんはきっと心の病気なんです。自分ではわかっていないだろうから、誰かに入院するように説得してほしくて……あなたたちの力を貸してください!」
いざ信じてもらおうと言葉を選ぶ中、レイゲンは父が白衣に血痕をつけていたことや、小人の化物を持ち帰ってきたことを口に出さなかった。
衣服についた血を見たら、その衣服を身につけている者か――もしくは、他者の血だと思われる可能性がある。それも、人を傷つけて振りかかったものだと考えられてもおかしくはなかった。
守衛士の中で、父に対する疑惑が大きくなるのは避けたかった。父に罪があると誤解されれば、本当に牢屋に入れられてしまう。
父が人を――すはずがない。
寒気がレイゲンを襲う。夜陰がもたらす冷気ではなかった。思考を停止する。
「うーん、いまいち要領を得ないな」
難色を示されて、レイゲンは肩を落とした。洗い浚い話さなければ、やはり信じてもらえないのだろうか。
「でも、レイゲンくんが必死な気持ちは伝わってくる。今夜は暇だし、仲間を呼んで君の家に行ってみよう」
落胆して泣きそうになっていたところに耳を疑う言葉をかけられて、レイゲンは顔を上げた。
守衛士の四角い顔に人懐っこそうな笑みが浮かんでいる。視野が滲んで、冷たい頬に温かな雫が伝った。
「あ……ありがとう、ございます」
レイゲンは一言一言嗚咽しながら言葉を絞り出した。
守衛士は屈むと、レイゲンに背中を向ける。
「君、くたくただろ?背中に掴まりなよ」
「はい」
棒と化した足を引き擦りながら、レイゲンは守衛士の肩に手を伸ばした。
頬に痛みが走って咄嗟に目を閉じる。顔の横を突き抜けていった何かが、肌を切ったのだ。
乾いた音をたて、守衛士の身体が前に倒れた。
「……え」
地面に腰を落としていたレイゲンは、伏した守衛士を見下ろした。
大きな背中、太い首。その上にあるはずの頭がない。守衛士の身体は、首から血を垂れ流しながら、もがいていた。やがて動きは緩慢になり静止する。
切り離された守衛士の頭部は、前方の塀に縫いつけられていた。菱形の漆黒の刃が、兜ごと頭を貫いている。見開かれた目の横を、夥しい血が流れる。肉の切れ端もなく綺麗に切断された首からも血液が飛沫き、道に赤い水溜まりができた。
宝石のごとくきらめく小さな刃は、独りでに守衛士の頭から抜けた。頭部は落下し、血液を撥ね飛ばす。
光の筋を残して、刃はレイゲンの隣を通り過ぎて行った。
何も考えられないまま、レイゲンは後ろを振り向く。
「探したぞ。疲れただろう? さあ、家に帰ろう」
間近に父が立っていた。漆黒の刃は父の横で浮遊していたが、やがて空気に霧散する。
血に染まった白衣が、風を受けて荒々しくはためいた。魔獣と同じ色の双眸の中で、瑠璃がかすかに揺らぐ。
「真夜中の冒険とは感心しないな。マティアもお前のことを心配していたぞ」
父の言葉は砂時計の砂のように、レイゲンの耳の中を流れて行った。
一体何が起こったのか。理解が追いつかない。けれども、たった一つだけ明らかなことがあった。
父は心を病んだだけ。充分な休養を取れば必ず元に戻ってくれる。
レイゲンの予想は、甘過ぎたのだ。
心臓が早鐘のように鳴っている。
全身が細かく痙攣し、急速に力が抜けていく。
近寄ってくる靴音を聞きながら、レイゲンは気を失った。




