17.血の証明
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父が屋敷に帰らなくなって一年が経過した、ある日のことだった。
暖炉が発する穏やかな温かさと、壁にかけられたランプの労りの光が、広大な居間で語らうレイゲンと母を包み込んでいた。
「今日は珍しいケーキを作ってみたのよ」
調理室で二人分のケーキを切り分けてきた母が、トレイを持って食卓に近づいた。にんまりと微笑み、レイゲンの前に皿を置く。
見慣れないケーキに、レイゲンは小首を傾げる。白いクリームで表面がコーティングされており、色とりどりの薄いものが散らばっている。それは砂糖で煮詰めてあるらしく、艶やかに光っていた。
綺麗だが、あまり美味しそうに見えない。
「果物のってないの? この薄い紙みたいなの何?」
「これはね、食べられる花弁なのよ。プルームケーキといって、私のお婆様が得意で、昔よく作ってくれたの」
「花? これが?」
「ふふっ、びっくり仰天したでしょう? 美味しいから食べてみて」
美味しいケーキに甘くもない花弁を使うなんて。何故果物やジャムではないのだろう。レイゲンは不満を抱いたが、嬉しそうな様子の母を前にすると、逆らうことができなかった。
食前の祈りを捧げると、フォークでケーキを切り分け口に運ぶ。
(……美味しい!)
甘い花弁が、クリームの爽やかな味を引き立たせている。スポンジは口の中で溶けてしまいそうなほど軽く、あっという間に一切れを食べ終えてしまった。
この調子なら、切り分けていない残りのケーキも完食できると、レイゲンは確信を抱いた。
「すっごく美味しいよ! ねぇ、もっと食べていい?」
弾んだ声でレイゲンが言うと、母は満足そうに微笑んだが、すぐに首を横に振った。
「駄目。眠る前に甘いものをたくさん食べてはいけないわ。球みたいに、まんまるになってもいいのかしら?」
「……いやだ」
「そうでしょう? あと少ししたら休みなさい。明日共通校から帰ったら、また出してあげるから」
「うん」
レイゲンは紅茶をゆっくりと飲み干すと、本の続きを読もうとソファーに腰かけた。
時を同じくして、屋敷の外からベルの音が聞こえた。
居間から玄関には距離があるため、来客が訪ねてきた際にノックの音だけでは聞き逃してしまう。そのために玄関の扉にはベルが取りつけられているのだ。
皿とコップをトレイにのせていた母は、手を止めて廊下の先に顔を向けた。
「……誰かしら、こんな時間に」
母は柱に備えつけられたぜんまい式時計を確認した。子供がもうそろそろで眠りに就く時刻だ。このような時間に他人の家を訪問するとは、よほど火急の用事なのだろうか。
「僕、見てくる」
「いいのよ。あなたはここにいて」
本を閉じたレイゲンに早口に言い、母は鍵を取ると居間から出た。昼間の訪問ならば、母が不審を感じることもなく、レイゲンもソファに座ったままでいられただろう。
しかし、深夜に近づいた頃の唐突な来客というのは、誰しもに不吉な予感を与えるのだ。望まれぬ訪問者が、外の宵闇までも引き連れてくるようで。
母が心配になり、レイゲンはあとを追った。
「……あなた」
戸惑い、怯えさえにじんだ母の声。
レイゲンの目が捉えたのは、立ち尽くす母と、白衣を着た父の姿だった。純白の生地には、所々赤い染みが付着している。
あまりの驚愕に、レイゲンも母と同様にその場から動けなくなってしまった。
ずっと会いたいと願っていた父がやっと帰ってきてくれたのに、レイゲンは声をかけることさえできなかった。
父は、肩に物を詰め込んだ鞄をかけ、左腕には金属製の箱を抱えていた。見慣れた鉄や鋼の色ではない。冷たい光沢だけが金属であることを示している、不自然なほどの白さの箱だった。中に鳥でも入っているのだろうか。くぐもった呻きと、爪で引っ掻くような音が絶え間なく聞こえる。
一年も過ぎれば、思い出の中で生きる父の容姿も摩耗して、細部を忘却してしまう。
長期間の研究のせいか、父の肌色は白くなり少しやつれていた。艶やかだった黒髪は伸び乱れており、図鑑に載っていた古の動物である獅子のたてがみを彷彿とさせた。それらの容姿の変化は、些細なものだといえた。
レイゲンと同じ瑠璃である父の瞳は、人の血と同一の色に変わっていこうとしていた。
紅に侵食されていく虹彩の中で、瑠璃色がわずかに抵抗している。健気にも、儚く。
(お父さんの目、変だ……)
父が母に向ける双眸は刃物のごとく鋭かったが、感情を窺わせない不気味さもまた湛えていた。首が巡り、父はレイゲンと目を合わせた。
少しずつ、ゆっくりと。口許がほころんだ。左右の口角が今にも頬を裂きそうなほどに高くまで吊り上がり――牙に似た鋭さを持つ歯が覗く。
頭から爪先までを激しく震わす恐れが、レイゲンに走った。口から出そうになった悲鳴が、喉の奥で凍りつく。
記憶の中の父は、激しく感情を表したことがない。思考に没入しているような表情が、いつもその顔にはりついていたのだ。
尊敬していた父と、今、目の前にいる父は、本当に同一人物なのだろうか。
「……その白衣は……怪我をされているのでは」
凍結していた時の流れが、母の一言によって動き出した。
震える声は、真に父の身を案じていた。また、レイゲンと同様に抱いているであろう、身内の奥底から噴出する恐怖を、認めるのをためらっている心情も感じ取れた。
「汚れただけだ。構うな」
畏怖さえ感じさせるほどの、低音だった。
「……汚れた……? でも、その色は……」
「腹が減った。食事を用意しろ」
ためらいながら言葉を発する母を押し退けて、父は廊下を歩き居間に向かった。
白衣を汚す、血の色をした液体。それが父の身体から流れ落ちているものならば、しっかりとした足取りで歩けるわけがないのだ。
きっとあれは、父の言う通り血に見えるだけの汚れなのだ。レイゲンはそう思い込もうとした。
それでも、心のどこかがざわめいていた。何かが、おかしい。言葉にできない感覚が、レイゲンの中で警鐘を鳴らしていた。
母は茫然とした表情で、父を見送った。不安に顔を歪ませたレイゲンと視線がぶつかると、微笑んだ。まるで、自らを奮い立たせるみたいに。
「……きっと、ずっと教会に籠っていたから、心が風邪を引いてしまったのね」
一年ぶりに帰ってきた父は、異様な雰囲気をまとっている。異常な事態に混乱し、動揺しているだろうに、母は何でもないみたいにこんなことを言うのだ。
父の変化に気づいていないはずがない。けれどもきっと、レイゲンに不安を与えないために。そしておそらくは、自分自身に言い聞かせるために。
「ぼ、僕、外に行って人を呼んでくる!」
二人だけで、父と一緒にいたくないと思った。誰でもいい。第三者に介入してもらいたかった。
「……こんな時間にいけないわ。今は少し苛立っておられるだけよ。空腹が満たされたら、お話をしてみましょう」
「……で、でも」
「レイゲンは、びっくりしているだけなのよね。あなたの、お父様なのよ」
居間から父が呼ぶ。
母はレイゲンの手をしっかりと握って、居間に歩を進めた。
母が手早く用意した上等な肉を使った料理を、父は獣の変化さながらに食い尽くした。
食事の仕方まで変わっている。
レイゲンは居間の入口で立ったまま、かつて親愛を向けていた父の背中を見つめた。
レイゲンは父にナイフの使い方を教えられたのだ。以前の父は名家の見本となるような、行儀がいいナイフとフォーク使いをしていたというのに。
「……お帰りになられるのなら、お手紙をくださればよかったのに」
食器を洗いながら、母は努めて冷静に父に声をかけた。
「どうしても今、確かめておかなければならないことがある」
「お仕事の資料ですか?」
「そんなものはもう必要がない」
動揺を感じさせない明るい調子の母の声は、泰然とした、しかし興奮を隠しきれない父の声と一緒に聞くと、ひどく浮いて思えた。
穏やかに見せかけようとしても、決して隠し通すことができない緊張感が、室内に満ちていた。
こんな空気は耐えられなかった。自分が黙っていればいるだけ、胸を圧迫するような重い雰囲気に刻々と悪化していく気がして。
いても立ってもいられず、レイゲンは部屋の中を見回した。そうして、父が先ほどまで抱えていた箱と鞄が、壁際の床に置かれているのが目に入った。
白く発光する箱は小刻みに揺れており、捕らえられた鳥のあがきを物語っていた。もれ聞こえるか細い声は、恐怖を内包している。そう、今のレイゲンと同様に。
両親の会話に聞き耳を立てつつ、レイゲンは父の顔がしっかりと母に向けられていることを確認した。
そろりと箱に近づき、どうにかして開けられないかと触れてみる。見たところ、穴が空いていない。これでは中の鳥は窒息してしまうのではないだろうか。
指先にひやりとした感触が伝わってきた。氷に直に触ったのでは、と思えるほどの冷気だ。驚いて手を離すと、箱の表面に音もなく切り込みが入り、ゆっくりと中身が晒け出された。
目鼻のない顔が、そこにはあった。
蛹のような殻に覆われた、白い胴体。手足を切り落とした、小人の化物。
顎の上には口と思わしき横線が走っていて、レイゲンを認識したのか、にたりと笑った。
レイゲンは悲鳴を上げた。後ろにひっくり返らんばかりに仰け反り、倒れこむ。
「……ば、化物……!」
椅子を引く音がして、父の重い靴音がレイゲンに近づいてきた。白衣から仄かに伝わってきた、血の匂い。
父が箱に触れると、ぱっくりと開いていた口が閉じる。小人の化物は再び暗闇に囚われ、悲痛な声をもらし始めた。
「見たな」
血の色の瞳の奥に、レイゲンは底知れない暗黒を見た。
認めたくなかった。本当は、見て見ぬ振りをしたかった。そうすれば、レイゲンの抱いているこの違和感は、勘違いになるはずだったのに。
父は、おかしくなってしまっている。
押し殺した悲鳴を耳にした。噛み締めた自分の口からもれたものではなく、母のものだった。
母もその瞬間に父の有り様を理解したのか、今にも泣いてしまいそうな絶望が色濃い表情をした。だが、父が母の方を向いた瞬間に素早く穏やかな笑みに切り替える。
「ごめんなさい。お仕事のために持ち帰ったものを、勝手に触ってしまって。……レイゲン、もう遅いわ。私はお父様とお話することがあるから、部屋に戻って休みなさい。眠る前に、お薬を飲まなければね」
自分は薬を必要とするような病気を抱えていない。母の言葉の意味を考えて、レイゲンははっとした。薬を受け取る間際に、父に聞かれないように話をするためだろう。
「う、うん」
レイゲンは何気ない風を装いながら母に近づいた。棚から薬瓶を取り出し、母は水を満たしたコップと一緒に差し出した。その拍子にレイゲンの耳に唇を寄せる。
「ここから出なさい。私も隙を見てあなたのあとを追うわ」
レイゲンは軽く頷いた。薬瓶を服のポケットに入れ、コップだけを持つ。
「……お休みなさい。お父さん」
鞄を持ち上げて中身を確認していた父は、レイゲンを認めると口角を歪めた。人間の笑い方を忘れてしまい、形だけでもそれらしくしようとした、ぎこちない表情だった。
「お休み。……我が息子よ」




