16.温もりは還らぬ
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翼を広げた翼竜を模した、大陸群。
北――翼の付け根部分に、ブレイグという国家がある。優れた武器を製造し魔獣との縄張り争いに貢献してきたブレイグ王国は、のちに歴史と釣り合わない兵器を獲得したディーティルド帝国によって支配されることとなる。
レイゲン・クレージュは、そのブレイグ王国の中央にある、アルミラという都市で暮らしていた。
父アルバス・クレージュは、オリジン正教の教会に所属する研究者だった。教会から屋敷に帰ってきても、分厚い本や資料を積み上げて、机に向かっていた。それが、レイゲンが覚えている最も古い父の姿だ。
書斎の扉を少し開けて、レイゲンは隙間から父に視線を送る。
整頓された書棚を背に、仕事に没頭する父が見える。眼下の資料に目を落としながら、右手に握られたペンが用紙に忙しなく文字を書き記していく。
父の端正な顔立ちと瑠璃色の瞳を、レイゲンは受け継いでいた。がっしりとした体格に釣り合った長身は研究者という職には似つかわしくなく、ときおりレイゲンに威圧感を抱かせるほどだった。
(おとうさん……)
ちら、と脇に抱えた玩具を見やる。コルシュという、果物の硬い殻を削って滑らかにし、接着して作られた球だった。レイゲンの頭ほどの大きさがあり、蹴って遊ぶものだ。父が帰ってきたら真っ先にこれで遊んでもらおうと思っていたのに、屋敷に戻るや否や、父はすぐに自室に閉じこもってしまった。
露店で母に球を買ってもらったときの高揚感が、萎んでいく。つるつるとした殻は衣服に押しつけていると冷たさが感じられた。意識した途端に寂しさに変化して、レイゲンの心の内に音もなく降り積もる。
共通校の友達から父親と遊んでもらったという話を聞くと、羨ましくて堪らなかった。自分も父と屋敷の外で思い切り遊んでみたい。
しかし、駄々をこねることはできなかった。父が忙しいことを知っているから、という理由だけではない。レイゲンは物心がついた頃から、自分と父の間に立つ壁を感じてしまうことがあった。
仕事の関係で毎日のように家を空ける父は、帰宅するとたまに、心ここにあらず、といった表情をすることがあった。そんなときに自分や母が呼びかけても、顔は向けるが瞳の中には何も映っていないようにレイゲンには感じられたのだ。
そんな表情をする父を見るたびに、自分と父の間にある距離が広がっていくように感じられて。
いつか、自分の知らない人になってしまうのではないかという、気持ちになることも少なくなかった。漠然とした不安がわずかに、けれど確実に蓄積し、父に対しての遠慮に結びついてしまっていたのだ。
「レイゲン」
廊下を歩く靴音が聞こえて、レイゲンは顔を上げる。母マティアが歩み寄ってきた。緩やかに波打った髪を背中まで伸ばしており、柔らかな面差しに励ますような笑みを浮かべている。
屈んだ拍子に、胸元で揺れる首飾りが澄んだ音を鳴らせた。母の髪色と同じ青藍色をした宝石が、銀の装飾に縁取られている。母の誕生日に、父が贈ったものだと聞いていた。
「お父様は今忙しいの。私と遊びましょうね」
「……うん」
レイゲンは小さく頷いて、扉の前から去ろうとした。レイゲンたちの声が伝わってしまったのだろう。時を同じくして、室内から身動ぎする音が聞こえた。
「……レイゲン、そこにいるのか?」
「ご、ごめんなさい。おしごとのじゃまして」
扉を大きく開けて、レイゲンは慌てて謝った。叱られるかもしれないと覚悟し、唇を噛む。
「ごめんなさい、あなた。今退きます。……でも、少しだけでもいいので、レイゲンとの時間をつくってあげてください」
母は立ち上がると、レイゲンの手を引いた。髪が被さって顔に影をつくり、気遣わしげな表情に見せる。
父はペンを止めて、無言で二人を見つめていた。思考を巡らせているのか、眉間に一つしわを刻んで。それから口を開く。
「……レイゲン、何がしたい」
「え?」
「子供は何をしてほしいものなんだ」
そっけない顔をした父の口から飛び出したのは、レイゲンにとって嬉しい疑問だった。
逸る気持ちを押さえられず、レイゲンは硬い球を頭上に掲げる。
「ぼく、球蹴りしたい!」
「……わかった。この仕事が片付いたら、相手をしてやる」
「……あなた」
レイゲンは母と顔を見合わせて、微笑み合った。
己の思いを口にせず、遠く離れた場所にいるように感じられる父だったが、彼が自分に向けてくれる愛情を、レイゲンはほんの少しの疑いもなく信じていた。
家族のために父が一生懸命仕事をしてくれていることを、母に言い聞かせられていたレイゲンは、父の背中に敬愛を抱きながら成長を重ねていった。
氷子の月二十四日。肌に染み入ってくるような冷気が、ますます強さを増していく頃。
暖炉では熾火が爆ぜ、心身を解す熱が居間に満ちていた。
その日はレイゲンの六歳の誕生日であった。
「お父さん、どうして僕に戦天使の名前をつけたの?」
レイゲン――神話に描かれた四大天使の内の一柱。人々を魔獣から守るために立ち上がった、天使である。
神話が読める年齢になってから、レイゲンは何故父が自分にその名をつけたのか、ずっと疑問に思っていた。
滑らかな生地のソファーに腰かけていたレイゲンは、分厚い装丁の本を閉じた。レイゲンが四歳になろうかという頃に、父から与えられた神話の本だった。眠れない夜があると、レイゲンはこの本を読んで気を紛らわせていた。
レイゲンの横に座っていた父は、ふと俯けていた顔を上げた。切れ長の瞳がわずかに見開く。まるで、まったく予期していなかった質問を投げかけられたかのような表情だった。
自分の名前に込められた思いを想像していたレイゲンは、父の反応に落胆してしまった。彼の態度は、レイゲンの名づけに深い意味がないことを暗にほのめかしていた。
「それはね。お父様はあなたに戦天使様のように、大切な人を守れる強さと優しさを持ってほしいと願ったからよ」
調理室でデザートを用意していた母が、トレイを手に近づいてきた。レイゲンと父の前にある食卓に、果物がのったケーキと温かい茶を置く。
「……私のお父様もね、名前に込めた思いを聞いた時は恥ずかしがって、教えてくれなかったの。後でこっそりお母様が話してくれたのだけど」
母の名前は、聖母マティアから名づけられたのだ。戦天使レイゲンと愛を育み、後に魔獣の王を打ち倒すエルティアを出産する人間の名前である。楚々とした女性であったと考えられていて、彼女の清廉さにあやかろうと、娘にマティアという名前をつける親は多かった。レイゲンが通う共通校にも、同じ名前の生徒が数人いる。
「……そうですよね、あなた?」
「あ……ああ。その通りだ」
母が尋ねると、父は頷いた。色がなかった顔には、ささやかな微笑が慌てて表れる。
レイゲンは内心で胸を撫で下ろしながら、父と母に満面の笑顔を向けた。
「そうなんだ! それじゃあ僕、強くなってお父さんとお母さんのこと守るよ!」
「ふふ、頼もしいわね」
母がレイゲンを見下ろして、にっこりとする。
父はレイゲンの頭に手をのせると、髪の毛をくしゃくしゃに掻き乱した。
レイゲンは口許を緩ませて、されるがままにする。父の固く大きな手が心地よかった。
月日が経ち、父はぱたりと屋敷に帰らなくなった。母の話では、教会での地位が向上し、より多忙になったということだった。
レイゲンは父と再会できる日を心待ちにしながら、ますます勉学に励んだ。父に恥じない息子になり、もっと気にかけてもらえるようになりたかったのだ。
広々とした屋敷は、父が一歩も足を踏み入れなくなって、そこここに寒々しさを潜ませるようになった。
壮麗な細工を施された旧式の甲冑や、銀の刃を持つ大剣も、廊下や広間に飾られたまま色褪せていっているように思われた。
母はレイゲンを元気づけようと度々ケーキを焼いてくれたが、いくら好物といえどレイゲンの心の隙間を埋めることはできなかった。
レイゲンはときどき屋敷内を歩き回り、父の名残を探した。父は家を空けることが多かったので、私物は驚くほど少ない。書斎に仕舞われた神話や魔獣関連の本。数枚の家族写真。それともう一ヶ所、レイゲンが父を強く感じられる場所があった。
磨かれた廊下の中程で、レイゲンは足を止める。頑丈さと優美さを併せ持つ扉がそびえていた。
地下室に続く扉である。
父が長期間屋敷を空ける前、ほとんどの時間を地下室で過ごしていた。父が鍵を肌身離さず持ち歩いていたため、レイゲンは一度も地下室に入ったことはない。
扉に身体を寄せると、レイゲンは耳を当てた。そうすることで、地下室に籠っていた父のことを、強く心に描きたかったのだ。
瞳を閉じ、耳を澄ませる。物音が聞こえるはずがないと思っていたレイゲンはしかし、驚いて身を離した。
(……今、何か聞こえた?)
かすかに聴覚が捉えた。人の――呻き声のような音が。
もう一度耳をくっつけてみる。今度は声ではなく、静寂が返ってきた。
(そんなわけないよね……)
きっと昨日の夜読んだ本のせいだ。死体が墓から起き上がり、人間を襲い身体を乗っ取ってしまうという話だった。眠るときや、ふとした拍子に思い出してしまうのをわかっていながら、結局最後まで読んでしまったのだ。
さっき聞いた声は、本を読みながらレイゲンが想像した、死者の呻きそっくりだった。
自分の中で納得すると気が楽になって、レイゲンは笑ってしまいそうになった。
妄想の産物に恐怖してしまうなんて。なんて子供っぽいのだろう。
「レイゲン、ここにいたのね」
「お母さん」
母はレイゲンに歩み寄ると、息子と同じく扉を見上げた。
「お母さんは、この部屋の中を見たことある?」
「いいえ。ここは、お父様が仕事の重要な資料を保管しておく部屋なのよ。あなたが面白いと思うものは何もないわ」
「そうなんだ。つまんないの」
内に籠ることが多い父の秘密の一片が、地下室に隠されているのかもしれない。そう期待していたレイゲンは、現実的な答えを聞いて感興を削がれた。
母やレイゲンが部屋に入り、資料を乱してしまってはいけない。だから父は、家族をこの部屋に入れたくなかったのだろう。
仕事の資料は、今もまだ地下室に眠っているのだろうか。中身がなんであれ一度は入ってみたかったが、父が鍵を持ち去ってしまっているため、室内を確かめることはできない。
父が帰ってくるまで、この部屋は開かずの間として在り続けるのだろう。




