13.黎明
翼竜は二人を部屋の中に下ろすと、飛び上がり、身近に立っていた岩の天辺に降りた。
フェイヴァは、中央に集まっているみんなの方に身体を向けた。きちんと目を見て話さなければならない。思いはしても、どうしても勇気が出なかった。
「みんな。私……人間じゃないの」
語尾が震えた。口に出して認めるのは、随分と久しぶりだった。
テレサに学校に入らないかと話をされたとき、自分が人間の中で生活できるわけがないと思った。ディーティルド帝国の兵器開発施設で目覚め、兵士に追われ傷つけられたように、心ない言葉を浴びせられ辛い思いをするに決まっていると。
恐ろしい想像だけが際限なく膨らむ、未知の世界。
入ってみればそれは、杞憂でしかなかった。何も知らないみんなは、フェイヴァに優しく接してくれた。ウルスラグナ訓練校は、フェイヴァの新しい居場所になったのだ。
厳しくも慌ただしい、訓練校生活。それは、草花を揺らす春風のように柔らかく、心地よいものだった。だからいつの頃からか、フェイヴァは目を逸らそうとした。考えないようにして、事実を消し去ろうとしていた。
自分が死天使だということを。一時だけでも、人間だと思っていたかった。
「騙すつもりはなかったの。でも、言えなかった。私の正体を知ったら、みんな私のことを怖がるんじゃないかって……嫌われるんじゃないかって……。せっかくできた友達を、失いたくなかったの」
思いを声にのせ、口から絞り出す。急激な心細さが押し寄せたせいで、視界が狭まっていくような感覚に陥る。
「今まで……ごめんなさい……」
顔を伏せ、瞼を瞑る。
フェイヴァと仲間たちの間にあった、信頼関係。培ってきた友情。それが、他ならぬ自分の行動と言葉を契機にして、変化してしまう。決定的に、後戻りできない地点にまで。
彼方から、魔獣の遠吠えが聞こえる。風が岩の間を吹いて、笛めいた音を鳴らす。さらわれて飛んだ砂粒が、地面に舞い落ちて囁く。
沈黙に、自然の吐息が音色をつける。
『これではまるで人もどきではないですか。ああ、なんと気持ちが悪い。出来損ないのゴミですね』
『人間に消費される下等な存在が』
『貴様が人間だと!? 機械の分際で、人間と同等だと主張するのか!』
『人間になったつもりでべらべら喋りやがって。気色悪い』
フェイヴァの頭の中では、過去に浴びせられた侮蔑の言葉が、繰り返し繰り返し流れていた。
記憶を掘り返してはいけない。恐怖の鎖に縛られてはならない。けれども、無言の時間は拷問に等しく感じられ、フェイヴァの心を削っていく。
(私……みんなのことが好きだよ)
知らない人ばかりに囲まれて不安になっていたフェイヴァに、率先して話しかけてくれたユニ。
穏やかな声で思いやりのある言葉をかけてくれるサフィ。
興味がないような顔をしながらも、フェイヴァの立場に立ってくれるハイネ。
朗らかな笑顔でこっちまで明るい気持ちにしてくれる、面倒見のいいルカ。
暴言が玉に瑕だけど、危機のときにはちゃんと助けてくれるリヴェン。
(だから……どうかお願い)
胸の前で手を握り締め、祈る。
(もうこれ以上、自分のことを嫌いにさせないで……!)
距離をおいて後ろに立っていたレイゲンが、歩み寄ってくる音がした。隣で立ち止まり、フェイヴァと一緒にみんなの答えを待ってくれる。
ハイネの溜息が、皮切りとなった。
「……わたし、信用されてないんだね。そんなに怖がらなくていいのに。取って食ったりしないから」
フェイヴァはおもむろに顔を上げた。
皮肉めいた笑みが、ハイネの口許を歪ませている。
「だよな。お前の正体がなんだろうと、お前の性格がどんなか把握してるつもりだし。そう簡単に嫌いになったりするかよ」
ハイネと顔を見合わせた後に、ルカは呆れを感じさせる微笑を浮かべた。そこに嫌悪の色は欠片もない。
「馬鹿かテメェ。自分が何者かなんて考えるだけ無駄だろうが。んなことで悩んでばっかだから、陰気な顔になんだよ。苔生えろ!」
普段と変わりがない罵詈を吐くリヴェンに、レイゲンは石ころほどの瓦礫を手に取り投げようとする。
「ちょい待てレイゲン」
ルカはリヴェンの頭を叩いた。スパーン、といい音がする。
「今真面目な話してるんだろーが! 頭の中に石でも詰まってんのか!?」
「痛ってぇなっ! ポンポンポンポン人の頭叩きやがって! 何様だテメェは!?」
「人類の希望、ルカ・ファーロス様だよ。何か文句ある?」
「はっ!? やめろハイネ、気持ち悪いこと言うなよ」
ルカとリヴェンの小競り合いに、ハイネも参戦する。三人は小さな瓦礫を拾い上げ、瓦礫合戦を開始した。
「ああもう、こんなときにしょうがない三人だな。……ほら、ユニ」
礫が当たらないように腕で庇いながら、サフィはユニを伴ってフェイヴァに歩み寄ってきた。
二人の前で立ち止まると、彼らしい落ち着いた表情で声をかける。
「ずっと秘密にしていて、辛かっただろうと思う。勇気を出して話してくれてありがとう。大切なのは、フェイヴァが何者かじゃない。君の心根の優しさを、僕たちは知っている。フェイヴァのことを怖がる人なんていないよ。……ね?」
そう言い切り、サフィは傍らのユニに目配せする。
大きな海色の瞳は泳いでいたが、ややあって真っ直ぐにフェイヴァに注がれた。
「……ええ」
視界がにじみ、あふれた涙が止めどなく頬を伝う。フェイヴァは顔を手で覆った。
こんなにも感情が高ぶる瞬間を、こんなにも幸せな気持ちを、フェイヴァは今日まで知らなかった。
「みんな、ありがとう……!」
機械の身体で生まれてきた自分。兵器として生み出したわけではないというテレサの言葉は、空しく上滑るだけだった。
化物の中から生み出された、人ならざる者。思考し感情があるにも関わらず、人間と隔たった場所に立っている。意思ある者なら当然である、自分が人間だという、確固たる自信を持つことさえ許されない。
波に押し流されかけた寄る辺に立たされた気持ちがわかる者が、果たしているだろうか。自分がわからないということは、自分を取り巻く世界がわからないも同然なのだ。自尊心を持てず、周りの顔色を窺って生きていた。
心の深い場所に、自己嫌悪と人間に対する恐怖が澱のように沈んでいた。自身の人間性を罵詈によって否定されるたびに、募っていた思い。
群青色だった空には、いつしか朝の兆しが見えていた。遠方は薄橙に色づいており、集った雲の間から、目を眇るほどの陽光が差し込んでいる。
闇と光が渾然となった空。やがて暗闇は払拭され、曙光が満ちるのだろう。
今このとき、自らを縛っていた負の感情を投げ捨てよう。蛹から抜け出した蝶のように置き去りにして。飛び出した後は、決して振り返らない。目指す先には新しい自分が待っている。
「帰ろう、フェイヴァ」
手が差し伸ばされる。普段なら考えられないような、穏やかささえにじんだレイゲンの声。細められた瑠璃の虹彩。尖って映っていた深紅の色さえ、今は和やかに見える。
『どんなことがあっても自分を諦めないで。あなたの人生はまだ、始まったばかりなのだから』
生まれたばかりの不安に震えるフェイヴァに、かつてテレサがかけてくれた言葉。現実味が感じられず受け止めきれなかったそれを、今なら力一杯抱き締めて自分の一部にできるような気がした。
(……自分を諦めないで、よかった)
フェイヴァは彼の手に自身の掌を重ねると、ぎゅっと握る。あふれた涙が、頬を転がり落ちていった。
「――はい!」