「好き」の練習
「もし、生まれ変わったら私は猫になりたいな」
彼女はそう言って微笑んだ。
「だって猫って好きな時にご飯食べて、好きな時に寝て、好きなだけ遊んでいられるでしょ?」
真冬の夜に二人。ベンチに腰掛け足を宙に投げ出し空を見上げていた。
「でも野良猫だったら大変そうだね。いつ死んじゃうかわかんないもん」
何か可笑しかったのか、くすくすと笑う。
「だからさ、私が死なないように君が飼ってよ。ずっと、私が寿命で死ぬまで」
僕が暗い顔をしたのに気付いたのだろう。
ふと、立ち上がり僕の膝の上に向かい合う形で乗った。
「そんな顔しないでよ。人間だっていつ死ぬか分かんないんだから。同じことだよ。それともそんなに私と一緒にいたいの?」
頷くとそれはそれは嬉しそうに微笑んだ。
「もう、しょうがないな。そんなんだから君はいつまで経っても子供なんだよ。心配しなくてもまだまだ先だから大丈夫だよ」
そう言って彼女は僕にキスをした。
啄むように唇と唇が触れ合う。
「んっ。全く、キスだけは一丁前に上手なんだから。それで他の女の子を落としてるんでしょ」
僕は首を横に振り否定の意を示す。
「どうだか。あーあ、やっぱり猫になりたいっていうやつ無し。君とキス出来ないのはよくない。人間が一番」
キスがしたいという理由で意見を変えてしまう彼女が面白くて吹き出してしまった。
「なにが面白いの。じゃあ、君は何に生まれ変わりたいの?」
少し不機嫌になった彼女は意地悪な振りをして僕の顔を覗き込んだ。
僕は再びキスをした。
先程とは違い舌を入れ、互いの唾液を交換する。
彼女は驚いた表情をするが直ぐに受け入れ、舌を絡ませる。
「ぷはっ。もう、それが答えのつもり?私じゃなかったらセクハラで訴えられてもおかしくないんだからね」
怒っているつもりだろうが、口元がにやけている。喜んで貰えたならなによりだ。
「なに笑ってるの?私は今凄く怒ってるんだからね。しょうがないから罰として私に好きって言いなさい。私がいいって言うまでずっとだからね」
なんの脈絡も無い唐突な命令。
なにがしょうがないのかさっぱりわからない。
無理なのはわかってるだろう?と言うように瞳を見つめる。
「まぁ、君が喋れないのは知ってるけどさ。死ぬ前に一度くらい聴いてみたいじゃない」
そう、僕は喋れない。というより声が出ない。
虐めによるストレスで失った。
僕は首を横に振る。
「頑張りもせずに無理だと決めつけるのは良くないよ。私だって無理だとわかっててもそれしか方法が無いから受け入れて少しでも成功するように頑張ってるんじゃないか。私だけ頑張るなんて不公平だ。だから君も頑張れ」
慰めでも憐れみでも同情でもない。ただの我が儘。
自分が頑張っているのだからお前も頑張れ。
酷い言い草だと思う。けれど、そんな我が儘が言葉が心の中にすとんと落ちた。
頑張ってみよう、そんな気になってしまう。
これが彼女の魅力なんだろうか。
それとも惚れた弱みというやつか。
わからないが、そんな気になってしまうんだ。
僕は「しょうがないから、頑張ってみる」と口パクで伝えた。
「初めての声は私に聴かせてね」
彼女はとても笑顔だった。
「さて、私も頑張らないと。手術は明後日だし終わるまで会えないけどまたすぐ会えるから。お互い頑張ろうね」
そう言って彼女は病室に戻っていった。
僕はまた会える日のために「好き」の練習を帰り道にずっとしながら家に向かった。
この作品は失声症を侮蔑するものではありません。
ご不快になられた方がおられましたら深くお詫び申し上げます。
※8月19日 誤字修正致しました。
さっぱり→やっぱり
起こって→怒って