陽だまり
暗い裏路地の、誰も目にしないようなとある物陰。うつむいてうずくまり、見つかると碌な事にならないから、人目につかないように小さく体を丸める。
天気はあいにくの雨で、背に当たるコンクリートの建物の端、申し訳程度に付いている屋根がほんの少しだけ雨を受け止めてくれているけど、それでも体の半分は既にかなり濡れてしまっている。
-寒いなぁ…。
と雨が降るたびに思いながら、足早に過ぎていく街の人々を尻目に、そっと目を閉じた。
「大丈夫かい?」
ふと無くなった雨の当たる感触に目を開けると、私に傘をかざす男性がいた。
「よかったら、家に来るかい?」
-家…?
首を傾げた私に微笑むと、男性は私を抱えた。
その暖かさに、雨で体力を失っていた私は静かに眠りについた。
目が覚めると、どこかの部屋。
窓から差し込むオレンジの光に、雨は上がったんだと目を細めた。
見渡すとここはリビングの様で。左に見えるキッチンに平行に置いてあるソファーに私は寝かされていたらしい。
私の顔が見えるようにだろう。ソファーに頭を預けて寝ているのは、眠りに落ちる少し前に見かけた男性。体を包んでいる毛布をかけてくれたのも彼だろう。
スヤスヤと寝息をたててる彼を起こすのはどこか申し訳なく、彼の寝顔を観察していると、数分もたたないうちに男性は目を覚ました。
「良かった。起きたんだね」
そう言ってフワリと温かい笑顔を浮かべた男性と、昔、私を育ててくれたお婆ちゃんの面影が重なり、ポロリ、涙が一粒落ちる。
「家族は、いないのかい?」
尋ねる彼に、私は小さく首を振った。
行く宛てなんて、もうどこにもない。
ずっと一緒にいたお婆ちゃんはもうどこにもいなくて、お婆ちゃんの子供は私を毛嫌いしていた。私自身、お婆ちゃんが病気になってやっと顔を見せにくるような人たちにお世話になる気なんてなかった。
だから、隙を見て出て行ってやった。‘探す’なんてこと、あの人たちがするはずないことは、お婆ちゃんがいなくなって数日間の、最低限で、世話してやってるんだぞって態度で確信した。
「行く所がないなら、家の子になるかい?ここには僕しかいないし」
-いいの?
「嫌になったら、いつでも出て行っていいからさ。取り敢えず、食べる物と寝る所には困らないしね」
コクリと、頷いたのはちゃんと伝わっているようで、温かい笑顔で私の頭を撫でてくれた。
こうして、私は新しい居場所を見つけた。
私と彼が出会って、二ヶ月が経とうとしていた。
彼の名前は‘藤原 陽介’。この部屋はとあるマンションの最上階の一つ下。隣に住む老夫婦と仲が良くて、たまに肉じゃがとかのおかずをもらっている。
仕事はほとんどを家にあるパソコンでしている(たまに紙の束や、パソコンを持って誰かに会っている)みたいで、この前そっと覗き見してみると英語や数字がいっぱい画面に溢れてて、顔をしかめていると気づいた彼に苦笑された。
お金は沢山あるらしく、私が増えても彼の生活が変わった様子は無い。
ただ一つ、気になるのは彼が家にある固定電話には一切でないこと。
最初はコール音がしつこく鳴っているだけだったし、セールスとかだと思って私も気にしていなかったんだけど、一度だけ、低い男性の声が聞こえてきたことがある。
彼は直ぐに電話を取って、少し怒ってる様で、一言、二言話して直ぐに話を終えて、心配そうに見る私に 困ったな とも言いたげな表情で、それでも笑っていた。
それから、電話は、二日に一回から一週間に一回、コールを鳴らすだけになった。
相変わらず、彼は電話を取らなかった。
電話の件は気にはなるけど、私がどうにか出来ることでも無いし、彼が気にしない風だから私も無視していた。
そんなある日のこと、彼が夕食を作ってる時だった。ピンポーン とチャイムが鳴った。
彼は手を拭いて、玄関に向かおうとした時だった。
「陽介!!いるんでしょう!?」
甲高い女の人の声がして、彼は動きを止めた。
「貴志さんから話は聞いたわ」
「雪、僕のことはもう放っておいてくれ」
「そんなこと出来るわけないでしょ!いいから開けなさい!」
-このままじゃ近所迷惑になるな…。
彼もそう思ったのか、溜め息を吐くと玄関に向かった。
女の人を中に入れると、彼はダイニングにある高い椅子に女の人を座らせて、机を挟んだ対面に彼も座る。
ソファーの影に隠れながらも、私はそっと彼と、女の人の様子を窺がう。
彼はこっちに背を向けていて、女の人はやりきれない表情。
「雪、僕らの関係はもう終わったはずだろ?」
「あんなので納得出来るわけないじゃない。それに、貴方の事情を知ったら尚更よ」
「いずれいなくなる人間といたって幸せになれるわけないだろ」
「…でも、手術すれば治る可能性があるって」
「成功率50%の手術だ。考えさせてもらって当然だろ」
「でも早い方が治りやすいって…」
その後の会話は頭に入ってこなくて、私はただ、彼が消えるかもしれない。その事に呆然としていた。
気づけば女の人は帰っていて、彼は夕食を机に並べていた。
その日は、いつもTVを点けたり、彼が何かはなしたりしてくれるのに、静かな夕食で。
どことなく気まずい空気を残しながら、お互い眠りについた。
次の日、起きてきた彼はどこかすっきりした顔つきをしていた。
「ちょっと外に出ようか」
彼に連れられて、着いたのは少し先にある静かな公園。
噴水のそばのベンチに腰を下ろす。
「ごめんね。今まで隠していて」
その後に続く言葉が何か、想像できた私はそっと目を閉じた。
「僕は、不治の病に侵されているんだ」
「手術しても、治る可能性は半分しかなくて、それに治らなかった時は手術の負担で寿命が更に短くなる」
「両親には、手術しろってずっと言われてるんだけどね、やっぱりさ、失敗したらって思うと怖くて」
「家にかかってくる電話は親父から。早く決心しろってうるさくてさ」
「この前来たのは幼馴染の‘笠原 雪’。付き合ってて、結婚する予定…だったんだ」
「でも、僕の病気が発覚して、「一緒にいられないから別れてくれって」」
「それで、逃げるようにこの街に引っ越した」
遠い目をして話す彼。
「でも、もう決めたんだ。手術はしない。後一年の命でいいって」
そう言った彼の顔は晴れやかで。
「先生にも、無茶しない限りは余命二ヶ月って頃にならない限り普通に生活は出来るって言われたしね」
帰ろうか。そう言って、彼は歩き出した。
その後ろを歩きながら、私はモヤモヤとした不安を抱えていた。
その不安が現実になったのは、僅か三日後のことだった。
彼がお昼ご飯を作っていて、私はソファーでくつろいでいた時。
ガシャンっ!!
-!!?
温かい日差しにウトウトしていた私は、いきなりの大きな音に飛び起きた。
キッチンに彼の姿は見えなくて。
危ないから。そう言われて今まで入ったことのないキッチンの裏側に回ると、
彼が、倒れていた。
慌てて駆け寄った私は少しの間、動けなくなった。
心臓の辺りを抑えてうずくまる彼と、ベッドから起きれなくなったお婆ちゃんが重なって。
気づいた時には、私は玄関に走っていた。
彼が、私が来てから取り付けてくれた専用の勝手口を潜って、マンションの廊下に出る。
平日の真昼、廊下に出てる人はいなくて、隣の老夫婦も出掛けてるのか、物音がしない。
階段を使って一番下まで降りて、外に出る。
声を上げて、道行く人に助けを求めても、足を止めてくれる人なんていない。
今日ほど、私が猫であることを恨んだ日はないと思う。
私が彼と同じニンゲンだったら、誰でもいい、手を取って、助けを求めれるのに。
ニンゲンだったら、電話を使ってお医者さんを呼べるのに。
ニンゲンだったら、病院に彼を連れていけるのに。
必死に鳴いても、叫んでも、誰も見てくれない、気づいてくれない。
「うるせぇ!」
お腹の辺りに鈍い痛みが走って、見上げると一人の男性が冷たい目でこっちを見下ろしていた。
-お願い、彼を助けて…。
ヨロヨロ、立ち上がった私が気に食わなかったのか、男性の雰囲気が剣呑なものになる。
-私はどうなってもいい。でも、彼は助けないと、
何度蹴られても、何度も鳴いたら、異常を察してくれるかもしれない。
衝撃に備えて体を固くした時だった。
「何してるんですかっ!?」
「…ちっ」
甲高い声と低い舌打ち。男性の気配が遠ざかっていく。
しゃがみこみ、私を覗く女性は数日前、家に来た女の人。
「大丈夫っ?
…あ、君、陽介の所の……」
彼越しに視線が一度会っただけだけど、彼女は私の事を覚えていたらしい。
「陽介はどうしたの?」
その言葉に、私は痛むお腹なんて無視して、彼女の袖を引っ張った。
「えっ?ちょ、何??」
-お願い、気づいて。彼が…
「陽介に、何かあったの?」
あまりにも必死な様子に彼女は何かを察してくれたようで、私を抱き抱えると、マンションまで走っていく。
途中、大家さんに必死に事情を説明して合鍵を借りると、彼女はエレベーターに乗る。
-間に合えっ。間に合えっ。
ドアを開け、土足のまま中に入っていく彼女。
キッチンで倒れる彼を見て、私をそっとソファーに下ろして、携帯を取り出した。
電話をかける彼女の姿を見て、安心した私はお腹の痛みに限界がきて、目を閉じた。
気が付いたのは、病院の診察台の上。彼女が連れてきてくれたらしく、先生に抱えられて、出てきた私を迎えてくれた。
しばらく昏睡していたらしく、彼が倒れてから、私が起きたのは二日後のこと。
そのまま彼女に連れられて、着いた先は病院。
敷地内にある大きな樹の下、車椅子に乗って、彼がいた。
「悪いね。雪」
「ここに来る途中にあるし、いいわよ。
貴方はまだ入院中なんだし」
この前とは違って、朗らかに話す二人。
彼女腕の中から彼の膝へ、私は彼を見上げる。
「それじゃ、私これから仕事だから。着替えは看護師さんに渡しておくわね」
「ああ、ありがとう」
ヒラリ、手を振って彼女は歩いて行った。
「心配、かけてごめんね。
君が雪を呼んでくれたんだってね。ありがとう」
「それでね、決めたよ。やっぱり、手術受けることにする」
そう言った彼の笑顔は、今まで見たどの笑顔より綺麗で、優しくて、陽だまりみたいに温かいものだった。
-猫、見つかっても大丈夫なのかなぁ…。
そんなことを思いながら彼の膝の上で、一緒に大きな樹を見上げた。