移動
川の水が気持ちよかった。
空は澄み渡り、白い雲が流れて行く。横で時折、魚が跳ねる。
そして冷たいしぶき……。
気持ちいい。
流れに身を任せているのが気持ちいい。この水音も心地いいし……。
ああ、平和だぁ……。
と、シルフィードは森の中を流れる河の流れに身を任せ、白い雲の流れる空を見上げていた。
「ひたっているところを悪いが、シルフィード、もう少ししたら滝だぞ」
エムがぽつっと告げた。
水音は静かで、滝が近いとも思えないままシルフィードは隣で船とは名ばかりのいかだに乗って棹を操るエムに視線を向ける。
その横にはピアが棹を操っているエムの補助をしている。
「滝? ずいぶん静かだけど?」
シルフィードの言葉にエムは好きにしろとばかりに視線を波に向ける。
時折、棹に使っている棒が泳ぐシルフィードにあたりかけるが、シルフィードは器用に切り抜ける。
「聞こえないか? 音の質が変わった。それに見える樹の位置が低い。それにこの辺りには湖があったはずだからな」
淡々と告げるエムの言葉にシルフィードはいかだに近づこうとした。
この星のことは多分エムが一番詳しいだろうという考えに従おうとしたのだ。
「ふぅん、……!」
船酔いを理由に乗るのを拒絶し続けるより安全を優先しようと、いかだに手をかけようとした途端、急な流れにその体が引きずられた。
「助けるか?」
エムが感情を込めず、静かに尋ねる。
「およげるわぁああ!」
とっさに意味不明なことを口走ったシルフィードの言葉にエムもピアも面食らう。
「いや、そー言う問題? って、もう遅いか」
そして、面食らっているうちにシルフィードは流れに飲まれ、樹の洞にむかい流れ込む流れに巻き込まれたことが二人には見えた。
「お母様?」
心配そうなピアの声にエムは優しく微笑んだ。
「きっと何とかするだろう。こっちも流れが急になるはずだ。転移を繰り返すからしっかりつかまってなさい」
心配そうな表情の消えないピアの肩をエムは軽く叩き安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。ただ、急がないとね」
流れはシルフィードを樹の洞に引き込んだ。
――音からして滝が近いとは思えないが、確かに下り行程のようだ。
問題は流れにこのまま身を任せておくことが賢明かどうかだ。
流されるにつれて洞は次第に広く、うねり、そのうねりとはっきりとしてきた傾斜のせいで流れは急になってきた。
シルフィードは流れに身を任せつつ、周囲を見たり、感触を確かめたり、できうる範囲の状況判断に余念がない。
いくつかの支流から新たな水がシルフィードのいる流れに流れ込んでくる。
段差やうねりのたびに壁面に手をかけようとするが、幾度か流れにじゃまをされたシルフィードは流れにあまり逆らわないようにしつつも服の隠しからナイフを取り出す。ナイフについたリングにどこからか取り出した細いワイヤーを通した。
ひとつ息を吸い、シルフィードは流れに逆らった行動にでた。
がつっ!
音を立ててナイフが壁面に突き立つ。
きゅるるるるるる
ワイヤーの伸びる音が水の流れに打ち消されながらも洞の中に響く。
シルフィードはリストバンドから伸びるワイヤーを握りながら安堵の吐息を漏らした。
ギッ!
べぎょっ
不吉な音を立てて、壁面の一部がはがれた。
なんと、腐っていたらしい。
「つ、ついてねーっ!!!」
無駄な声を上げる。シルフィードの言葉は水音にかき消された。
ぽっかり開いた空洞に水が大量に流れ落ちていくせいで水量は半減、流れの勢いもずいぶんと弱まる。
そして、はがれた壁面が凶器ともなる破損部分をシルフィードに向け、幾つも流れてくる。救いは水の勢いが多少は弱まり、広さは十二分にあるということだろう。
シルフィードは意を決した表情で襲い来る凶器を睨みつけた。
「よぉ、シルフィード、生きているようだな」
「おうっ!」
シルフィードは明るく手を振ってエムに答えた。
樹の洞は川底からその流れを川に返していた。
川底の方から顔を出したシルフィードは頭を振ったり、髪をかきあげたり水気を飛ばす行為に夢中そうだった。
そんなシルフィードを見ながらピアがそっと呟きをもらした。
「私もそっち行けばよかったかな……」
ピアがエムの後ろからそっと控えめにそう言った。
「やめときなさい」
ピアの言葉をエムが素早く封印する。
しゅんとうなだれているピアを可愛く思いながらシルフィードは思い返すような表情で空を仰いだ。
びしょ濡れなのは最初からとして、シルフィードの服に擦り切れてる部分もあることを三人とも見なかったことにした。
シルフィードにしてもピアにしてもそれより気になることがあり、エムにいたっては気が付く余裕がないようだったからだ。
「で、エム、体調はどうだ?」
シルフィードの問いに軽く頷くエムの顔色は先ほどからひどく青ざめていた。
それでもエムは笑みを作り、静かに答えた。
「ああ、吐き気は治まったし、少し、熱がある程度だ。早く、休める場所に着きさえすれば、大丈夫。お前の船に着くのにもう時間はかからないのだろう? 次の移動はそこについてから考えよう」
シルフィードは軽く頷いて板っきれの上でバランスを取る。
「お母様、代わります」
顔色の悪さを見かねたピアがそう言ってエムの手から棹を譲り受ける。
「ん、ありがと」
エムがそのまま目をつむってしまう様は本当に調子が悪そうだ。
「シルフィード、そっちどうだったの?」
小声でピアがシルフィードに尋ねた。
見上げる瞳は好奇心に輝いている。
「ん~、スリル満点。こいつに攻撃されるとこだったからな」
そう言ってシルフィードは足もとのボード、もとは樹の洞の壁面だったものを蹴って見せた。
「で、エム、大丈夫か?」
ピアは眠り込んでしまっているエムをじっと見てからしっかりと頷いた。
「大丈夫よ。安定はしているから。早くちゃんと休めた方がもちろん、いいけど」
それから間をおくことなく、三人はシルフィードの落ちた船が捕まっている樹のそばまで戻ってくることが出来た。
「いやぁ、ヤな光景だねぇ」
シルフィードはぶら下がる接近者の多さに辟易し、ぼやきをもらした。
シルフィードの船『ANNA』の周囲に腕や足、歯車が異様な位置に異様な状況で散乱しているのだ。
はっきり言って気がめいる光景。
緑萌える木々や草の合間から剥き出しの乳房やスカートのきれっぱしまで散乱していたりするからなおさらといえた。
植物に眼球や腕が実っているようなとでも言うのだろう。でも、足の実や髪の花を喜ぶ気にはなれないシルフィードだった。
シルフィードは眠っているエムを背負って、さっさと船に戻る。
背負っているエムの熱がかなり高いのがやっぱ気になるせいが大きい。
シルフィードとしてはエムの体調がかなり気になるらしかった。
船の警備システムの解除、ロック解除とてきぱき動きつつ、常にエムに気を配る。
「面白い家ね」
ピアが白乳色で傷だらけの『ANNA』を眺めてそう言った。
その言葉を聞きつけたシルフィードはうれしげに振り返る。
「そうか? ま、家じゃなくて船だけど、確かにこれからしばらくはこれが家になるのかな」
エムをシルフィード自身の寝室に寝かせて、自分達も着替えてから、ピアに船内を案内した。
ピアとエムには自分の替えの服を提供した。
「えっと、ここが倉庫で、そっちが寝室、キッチン……」
指し示しながらピアに説明するシルフィード。
「ここは?」
「え?」
尋ねるピアにシルフィードはその部屋を覗き込み、首をひねった。
必要最低限しか使っていなかったシルフィードの様子にピアは少し呆れたように笑う。
「シルフィード、使えてないトコ多すぎだよお」
「るっせ。機械系苦手なんだよ。それと、シーファでいいぜ」
「シーファ?」
ピアが不思議そうにシルフィードを見上げる。緑の瞳を大きく見開いて無防備な感じだ。
やわらかい印象の笑顔をシルフィードは浮かべた。
「ああ、親しい友人とかはみんな、そう呼ぶから」
「ゆう・じん?」
不思議そうな声で呟きをもらすピアの様子にシルフィードは困ったように頭をかいた。
「ああ、ピアが嫌なら今まで通りでいいし……」
「嫌じゃない! シルフィード、ピアのこと友人にしてくれるの? シーファって呼んでいいの? ピアのこと好き?」
シルフィードは素早く言葉を封じようと必死になるピアを困ったように見下ろした。
どうしてこんな反応を示すのかがシルフィードにはわからなかった。
ピアは必死にすがるような眼差しでシルフィードを見上げている。
「好きだよ。俺はピアをも一人の妹みたくかわいく思ってるしね」
シルフィードはそう言うと、優しくピアの頭を撫でてやった。
……
ピアはシルフィードを見上げながらにっこりと微笑をつくった。
「ピア?」
不審そうに問いかけ、見つめているシルフィードを見上げる表情は笑顔だ。
いぶかしむシルフィードを見上げながらピアはふいに口を開いた。
「ねぇ、この船の機械、触っていい? それともダメ?」
「かまわないよ。ピアの好きにするといい。で、ピア、もしかして、頭撫でられんの嫌いだったりする?」
シルフィードの問いかけにピアは少し考え込んでから頷いた。
「うん。好きじゃないみたい」
―――お父様を思い出すから―――
ピアはその言葉を飲み込み、寂しげに映る笑顔をシルフィードに向けた。
シルフィードはピアが計器をいじっているのを横目に見つつ、通信機器がやはり交信不能状態のままなことを確認した。
「ねぇ、シーファ」
ピアがシルフィードを見て微笑んだ。
「ん?」
次の言葉を待つシルフィードを見たままピアは軽く首を傾げた。
「聞きたいことがあるの。いいかしら?」
シルフィードは使えない通信機のスイッチをオフにしながら頷いた。
「も、一人の妹って?」
好奇心をたたえた瞳でピアはシルフィードを見つめた。
「ああ、俺、3兄弟の真ん中なの。上は、異父兄、下は異母妹ってね」
ピアはシルフィードの情報が少しでも欲しかった。
もっと彼を知りたいと思っていた。
「お兄さんもいるの……ねぇ、もしかしてお兄さんと妹さん、血のつながりゼロ?」
ピアの疑問にシルフィードは頷いて手を振った。
「まぁね、けっこう、板ばさみで大変なのさ」
ピアは好奇心をそそられたのか続きを聞きたそうな顔でシルフィードを見た。
シルフィードは一つ咳払いをし、話を続けた。
「お袋と親父、両親は仲が良いんだけど、親父が時々浮気っけを出してね、外に女作るわけ、状況わかる?」
熱心に頷くピアを確認しつつ、シルフィードは話を続けた。
その視線はモニターとピアを交互ぐらいに見ている。
モニターには『ANNA』の現状と異物の散乱する外部の様子が映っている。
「そんなんで妹ができたって訳だ」
そう言ってどう言葉を続けようか悩むようにモニターを見つめ、また視線をピアに戻した。
「ちなみに兄貴はお袋の前の結婚の時の子で、ん~、いわゆる連れ子って奴。ちょっと違うんだけどね。で、二人とも血のつながりにこだわりがあるのかして互いを兄妹認識してないし、俺のことは自分の兄弟だと思っているし、うっとうしいんだよな」
なんとかシルフィードなりに言葉を選んで彼にとってはややこしく面倒くさい兄弟関係をピアに説明した。
一区切りいれ、シルフィードはぼんやりとモニターの遥か向こう側を見つめる。
―――シーファは誰にもまともな感情を抱いたりしないじゃない!
シルフィードには兄を兄とも思っていないようにしか聞こえない妹のそんな言葉が聞こえてくるようだった。
ついでに、
―――サボってないで、きりきり動け。
いつだってプレッシャーと一緒に無理難題を押し付けてくる天然健忘症の兄の言葉も……
ほんの少しの沈黙の時間、ピアはシルフィードをじっと見つめていた。
シルフィードがハッと思い立ったかのようにピアを見た。
「あ、誤解しないように。俺両方ともの兄弟のことこれでも好きなんだからな」
愛嬌たっぷりに口元で指を振って見せるシルフィードを見つつピアは微笑んで頷いた。
「うん、なんとなくわかる。シーファ、嫌いな相手って少ないでしょ」
シルフィードはにやっと笑って頷いた。
「まぁな」
作業を続けていたピアはパチンと計器のスイッチを切り、体ごとシルフィードの方を向いた。
「だから、じゃない? きっと特別な愛情、反応を示して欲しいのよ」
髪を払い、イスの上で足を組み替えたピアはシルフィードを覗き込むように見上げた。
「私、それってわかるよ。特別ってすっごく気持ちのいい言葉だもの。私もお父様の特別だった時……はじめのうちだけだけど、得意な気分だったわ」
ピアはシルフィードを見据えたまま、そう告白した。
今、言ってしまわなければならないと追い詰められているような印象をシルフィードは受けた。
「得意?」
「ええ。当たり前の状況が他の子にとっては当たり前ではなく特別だってことに気がついた時に、ね。他者との違い、区別、差別。特別な存在よ」
言葉は穏やかで、淡々としつつも懐かしむような響きがある。
ピアにはいつから特別であることが嫌悪に変わったのかは覚えていない……気がついたらなんとなくそうなっていた。
理不尽だとピア自身でも思うが、その時期を思い出せないのだ。
「ついてきたこと後悔してる?」
シルフィードの問いにピアは静かに首を横に振った。
銀の髪がさらさらと音を立てて揺れる。
「後悔? どうして? 外を見れて今、好きなことをしているわ。私、今が楽しいわ」
シルフィードはどっちがどっちに人生相談を持ちかけていたのかと首を傾げたくなった。
とりあえずピアは後悔していないと思っているらしい。
「なら、いいんだ。いつか後悔する日があるかも知れない。その時までは思い返す必要もないか」
ピアは怪訝そうな表情でそんなことを言うシルフィードを見ている。
きっちりシルフィードに視線をあわせ、数回の瞬き。
「まばたき」
ピアはそう呟いたシルフィードを見ながら両手を腰に当てた。
その瞳には濃いいらだちが含まれる。
「瞬きくらいするわよ。あなた達人間と同じような行動くらい取れるに決まっているでしょう?」
ほんの少し見下すようないらだたしげな口調。
眉をひそめて告げた時の表情は意外に『お母様』そっくり。
答えが帰ってこないことに焦れたのかピアは続けた。
「ねぇ、後悔したとき、私はシーファを嫌いになるの? そんなことないと思うわ。後悔したとしたらそう決断した自分を嫌いになるわ。悔やんで後悔する自分をね。シーファは後悔したことある? 悔やんだりしたことある? それを引きずったりする?」
ケンカを売らんばかりの言い方でシルフィードを睨みつけ、いらだたしげにこぶしをつくったり、開いたりを繰り返す。
「引きずりはしないな。後悔することは何度だってあるけど」
そんなピアを眺め、面白そうにシルフィードは答えた。
ピアはこつこつと計器のガラス板を爪で打ちながら目をそらした。
こつこつこつこつ…………
神経質な音が響く。
「ふぅん……、で、自分のこと、嫌いなの?」
シルフィードは吹き出した。なんとなく笑わずにいられなかった。
そっけなく興味なさそうなピアの声には逆に答えに対する関心の深さがうかがえた。
「まさか! 俺は自分が好きだぜ。女にはもてねーけど好きなことしているし、突っ走って怪我するけど得れることも多いからな。人生失敗と収穫の連続さ」
大きく両手を広げて実際思っている持論を再確認。
シルフィードにはそういうことを問い掛けてくるピアがかわいくて仕方ない。
そんな思いをあっさりと表面化して笑っているシルフィードをピアはじぃっと見た。
こんな存在に触れるのが珍しいと感じていた。
「いざ付き合ってくれる人がいなかったら……」
シルフィードはその言葉を聞いてきょとんとピアを見る。
「私、なんてどう?」
ピアは見られているのが恥ずかしかったのか、そっぽを向いてそう呟いた。
ピアは自分でどうしてそんなことを口走ったのか理解でかなかった。
そばでもっと見ていたいと思っただけのはずだった。
シルフィードはうれしそうに笑うと自分のだぶだぶのシャツを着ているピアに近づき、ぎゅっと抱き締めた。
「ピアに好きな人が出来なきゃね」
ぎゅっと抱き締めたピアは可憐な花の匂いがした。