第八話 灰色の記憶-エドワードの日記-
【一九九〇年八月十日】
今日、ロージィとハドリーを見送ってきた。胸が張り裂けそうに痛い。決めた日からずっと、仕方の無い事なのだと、何度も自分に言い聞かせてきたが、それでも二人を失うのが辛い。
だが、モースがハドリーに執着している限り、ロージィは彼らの束縛から逃れられないだろう。私は彼女を守らねばならない。
守らねばならないのだ。
【一九九〇年十月十日】
ハドリーは学校でも元気に過ごしているようで安心した。電話口のロージィも明るい声で、落ち着いているようだった。
モースの両親が時折訪ねて来ているらしかったが、余り気にしないようにロージィには話したが、彼女には強くは言えない。
早く休暇が来て欲しい。ロージィとハドリーに逢いたい。
【一九九〇年十二月二十三日】
さっき眠っているハドリーの部屋を覗きにいった。少し見ない間にまた大きくなっていた。愛おしい。
瞳を輝かせて、頬を染めて私を見上げているハドリーを見る度に愛おしさが募ってくる。日々静かにハドリーを見守ってくれているロージィに感謝する。
何時もより感情を表して私に縋りついてきた先ほどのロージィの事を思うと、愛しさと悲しさがこみ上げてくる。
何時も傍に居てやりたい。傍で抱き締めたい。
なんとか内地勤務が出来ないか相談はしてはいるが、暫くは無理そうだ。根気よく本国と交渉する事にする。
【一九九五年十月十三日】
今回も内地への転属希望は通らなかった。ロージィに告げた時の悲しそうな声に胸が痛む。何か言いたそうなロージィの様子も気に掛かる。早く次の休暇が来ないものか。
【一九九六年六月四日】
次年度からカナダに赴任する事になった。まだ本国には帰れない。忙しい日々の中でロージィに何とか電話するが、最近のロージィの声が沈んでいるのが気に掛かる。
この夏は、何としても時間を作って帰国せねば。
【一九九六年八月十日】
ロージィの告白が今でも信じられない。肩を震わせて泣いている彼女にどう声を掛ければ分からなかった。
私は彼女を守れなかったのかと、懺悔の念が浮かんで消えない。
彼女に残酷な仕打ちをしたモースを許す事が出来ない。
だが、そのモースに強く出れば、それがまたロージィを傷つける事になるのだ。私はどうすればいいのだ。頭を掻き毟っても答えは出ない。いっそ外交官を辞めて、本国で別の仕事を探すべきか。
もうこれ以上、二人と離れていてはいけない。私が離れている間、ロージィはオーガストに呼び出されて抱かれているのだ。
嫉妬で胸が焼け尽くされそうだ。誰か助けてくれ。
【一九九八年九月六日】
この夏も本国に戻らなかった。弱い私を許してくれ、ロージィ、ハドリー。
【一九九八年十一月二十日】
ハドリーはE校で学年首席だそうだ。モースも文句のつけようがないだろう。独りで必死に頑張っているハドリーに涙が零れる。
最近のロージィは私の声を聞くだけで怯えるようになり、話す事も出来ない。
何度も本国への帰還か、辞職か、上司に申請しているが通らない。モースの差し金だろうか。もう疲れて何も考える気力がわかない。
【二〇〇〇年一月十五日】
ロージィに起きた事を、年が明けてから聞かされた私は、何もかも投げ打って本国へ戻ったが、モースはロージィを何処かへ隠して教えようとはしない。ハドリーにも会わせようとはしない。初めてモースの両親を罵倒した。
人づてにロージィの居場所を探させてはいるが、もう、私の声は彼女には届かないのだ。
何故もっと早くに戻らなかったのか、何故もっと早くあの家からロージィを引き離して、家族三人だけで貧しくとも暮らしていこうとしなかったのか、ただただ後悔の念ばかり浮かぶ。
幼い頃から、貴族令嬢として親に従う事だけを命じられて育ったロージィには、どんな理不尽な命令でも、逆らう事が出来ないのは分かっていた筈だった。
それでも過去に愛していた人との逢瀬なら、自分さえ我慢すればロージィの負担にはならないのではと思っていた自分が愚かだった。彼女が、自分にどれだけ想いを寄せてくれていたか、分かっていたではないか。私への懺悔の念から彼女の精神は壊れてしまった。
神よ、どうかロージィを返してくれ。この手に返してくれ。
私は絶対に、もう彼女の手を離しはしない。ハドリーとロージィをこの腕に抱えて離さない。どうか、私に家族を返してくれ。
【二〇〇〇年十二月二十日】
今日モースを訪ねたが玄関先で追い返された。上を見上げた時に一瞬ハドリーの姿が見えたが、叫んでもハドリーには届かなかった。
ロージィの居る場所は分かったのだが、逢いにいく事は出来ない。私が行った事が知れたら、また何処かに移されてしまう。キチンとした医療施設のようなので、ロージィが回復するのを祈るしかない。
ロージィに逢いたい。ハドリーに逢いたい。毎日想うのは、そればかりだ。
【二〇〇二年十月三十日】
この中南米に赴任して二ヶ月が経った。ハドリーには毎日手紙を書いているが読んでくれているのだろうか。返信が全く来ないのだから、きっと読んでいないのだろう。本国への用事で戻った時に、学校へ面会に行っても何時も逢えない。
ハドリーも、もう十七歳だ。もう大きくなったんだろうな。そろそろ一緒にエールが飲めるのかもしれない。けれど、私の心の中のハドリーは、何時までもクリクリとした瞳の少年のままだ。
私は、そんなに長い間息子を放置してきたのだ。
ハドリーが私を許すわけがないのだ。今日も涙が止まらない。
【二〇〇三年六月三十日】
ロージィの病院から、私宛に連絡が来た。人づてを頼って頼って、ようやくロージィの病院内とコンタクトを取る事に成功して、密かに連絡を貰う事が出来るようになってはいたが、今回の連絡は驚くべきものだった。
ロージィが退院する。ロージィが帰ってくる。モースよりも先に連絡を貰った私は、直ぐにでも本国へ戻る事にした。もうロージィを誰にも渡さない。誰にもだ。
【二〇〇三年七月二日】
ロージィはすこしやつれては見えたが、変わらずに美しかった。私を見ると「ごめんなさい」と泣いたが、私は黙ってロージィを抱き締めた。何度も何度も耳元で愛していると囁いた。
ロージィを守れなかった自分を何度も詫びた。そしてまた二人で共に生きていこうと誓い合った。モースの力の及ばない今の中南米でなら、穏やかに暮らせる筈だ。
もう誰にも君に触れさせないと誓った私に、ロージィも頷いた。私を愛していると言ってくれた。愛してる、ロージィ。
そして、一緒にモースからハドリーを取り戻そうと誓った。
モースには渡さない。ハドリーは私の息子だ。愛する息子だ。
【二〇〇六年七月十日】
今日、モースからやっとハドリーの連絡先を聞き出した。
エイブラハムにようやく男の子が生まれたそうだ。素っ気無く、「おめでとう」と言ってやった。だから私のハドリーを返してくれと、言った。
だが、やはりハドリーは私達を恨んで、憎んでいた。
私の思い出の中では明るい少年の声だったハドリーの声は、大人びてすっかり変わっていた。
私に投げ付けられた怒りの言葉を、ただ私は黙って受け止めた。ハドリーが私達を許さないだろう事は分かっていた。時間を掛けて、少しずつ心を通わせていくしかないだろう事も分かっていた。
ロージィは号泣して悲しんでいたが、きっと何時かは分かり合えると慰めた。
時間が掛かってもいい。それが私が死ぬ直前でもいい。もう一度ハドリーを抱き締めたい。あの日、ウルルを見に行った日のように、また親子三人で一緒に暮らしたい。
ハドリー、愛している。私のハドリー。