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第七話 鳶色の瞳の少女

 中央の舞台に立ったハドリーは、成功を収め、一躍脚光を浴びる存在となった。豊かな声量の朗々としたテノールと繊細かつ大胆な演技に、『明のラルフ、陰のハドリー』と、当時同じように頭角を現していたラルフ・カールソンと共に若手の実力者として認められるようになっていった。



 ハドリーはロンドンの家に戻り、リンダは引っ越しの手配が間に合って家を出ていたが、一緒にシェアしていた同じ研修生でリンダの友人クレア・クロックフォードは、手配が付かずに、決まるまでもう少し居させて欲しいとハドリーに頭を下げた。

 北部の田舎町出身のクレアは、髪はシルバーブロンドで、美しい長髪だったが、全体的に垢抜けない野暮ったい印象の大人しい女で、全く興味の無かったハドリーは「勝手にしろ」と、素っ気無くしていたが、ハドリーに惹かれたクレアが、泣きそうな顔でハドリーの部屋をノックしてきた時には、拒まずにクレアを抱いた。


 暫くは、そのまま一緒に暮らしていたが、元々クレアに余り興味の無かったハドリーは、外でも食指の動く女を抱いて、深く傷つき思い詰めた顔でクレアがナイフを手にしてハドリーに迫った時には、「刺したかったら刺せ」と、背中を向けてクレアを拒否した。

 結局、クレアは刺そうとしたが力が入らず、ハドリーの背に僅かに傷をつけて服を切り裂いただけで、その場に泣き崩れたクレアを心配して駆けつけたリンダが抱き抱えて、ハドリーを罵倒し続けるのを、背中を向けたまま黙って聞いていた。



 『実力はあるが気難しくて女に冷淡』というレッテルがハドリーに定着するのにそれほどの時間は掛からなかった。

 だが、ハドリーの実力を評価する人間は、そんなレッテルは関係なく、真剣に舞台に打ち込むハドリーに対して、同じように真剣に向き合った。この中央には、そんな人間の方が多かった。



 そんな中、ひたすらに舞台に集中するハドリーを、気にしていた人物が居た。同じ若手のラルフ・カールソンだった。

 ハドリーが抱える闇に気付いていたラルフは、何時かハドリーがその得体のしれない闇に飲まれてしまうのかもしれないと案じていたが、頑ななハドリーにどう接していいのか戸惑っていた。

 だが、ある日ハドリーが楽屋にベースを持ち込んで弾いているのを見て、ラルフはさり気無くハドリーを誘った。

「俺、バンドやってるんだ。お前、ベースやらないか」

 静かにハドリーを見るラルフに、ハドリーは暫く考えていたが、

「いいだろう。だが、合わないと思ったら、とっとと辞めるからな」

 と、不機嫌そうに呟いた。


 ハドリーはラルフに、フレッドとはまた違う居心地の良さを感じていた。

 自分と余り変わらない年齢の筈なのに、穏やかで落ち着いているラルフは、ハドリーを受け止める大きな器を備えていた。

 目指す音楽性にも違いが無く、無愛想なハドリーにバンド仲間も慣れて、意見を戦わせる時には互いに徹底的に遣り合い、共に音楽を作っていく時には研ぎ澄まされたお互いの感性をぶつけ合って、高みを目指そうという仲間が其処には居た。

 此処も俺の場所だ、そう受け止めたハドリーは、舞台同様、この仲間との絆も大切に思うようになっていった。


 舞台で、着々と実績を積み重ねていったハドリーは、二十九歳になっていた。

 その春行われる特別公演にキャスティングされていたハドリーが、顔合わせに出掛けた日の事だった。


 関係者入口付近で呼び止められたハドリーの目の前には、小さな女の子が居た。

 ――子供が居る時間じゃないだろうに、なんだコイツ。

 怪訝そうなハドリーに、顔を真っ赤にした少女は自分は出演者だと名乗った。

 栗色の髪は暴れたようにクルクルとしていて、大きな鳶色の瞳を困ったようにウルウルとさせている少女に挨拶すると、ハドリーは戸惑って目を逸らした。あの時のローズマリーを思い出させる髪を、これ以上見たくないと思っていた。



 十七歳の筈なのに全く子供にしか見えないこの少女に、ハドリーは初めは何の興味も無かった。ただまともに歌えればそれでいいと思っていた。

 ところが、その歌声は、ハドリーの想像を遥かに超えていた。


 心を鷲掴みにされたハドリーは、少女から目を離す事が出来なかった。そして、何時もならば目の前に雪がちらつき始める筈なのに、狂った母と同じ髪を持つこの少女を見続けていても、雪が降り出す事は無かった。

 それが何故なのかハドリーには分からなかった。自分が母を許した証なのだろうかとも思ったが、外で栗色の髪の女を抱いた時には、やはり激しく雪がちらついた。不思議な事に、ハドリーに雪を降らせないのはこの少女だけだった。


 少女を見ていると、心の中を吹き荒んでいた冷たい風が穏やかになり、春の香りを運ぶ風に変わるのにハドリーは気付いていた。

 だが、これまで沢山の女を抱いて捨ててきたハドリーには、誰かを愛した経験が無かった。それが愛だと気付くのには、時間が必要だった。



 自分がこの少女ニナ・ジェフリーを愛していると気付いてからは、ハドリーは心に深い傷を抱えたニナを守るのに必死だった。

 傍らのニナを見つめていると、心の中に芽生えた青草が背を伸ばして生い茂り、心が凪いだ草原に変わっていくのを感じていた。


 空虚だった自分の心を埋めてくれるニナを、ハドリーはひたすら愛した。

 ニナは心に大きな傷を抱えてその肌に触れる事も出来なかったが、それでもハドリーは無為に女と肌を重ねていた頃よりも、満たされている自分に満足していた。


 ――ニナと生涯を共にしたい。


 ニナを得て、より充実していく舞台と共に、自分の失われた時間をニナと共に取り戻したいとハドリーは願った。

 穏やかで満ち足りて、お互い笑顔で暮らす普通の家族のひと時を取り戻したいと、そう願っていた。



 結婚が決まったハドリーとニナは新居への引越しを決め、長い間住み続けていたロンドンのアパートを出る事になり、その日まで片付けに追われていたハドリーは、手付かずの納戸の事を思い出した。


 久しぶりに納戸の鍵を開けると、湿った黴臭い空気にハドリーは顔を顰めた。雑多に置かれた荷物は、使われなくなった家具類や、自分が幼い頃の玩具、大きなダンボールなどで、納戸全体に無造作に詰め込まれていて、その量にハドリーはため息をついた。


「部屋ごと丸ごと捨てるか。どうせ何年も放置して不要だったものばかりだしな」

 入口近くに置かれたダンボールの山を叩きながら独り言を呟いたハドリーだったが、手近なダンボールを開けてみて、それが、両親が亡くなった時に赴任先から送られてきた遺品である事に気づいた。

 パリパリと音を立てるアルバムを開くと、幼い自分を囲んで微笑む両親の笑顔があり、どの写真も幸せそうに笑っていた。

 長らく両親の事は忘れていた自分に、胸が痛くなるような思いと、心の隙間に吹き込む寒々とした風を感じたハドリーは、アルバムを閉じてそのままダンボールに戻そうとしたが、その下にひっそりと置かれている日記帳に気付いた。


 父エドワードの物と母ローズマリーの物とが、並ぶように何冊も置かれていて、見るべきか見ざるべきか、逡巡したハドリーだったが、これからニナと二人で生きていくために、自分の過去に決着を付けたいと、ハドリーの心に静かな決意が浮かんでいた。


 父の日記は、ハドリーがロンドンに戻ってから死ぬまで綴られていたようで、同じく母の日記も、ロンドンに戻ってから狂気に堕ちるまでと、父と二人で再度暮らし始めてから死ぬまでの間綴られていた。

 二人分の日記を、書かれた年代から整理したハドリーは、納戸の壊れかけた椅子を引き寄せ、父エドワードの最初の日記を手にした。

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