第六話 蒼の闇夜
「おい、ハドリー。見ろよ、大漁だぜ。入れ食い状態だ」
シアターの二階の小窓から、真下の裏口を覗き込んだフレッドがニヤリと笑ったが、フレッドの隣からチラッと外を覗いたハドリーは詰まらなさそうな顔で鼻で息をした。
「ふん。どれも食う気はしないな。マッシュポテトはもう沢山だ。最後の夜だ。派手に血の滴るステーキを食いに行くぞ」
ハドリーはニコリともしない無愛想な顔でフレッドの肩を叩くと、スタスタと階段に向って歩き出し、その後姿にフレッドは苦笑して、小走りにハドリーに追いついて並ぶと肩を抱いた。
ハドリーは二十四歳になっていた。両親の葬儀が終わるとさっさと大学を辞めアカデミーに入学し、本格的にミュージカルの勉強を始めた。何時も無愛想な顔で誰とも交わろうとしなかったハドリーだったが、このフレッドとは不思議と馬が合った。
夢を夢見ているだけの他の学生には目も暮れず、二人で喧々諤々と演劇論を交わし、いつも不機嫌そうなハドリーに臆する事なく、フレッドはいつもニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
一年間のアカデミーを終えると、フレッドと共に、研修生として地方の舞台を回り、ハドリーは更に磨きを掛けていった。
自分にも他人にも厳しいハドリーに、戸惑ったり、あからさまに怒りをぶつける人も少なからず居たが、それだけの実力を備えていると見抜いた人からは、仲間として信頼を寄せられていた。
相変らず女には冷淡で、一度共演者に手を出して、捨てられた女が大騒ぎして舞台が混乱した事があってからは、関係者に手を出す事はしなくなった。
「さあ、少しは愛想よくしろよ。お客さんなんだからな」
「ふん。愛想を振りまいたら、アイツらが俺の顔じゃなくて演技を見てくれるようになるならな」
フレッドがドアノブに手を掛けて、ニヤニヤと笑ってハドリーを振り返ったが、ハドリーはブスッとした顔のままで呟いた。
「ハドリー、舞台をどう見るかは客が決める事だ。お前、客がみんな評論家みたいな顔して並んでる舞台に立ちたいと思うか?」
フレッドはニヤリと笑って、ハドリーの肩を叩いて覗き込んだが、その緑の瞳は笑っていなかった。
フンと面白くなさそうに呟いたハドリーであったが、フレッドの言わんとしている事を理解したハドリーは、フレッドの肩を叩き返して「行くぞ」と、フレッドが手を離したドアノブに手を掛けて、裏口のドアを開けた。
その途端、裏口で出待ちをしていたファンから一斉に黄色い歓声が上がった。
長身でシルバーブロンドの髪をかき上げて、柔和な緑の瞳で片手を上げてファンに挨拶するフレッドと、ボサボサの薄茶色の髪に、眉を寄せた蒼灰の瞳で、フレッドより少し背が低めながらも、引き締まった体で全身でオーラを発するハドリーは、何処の劇場でも、毎回こうやって出待ちをするファンに囲まれた。
サインをねだるファンににこやかに応じているフレッドに対して、差し出されるパンフや紙に、面倒臭そうに素っ気無くサインをしていたハドリーであったが、「おい、そろそろ行くぞ」と、もうこれ以上は沢山だというようにフレッドを睨んだ。
まだ名残惜しそうなファンを残して、ハドリーとフレッドは夜の街へ向った。
街の中心部にある一軒のパブで、カウンターに並んで腰掛けていたハドリーにフレッドが徐に話し掛けた。
「お前、ロンドンに帰ったら住むところあるのか?」
地方の舞台を、フレッドと廻りながら中央へのチャンスを待っていたハドリーは、この春に中央の舞台でマリウス役でデビューする事が決まり、このオックスフォードの舞台を最後にしてハドリーはロンドンへ帰る事になっていた。
フレッドは、中央の舞台には興味を示さず、このまま地方を回り続けると宣言していた。
「ああ、元々俺はロンドンだからな。劇場から車で十分の所が自宅だ。其処に戻る」
本来であれば戻りたくない場所ではあったが、舞台に打ち込むには最高の環境で、ハドリーにとって舞台だけが全てで、自分の幼い頃の感傷など些細な事だった。
「地方を回ってる間は、あのクソ女にシェアさせてやっていたが、俺が戻るから出て行けと言ってある」
ハドリーはグラスの酒を空けて、目の前のバーテンダーに差し出した。
「クソ女……ああ、あのリンダか。お前が女に優しくするなんて、珍しいじゃないか。そういやアイツも金髪だったし、もしかして、あんなタイプが好きなのか?」
フレッドが意味有りげにケラケラと笑うと、ハドリーは不機嫌な目を向けて、不満そうにフレッドを睨んだ。
「誰が、あんなクソ生意気な女。母親が死んで行くところが無いというから、シェアさせてやっただけだ」
同じ研修生だったリンダ・アーガイルは、ハドリーに対しても、最初から物怖じせずにズケズケと物を言う珍しい女だった。
その辛らつな言葉はむかっ腹の立つものであったが、的確である事もハドリーを一層苛立たせた。
「ヘタクソのクセに一丁前の台詞を吐くな! まともに歌が歌えるようになってから言え! お前みたいなドヘタクソ、どの舞台でも使えないぞ!」
図星を指摘されたハドリーが、顔を真っ赤にしてリンダを怒鳴りつけると、リンダはケロッとして手を広げて平然と言った。
「そうね。私には才能はないみたいね」
呆気に取られているハドリーを尻目に、リンダは舞台からさっさと降りて、衣装デザインを学ぶと言って、デザイン学校に移ってしまった。
「まぁ、でも面白い女だよな。歌はイマイチだったが見る目は的確だった。将来一緒に仕事してやってもいいかな」
フレッドは当時を思い出して苦笑いしていたが、そっとハドリーに顔寄せて、「後ろの二人連れ……お前、どっちだ」と、ニヤリと笑って囁いた。
ハドリーが静かに後ろを振り返ると、スタンドテーブルの前に、金髪のストレートの髪を靡かせている女と、栗色の巻き毛の女が、意味有りげにハドリーとフレッドを見つめていた。何処かで見た顔だなと思ったハドリーは、二人とも劇場のダンスチームで見掛けた事を思い出した。
二人とも長身の引き締まった美しい体のラインを見せ付けるようなドレス姿で、ハドリーとフレッドを誘っていた。
栗色の髪の女はどうもハドリーに興味があるようで、振り返ったハドリーに、髪を揺らして誘う瞳で笑みを浮かべたが、ハドリーは忌々しそうに目を逸らした。
「……金髪だ」
「聞くまでも無かったな。じゃあ、俺は栗毛の方だな」
フレッドがハドリーの肩を叩くと、グラスを手にカウンターから二人とも立ち上がって、後ろで妖艶な笑みを見せている二人の美女に近づいていった。
フレッドとシェアしていたアパートメントはもう引き払っていたハドリーは、街のホテルに部屋を取っていた。
金髪の女を部屋に招き入れると、直ぐに女はハドリーの首に腕を絡めてきて、誘うようにハドリーのキスを待った。女の細い腰を抱きかかえて、赤く彩られた女の唇を貪るように味わったハドリーに、女は妖艶な笑みを浮かべて、
「じゃあ、シャワーを使わせてもらうわ。その間、大人しく待ってるのよ」
と、もう一度ハドリーにキスをして、手をヒラヒラと振って歩き出そうしたが、ハドリーは眉を寄せたまま、行きかけた女の腕を黙って掴み、そのまま引きずってベッドに放り投げた。
「ちょっと! 何を……」
髪を振り乱して、不満そうに顔を上げてハドリーを睨んだ女に、ハドリーは冷たく言った。
「俺に抱かれたいのなら、さっさと脱げ。抱かれたくないのなら、とっとと帰れ」
自分の体の下で頬を染めて切なそうに喘ぎ声を上げながら、顔を左右に振って身悶えている女を、ハドリーは冷たく見下ろしていた。
どの女を抱いても、ハドリーの心に吹く冷たい風を吹き消す事は出来なかった。
何時も空虚な後悔だけが残る事を知ってはいたが、それでも時折無性に女を抱きたくなる自分をいつも不思議に思っていた。
ハドリーの首に腕を絡めてきて、一層激しく喘ぐ女の荒い息遣いの向こうで、ハドリーの目の前に、またチラチラと静かに雪が降り始めた。
「クソッ」
その幻想を払おうとハドリーは女に深く腰を沈め、女の顔を見ないように顔を寄せて、女の頭を抱きかかえ目を固く閉じた。
自分の背中に食い込む女の指の感触を、ぼんやりと感じながら、ハドリーはただ時間が過ぎてくれるのだけを願っていた。