第五話 赤と黒の別れ
名門校を奇跡的に退校になる事なく卒業したハドリーは、同じく名門のケンブリッジ大学へ進む事になった。
卒業と同時に成年となり、父方の祖父が自分に遺した遺産を自由に使えるようになると、自分で大学近くにアパートメントを独りで借りて、ハドリーはさっさと其処へ移り住んだ。
相変らず祖父リチャードは、ハドリーに電話で口煩くあれこれと口出ししてきたが、ハドリーは全て無視していた。
その日掛かってきた電話も、どうせそんな小言だろうと思っていたハドリーに、リチャードは思いがけない事を告げた。
「ロージィが退院した」
その短い一言にハドリーは激しく動揺したが、その内心の動揺を悟られないように呼吸を整えて、冷たくリチャードに告げた。
「俺には関係ない。お前らが一緒に住めばいいだろ。俺は一緒には住まないぞ」
だが、リチャードは不機嫌そうな声で、忌々しさを言葉の端々に浮かべて言い捨てた。
「ふん。ロージィはもうエドワードが連れていった。赴任先で一緒に暮らすそうだ。骨の髄まで腐ったやつだな、あいつは。モースの名前が何処までも惜しいんだか。だがハドリー、お前は渡さんぞ。我がモースの唯一の跡取り候補だからな。クソッ、エイブラハムに男の子さえ生まれれば、お前など当てにせずに済むものを……」
リチャードの言葉を最後まで聞かずに、ハドリーは黙って電話を切った。
母ローズマリーの弟で、モース家の跡取りエイブラハムには嫡男が居なかった。生まれて来る子がみんな女子で、祖父母はこのままもし嫡男が生まれなければ、ハドリーをエイブラハムの養子にして、モース家を継がせる算段をしていた。
――お前らの思い通りになってたまるか。
ハドリーの心の中に降り積もった一面の雪原に、冷たい風が吹いていた。
「俺には、何もかも関係ない」
眉を寄せて固く目を閉じたハドリーは、自分に言い聞かせるように呟いた。
ケンブリッジでもハドリーは異色の存在だった。いつも不機嫌そうな顔で学内を歩いているハドリーを『Mr.無愛想』と呼んで、誰もが遠巻きにしていたが、その人を寄せ付けない凍えたオーラを魅力的と感じる女子が少なからず居て、興味を持って近づいて来る事も少なくなかった。
ところがハドリーはそんな女子とも数回寝ると飽きてしまって、泣きながら平手打ちされて去られるか、口汚く罵られるか、何れにしてもハドリーはそんな事も気にする風もなく、平然と女を捨てていた。
その内に学内の女子の間では『Mr.無愛想を誰が落とせるか』というゲームが人知れず流行っていて、自信有り気な美女やら才媛やらがハドリーに煩く纏わりつくようになったが、そんな風潮にもハドリーは何処吹く風で、気に入らない相手には素っ気無かった。
その日は学食で一人ブスッとランチを取っていたハドリーの前に、昨年のミス大学に輝いたケリーが、誘うような瞳で、「此処、相席いいかしら」と、妖艶にハドリーに微笑んだ。
艶やかな栗色の巻き毛を揺らし、淡緑色の瞳は綺麗に縁取られたアイラインとマスカラで、より大きく上目遣いで妖しく輝き、薔薇色の口紅で、完璧に塗られた口元の口角をキュッと上げて、美しい微笑を浮かべると、ピンク色で彩られたマニキュアが光る美しい手で綺麗な巻き毛をそっと梳きながら、ハドリーの前に、優雅に腰を下ろした。
学食内の男子学生達が皆一様に口を開けて、そのケリーに見惚れているようだったが、全く興味が無いハドリーは一瞥しただけで、目の前の自分のトレーの上の食事を淡々と胃に収めるだけだった。
ところが、仕切りに目線を送ってくるケリーの淡い緑の瞳が急に蒼に変わり、その顔付きも母ローズマリーのものに変わって、異変に気付いて顔を上げたハドリーはケリーから視線を外せなくなった。
それは、何時もの穏やかな優しいローズマリーではなく、妖艶に男を誘う目をして淫らな笑みを浮かべている母の姿だった。
愕然としたハドリーの手のスプーンが小刻みに揺れ始め、呆然と見つめている様子に、満足げな顔をしたケリーが口を開こうとした時、ハドリーの目の前にまた雪がちらつき始めた。
それは急激に勢いを増してまるでブリザードのように吹き荒れ、輝きを失った栗色の髪が風に吹かれ崩れて広がり、ハドリーの顔に纏わりつこうと、その触手を伸ばすかのように迫ってきた。
恐怖に見開いた瞳で震えていたハドリーだったが、
「……消えろ! 俺の前から消えろ!」
と叫んで立ち上がり、テーブルのトレーをひっくり返してケリーを睨み付け、呆然としているケリーを残して、荷物を抱えて学食を飛び出していった。
それからのハドリーは、栗色の髪の女性を見るだけで、目の前に雪がちらつくようになった。抱く女性も金髪の女性ばかりで、何時も不機嫌そうに眉を寄せて、ピリピリとしたオーラを漂わせているハドリーに近づく人間は益々少なくなり、学内で何時もハドリーは孤独だった。
自分が進むべき先が見えないのも、ハドリーの苛立ちを募らせていた。独学で学んだベースの技術は遜色ないレベルに達していたが、その性格から何処のバンドに参加しても長続きしなかった。
遊びでやっているバンドには見向きもしなかった上、直ぐに仲間と衝突を起こして、喧嘩になってバンドを追われているハドリーを誘う人間も段々と減っていった。
そんなある日、単位取得の為に取った演劇の授業で、退屈そうに一人離れて講義を聞いていたハドリーだったが、実践で舞台に立つよう指示されると、やはり不機嫌そうにステージの上に上がった。
シェイクスピアの劇の台詞の一節を、舞台で朗読するよう指示されたハドリーは、ゆっくりと息を吸って、手にした台本を見る事も無く、ゆっくりと語り始めた。
最初はぎこちなかったが、やがてハドリーの口から吐き出される言葉に静かな感情が篭り始め、朗々とした低めのテノールの美声が講堂中を響き渡った。
ハドリーは、静かな興奮の中に居た。今迄感じた事の無かった、熱い滾る想いが沸々と湧き上がってくる感覚に、不思議な気持ちで身を委ねていた。
――此処に居る自分は自分ではない。しかし、自分だ。吐き出されているのは俺の魂だ。
やがて、蒼灰の瞳を輝かせて、紅潮した頬で前を見据えて最後の一節まで語り終えると、ハドリーは静かに空を見上げた。
無愛想なハドリーの、意外な一面を見た学生達が、驚いたようにパチパチと拍手を送ったが、ハドリーは不機嫌そうな顔に戻って、また眉を寄せて黙って舞台を下りた。
「ハドリー、君はいい声をしている。君は舞台に向いているな」
講師が真顔でハドリーに話し掛けたが、ハドリーは黙って講師を横目で見ただけだった。
だが、それからのハドリーは乾いた大地に雨が降り注がれたかのように、演劇に没頭していった。
文献や資料を貪るように読み漁り、時間があると劇場へ出掛けた。授業でも頭角を現したハドリーを講師も熱心に指導し、ハドリーの歌の才能に気付くと、ある劇場を見にいくように勧めた。
その日、講師の勧めで見に来た劇場で、ハドリーは衝撃を受けた。それはミュージカルだった。元々それほど興味の無かったハドリーですら知っていた『レ・ミゼラブル』だった。原作を訳書でも原書でも読んだ事のあったハドリーであったが、その壮大な物語が凝縮され、濃厚な一滴となってハドリーの心に降り注いだ。
――見つけた。俺の居場所を見つけた。
興奮に頬を紅潮させて、舞台を見つめるハドリーの心には、もうあの雪原は無かった。雪の溶け出した大地に燃えるような緑の若草が芽生え始めたのを、ハドリーは感じ取っていた。
演劇に夢中になったハドリーは、大学を辞めて本格的に学ぼうとアカデミーへの入学を検討し始めた。その時、ハドリーは二十一歳になっていた。
どうせあいつらは反対するだろうと苦々しく思っていたハドリーだったが、祖父リチャードから意外な書簡が送られてきた。
要約すると、『もうモース家とお前は一切関わりがない。こちらを頼るな』という事だった。エイブラハムに嫡男となる男子が誕生したのだ。
ハドリーは長い間自分を縛り付けてきた呪縛から解放された事を知ったが、何の感慨も無かった。
そのために失ってきた長い時間をもう取り戻す事は出来ないのだ、だからどうしろって言うんだ、とハドリーはやはりその書簡を破り捨てた。
その夜、ハドリーの元に意外な人物から電話があった。父エドワードだった。エドワードは、今は中南米の国で領事として赴任しており、其処には母ローズマリーも一緒に居る筈だった。
「……ハドリー、久しぶりだな。大きくなっただろうな」
「此処の連絡先は教えてない筈だが?」
「モース家から教えて貰った。今までは何度懇願しても散々断られていたが、ようやくお前の事を諦めた、いや、お前をモースに縛り付ける必要が無くなったようだな」
エドワードは苦笑したが、そんな父にもハドリーは動じず冷たい声で言った。
「……何の用だ」
「ハドリー、お前に話したい事が沢山あるんだ。今度、内地勤務の辞令が出た。来月俺達は本国へ戻る。どうか、どうか俺達と一度でいいから会ってくれないか。俺達はお前に詫びなきゃならないんだ」
静かにエドワードは話したが、ハドリーは怒りに顔を歪めて声を震わせながら、それでも冷静さを保とうと必死だった。
「今更、何を? 何を詫びるって言うんだ? お前らの不貞の言い訳でもするのか? それで俺が失った時間を返してくれるのか? お断りだ。俺にはもう何も関係ない。俺に構うな。お前らで勝手に生きろ。俺は関係ない!」
肩で大きく息をしながら、ハドリーは受話器を乱暴に叩き付けた。怒りで紅潮した頬を歪めて、ハドリーはその場にしゃがみ込むと、またちらつき始めた雪から逃れようと頭を抱えて、こみ上げてきた涙を堪えられず肩を震わせて泣き続けた。
それから一ヶ月も経たない、噎せ返るように暑い日の事だった。
束縛も無くなったハドリーは、自由気ままに生きようと、大学を辞める準備を始めていたが、そんなハドリーの元に、突然外務省の職員から狼狽した雰囲気で電話が掛かってきて、訝しげなハドリーの耳に沈痛な声で告げた。
「ハドリー、落ち着いて聞いてくれ。エドワードとローズマリーが飛行機事故に遭った。乗っていた飛行機が着陸に失敗して……」
遠くに職員の声を聞きながら、ハドリーはゆっくりとその事故の第一報を告げているTVのニュース番組を振り返った。
赤黒い炎を上げて燃える飛行機が映し出され、キャスターが眉を顰め『――乗っていた五十三名の乗員と乗客は絶望視されています。尚、この飛行機には英国外務省から赴任していた領事夫妻も乗っており――』と淡々と告げているのを、ハドリーは呆然と見つめていた。
赴任先から棺に入って帰ってきた両親を、ハドリーは飛行場で出迎えた。何の感情も篭らない乾いた顔で、ハドリーは旗の掛けられた黒い棺を見つめていた。一緒に送られてきた遺品もロンドンの家の納戸に押し込めると、中を確かめる事もせず鍵を掛けて封印した。
葬儀でも淡々としているハドリーを、周りの人は「健気に気丈に振舞っている」と誤解して涙を流したが、ハドリーには、流す涙が無かっただけであった。ただ粛々と儀式に従って、早くこの時間が過ぎてくれればいいと思っていた。
リチャードとエノーラも表面上は悲しんでいるように見えたが、チラチラとハドリーの傍に座る父方の祖母と伯母の方に、憎しみの篭った視線を投げかけていた。
エドワードの母ジェニファーは、ハドリーが生まれる直前に夫が死亡すると、さっさと実家である伯爵家に戻っていた。
娘を自分の親戚筋の子爵家に嫁がせて優雅に暮らし、今は全く、フェアフィールド家とは一切関わりが無いというように、ハドリーが生まれても顔を見に来る事も無かった。
しかし、流石に息子の葬式には出ない訳には行かなかったらしく、空々しく悲しげな顔で参列していたが、格下の男爵であるモース家に足元を見られまいと、常に待遇をモースより上にするよう、それだけに注心しているようであった。
一方のリチャードとエノーラも、格下である事を見せ付けられ、腸が煮えくり返っているようだったが、その醜い争いもハドリーにはもうどうでもいい事だった。
火花を散らす二組の家の争いを目の前にして、ハドリー一人だけが取り残されたかのように平然としていた。
「……これで満足か? こんな、最後に誰も本気で泣いてくれないような、そんな一生で満足だったか?」
ハドリーは、真新しい二つ並んだ墓の前で独り呟いた。
手向けたばかりの花が静かに揺れていたが、ハドリーの胸の中には父からの答えが返ってくることは無かった。
そのままハドリーは踵を返すと、振り返らずに歩き始めた。もう此処へ来るつもりは無かった。