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第四話 青い家

 『ハウスF.A』の寮長室で、ハドリーを睨んでトントンと指で机を叩いている寮長のフレデリック・アダムスを前に、ハドリーはそっぽを向いて立っていた。


 ボサボサに乱れた髪で僅かに左頬が赤くなっていたが、シャツの一番上のボタンを留めずに外しているのは、何時もの事だったし、ズボンのポケットに手を入れて、面倒臭そうにしているのも何時もの事だった。

 片や、ハドリーの左隣に立っている喧嘩相手のゲオルグは、左瞼が腫れて完全に左目を覆ってしまっているし、その左目の周りには黒々とした痣が浮いていた。

 頬は、左も右も両方とも真っ赤に腫れ上がり、口元には拭った血がこびり付いたままで、さっきようやく止まった鼻血を止めるために突っ込んだティッシュが、赤く染まって顔からぶら下がっていた。シャツもベストも、ボタンが全て弾け飛んで、ヨレヨレのシャツの裾がズボンからはみ出しており、この喧嘩の勝者がどちらなのか、誰が見てもその差は歴然としていた。


「それで、どうして廊下で派手な乱闘をしていたのか、その理由を話したまえ」

 フレデリックは机を叩いていた指を止め、両手を組むと、二人をじっと見据えた。

「知りません。こいつ……いえ、Mr.フェアフィールドが、突然殴りかかってきたんです。誰にでも、平気で八つ当たりするのは、彼の何時もの事ですから」

 ゲオルグが、横目で悔しそうにハドリーを見て、腫れた頬で話し難そうに口元を歪めながら、先に口を開いた。

「それは事実か? Mr.ハドリー・フェアフィールド」

 ハドリーを見透かそうと青の瞳で覗き込むフレデリックだったが、ハドリーはそっぽを向いたまま何も言わず、暫く黙ってハドリーを見ていたフレデリックは小さくため息をつくと、

「これから三十分後に懲罰委員会が開かれる。其処で決定した処分に二人とも従うように。それまで自室から出るのを禁じる。ああ、Mr.ゲオルグ・バーナード、君は医務室で手当てを受けるように。それでは、部屋へ戻りたまえ」

 そう言って立ち上がった。



 寮長室を出ると、ハドリーはもうゲオルグに見向きもせずに歩き始めたが、ゲオルグは嘲笑うように「ふん」と呟いて、

「これでお終いだな、ハドリー。お前は退校処分だ。ざまあみろ」

 と捨て台詞を吐いて、腫れた頬を痛そうに撫でて去っていった。

 その後ろ姿を睨み付けていたハドリーだったが、やがて白けた顔で振り返り、ゲオルグと反対方向に歩きだした。





 ハドリーは十八歳になっていた。

 母が入院したあの十四歳の冬が終わり、祖父母は変わらず勉学に励むようにハドリーに命令して、またこの名門校へハドリーを戻したが、傷ついた心で学校に戻ったハドリーは最早誰も信じられず、何もする気が起きず、全てが投げやりだった。

 成績は見る間に急降下し、次の学年では特待生『カレッジャー』の地位を追われて、一般生徒『オビダンズ』として、カレッジからハウスに移る事になった。


 そんなハドリーを迎え入れた『ハウスF.A』の寮長で物理学教授のフレデリック・アダムスは、不機嫌そうに横を向いて黙り込んでいるハドリーを前にして、小さく息をつくと徐に言った。

「それで……君は満足してるのか?」

 その言葉に顔を向け、少し怪訝そうに眉を動かしたハドリーに、更にフレデリックは続けた。

「何もかも投げ捨てて、逃げて、一人閉じこもって、それで満足しているのか、と聞いている」

 フレデリックはハドリーに残酷な言葉を投げ掛けながらも、顔色を変えなかった。ヘの字に結んでいた口元を、悔しそうにギリッと噛み締めたハドリーが何か言い掛けようとした時、

「それで、君は何か力を得られたか?」

 更にフレデリックはハドリーを見据えた。


「これからの君には、君一人で立ち向かい戦わなければならない事があるだろう。それに対抗するだけの力を君は持っているのか? そんな非力な自分で、立ち向かえるのか? 此処から逃げ出して、両親や祖父母から逃げ出して、何も考えず何も生み出さずに、ただ『可哀相な自分』に酔って人生を捨てて生きていければ、そりゃあ楽だよな? ハドリー。そんな生き方がしたいのか、お前は」

 冷たく聞こえるフレデリックの言葉だったが、ハドリーをじっと見ているその青の瞳は澄んだ光を湛えていた。

 唇を切れそうな程噛み締めて、顔を震わせながらフレデリックを睨み返していたハドリーだったが、喉元までこみ上げていた台詞を飲み込んで、フレデリックから目を逸らさなかった。

「次の試験で及第ラインに届かなかったら、君の望み通り放校だ。好きにしたまえ」

 フレデリックは青い瞳を輝かせて、口元に薄っすらと笑みを浮かべた。


 勿論、この降格に祖父リチャードは激怒して、ハドリーに戒めの書簡を送りつけてきたが、ハドリーはこれを無視した。


 もう母は居ない。ハドリーが何かする度に叱られていた母はもう居ない。母を庇う必要の無くなったハドリーは、祖父母の戯言には耳を貸さなくなった。

 だが、その次の試験では、ハドリーは学年でトップの成績に返り咲き、カレッジャーから降格してきたハドリーを嘲笑っていた同級生達も、口を噤むしかなかった。


 しかしハドリーは、そんな周りの反応を一切気にする事も無く、変わりなくいつも不機嫌で、しょっちゅうハドリーにちょっかいを出す子爵家の嫡男ゲオルグらのグループと小競り合いを繰り返し、懲罰の常連だった。

 その為、成績優秀でありながらカレッジャーに返り咲く事も無く、監督生にもなれなかったが、皆が憧れる色付きベストなどには何の興味も無い様で、誰とも交わらず、一人淡々と学生生活を過ごしていた。


 それでも時折、フレデリックが与える懲罰の中に『下級生の宿題の指導をする』というのがあって、相変らず何時も不機嫌そうな顔でぶっきら棒にだが、下級生達に的確な指導をしているハドリーは、意外と下級生からは人気があった。

 皆怖そうに何時も遠巻きにしていたが、それでもハドリーに教えを乞いに来ては丁寧に頭を下げて走り去っていく下級生の中には、フンと息をついて素っ気無く背を向けるハドリーを嫌っている生徒は少なかった。




 長期の休暇では、モース家に帰されていたハドリーであったが、部屋に篭ったまま誰とも話そうとしなかった。


 父エドワードが、モース家を訪ねてきているのは知っていたが、何時も玄関先で、リチャードやエノーラに冷たく追い返されている父の姿を、ハドリーは二階の窓辺のカーテンからそっと覗き見ていた。悲しそうに上を見上げて、ハドリーを探すように目を泳がせていた父と目が合った瞬間、ハドリーは窓辺から離れ、ベッドの布団に潜り込んで耳を塞いで蹲った。


「ハドリーー!!」


 父の悲痛な叫び声が聞こえてきたが、固く目を閉じ心をも塞いで、何も聞こえないと言い聞かせて、ハドリーは蹲り続けていた。



 その後は、長期の休暇でもモース家に戻るのを嫌ったハドリーは学内に残る事が多かった。どうしても帰らねばならない夏の休暇では、一旦モースの家の玄関前まで行くと、そこでくるりと方向転換して、ロンドンの元の家でひっそりと過ごしていた。


 ロンドンの家は、もう何年も誰も暮らしておらず、いつも寒々としていた。父も此処に戻って来ていない証拠だった。きっと赴任先で遊んでいるのか、それとももう、何処かで別の女性と家族として暮らしているのかもしれないとも思ったが、それももう、ハドリーにはどうでもいい事だった。

 乱雑だった居間もキッチンも綺麗に片付けられ、居間の家具類には白いカバーが掛けられ、ハドリーは自室とキッチンとバスルームだけを往復する日々だった。両親の寝室の扉の前で、じっと佇んで見つめていた事もあったが、その扉を開ける事は無かった。

 黒々とした扉を見ているだけで、ハドリーの目の前にはまた雪が降り始めたからだ。その幻想を払うように首を振って、ハドリーは自室に引き篭もった。


 その頃のハドリーは、父の書斎で見つけたベースを夢中になって弾いていた。部屋中に散らばった五線紙には、書き散らされた曲が並び、ハドリーは休みの間中、音楽に没頭していた。

 これが自分の将来になるのか分からなかった。だが、何一つ持ち合わせていない自分の、唯一の拠り所だった。まだ先は見えない。見えてはいないが、ハドリーは自分の中に、着々と力を溜め込んでいた。そう、『彼ら』に対抗するための力を。

 





 自室でベッドに寝転んで、天井を見上げていたハドリーの元に、寮長室への呼び出しが来た。再度寮長の前に、ハドリーと、手当てを受けてきたらしい湿布や絆創膏だらけの顔のゲオルグが立つと、フレデリックは静かに目を上げた。


「Mr.ハドリー・フェアフィールド、Mr.ゲオルグ・バーナード。両名共に明日から一週間、ハウス内の清掃を命じる。ハドリー、君は談話室、ゲオルグ、君はレストルームだ。手を抜かないように」


「ちょっと! 寮長、何故なんです? どうして被害者の僕まで」

 気色ばんだゲオルグをフレデリックは冷たい青の瞳で睨んだ。

「懲罰委員会の決定に従うように、Mr.ゲオルグ・バーナード。君は紳士として恥ずべき行為を行った事が報告されている。自分の行いを恥じたまえ」

 ゲオルグは戸惑ったように目を逸らして唇を噛んだが、それでも悔しそうに顔を上げて訴えた。

「でも、こいつ……Mr.フェアフィルードの行為はもっと校則に違反しているんじゃないですか? 無抵抗の相手を殴る蹴るなんて、清掃程度で済む事ではないでしょう。こんな決定では、僕は納得がいきません」

 ゲオルグの抗議を聞いていたフレデリックは、口元を少し歪めて笑った。

「ああ、ただの喧嘩ならね。けれど、Mr.フェアフィールドは、ちゃんと君に手袋を投げたそうじゃないか。正式な決闘ならば喧嘩ではない。しかも君は無抵抗では無かった筈だ。但し、廊下で決闘を行う事は禁じられているから、Mr.フェアフィールドはその点に違反した。だからこの処分だ。適正だと思うが」


 ゲオルグは悔しそうに俯いたが、その間ハドリーは顔色も変える事無く、眉を寄せた不機嫌そうな顔で黙って立っているだけだった。

「それでは、両名自室へ帰りたまえ。本日はそのまま自室で謹慎だ。外出を禁じる」

 フレデリックは、椅子をクルリと後ろに向けると、もう二人には見向きもしなかった。



 喧嘩の原因はいつものようにゲオルグがハドリーにちょっかいを出した事からだった。

 ここ最近はゲオルグを無視する事の多いハドリーが目も暮れずに通り過ぎようとした時に、意地の悪い笑みを浮かべたゲオルグが、「お前の母親は、男に捨てられてそれで狂ったそうだな。男爵令嬢じゃなくて、娼婦だったとはな」と、取り巻きと共に、ゲラゲラと大声で笑ったからだ。


 同級生のクラウスが必死で自分を止めに入ってくれなかったら、ゲオルグを死ぬまで殴り続けたかもしれないと、ハドリーは漠然と思っていたが、自室の机の前で、憮然として座っていたハドリーの部屋に、そのクラウスがノックをして入ってきた。

「……俺は、謹慎中だ。俺に構うな」

 蒼灰の瞳を向けてジロリと睨んだハドリーにクラウスは苦笑した。

「でも、君の部屋を訪ねてはいけないという処分は出てない筈だ」

 このクラウスはドイツ系英国人で、父親はビジネスマンだった。成績優秀でハウスの監督生も任されているが、優しく穏やかな性格で、何時も物静かにハドリーを見守っていた。

「ハドリー、もうすぐ卒業じゃないか。もう進学も決まっている。余り無茶するな。……君の気持ちは分かるが」

 クラウスは心配そうに眉を寄せた。


 誰も怖がってハドリーに近づこうとしない中で、この友人だけは時折優しさを見せてくれた。だが、そんなクラウスにもハドリーは素っ気無い態度を取るだけだった。

「君が心配なんだよ、ハドリー」

「大きなお世話だ。ほっといてくれ」

 ハドリーは寂しさの浮かんだクラウスの黒い瞳から目を逸らして、それ以上何も言わず、悲しげにため息をついたクラウスは、静かに部屋を出ていった。


 彼の気持ちにハドリーは気付いていた。だが、その気持ちに自分は応えられない事を知っていたハドリーには、自分はクラウスに、優しくしてはいけない事も分かっていた。

 静かに閉じた扉の向こうで、クラウスがどんな思いで佇んでいるのか、それを分かっていたハドリーであったが、ブスッとした顔で扉とは反対の窓の外に目をやって、暗い闇をただ黙って見つめているだけだった。


 やがて卒業が近づいたハドリーは、相変らずブスッとした顔で、自室の荷物を黙々と片付けていた。

 そこへノックの音がして「ハドリー、手紙だ」と、ハウスの今週の当番生が、ハドリーに幾通かの手紙を手渡したが、無愛想な顔で黙ったまま受け取ったハドリーは、その手紙を見ようともせず破り捨てようとした。


 あの冬の日以来、ハドリーは此処に届く手紙を読む事は無かった。来るのは祖父リチャードからの小言の手紙か、祖母エノーラからの愚痴の手紙か、父エドワードからの手紙しかなかったからだ。どの手紙も目を通す事も無く、その場で破り捨ててきた。

 ところがその日の手紙の束には、見慣れない薄い蒼の綺麗な封筒が混じっていた。それに気付いて手を止めたハドリーは、その封筒の表書きに目を止めて、そのままその場に立ち竦んだ。

 それは、母ローズマリーからの手紙だった。


 几帳面な父の文字とはまた違う、流麗で繊細な母の懐かしい文字だった。手紙を書けるまでに回復したのか、という思いでハドリーの心は動揺した。

 ハドリーには、母が何処に入院しているのかさえ、知らされてはいなかった。例え知っていたとしても、見舞いにいく事は無かっただろうと思ったが、生きているのかさえ分からない母の事は出来るだけ考えないようにしていた。


 『Hadley』と書かれた文字をそっとなぞったハドリーに、懐かしい母の顔が浮かんだ。絹糸のような美しい栗色の髪を輝かせ、穏やかに微笑んだ蒼の瞳で、綺麗なローズ色に彩られた口元は優しく「ハドリー」と呼んでいたが、その母の顔が急激に荒れ果てていくと、あの日見た狂った母の姿に変わった。

 眉を寄せて濁った蒼の瞳に狂気の光を浮かべて、血の滴るような赤い口を開ききって叫び声を上げている母の姿に怯えて、ハドリーは絶叫しながらその手紙を破り続けた。

 細かく千切れて部屋を飛び交う紙片が、またハドリーを雪景色へと誘って、目を閉じても消える事のない降り続ける雪に心を潰され、頭を抱えたままハドリーは叫び続けた。

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