第三話 白の悪夢
ハドリーは十三歳になると、ロンドン市内の名門のパブリックスクールへ進学した。其処でも、特待生になることを強要され、常に学年トップであるように祖父母にきつく言い含められたハドリーであったが、『カレッジャー』と呼ばれる特待生であっても、偉ぶる事も無く何時も淡々としているハドリーは、学内では異色の存在であった。
学内のカレッジと呼ばれる寄宿舎で生活し、長期の休みになると家へ帰るのがハドリーの習慣になった。
毎日の中で、沈んだ母の顔を見なくて済むのはハドリーにとって安寧でもあったし、逆に不安の種でもあった。胸に消えない不安の種を抱えたままのハドリーは小学校時代とは違って、段々と無口でいつも不機嫌そうにしている事が増えていった。
休みの度に家へ戻っても、もうローズマリーは笑う事が無かった。何時もどこか遠くを見ているような虚ろな目をしていて、ハドリーが心配そうに、
「何処か悪いのかもしれないから、一度病院に行ってみたら?」
と、声を掛けても、黙ったままローズマリーは首を振った。
父も長期休暇になっても英国に戻らない事が増えた。
「忙しいんだ。済まんな、ハドリー」
寂しそうな父の声に、電話口のハドリーも何も言えず黙ったままで、そんなローズマリーやエドワードの様子に、家に居る筈なのに居心地の悪い感触に、早く学校に戻りたいと、ハドリーはため息をつくのだった。
そして、ハドリーが名門校へ入って二年目の冬で、十四歳の時、クリスマス休暇で自宅に戻った時の事だった。
小雪がちらつく中、アパートメントの玄関で、呼び鈴を鳴らしたハドリーだったが、部屋の中から返事は無かった。
だが、ここ最近はいつも帰宅する度にそうなので、余り疑問にも思わず小さくため息をつくと、鍵を取り出して自分で玄関を開けたが、途端に、家の中からの異臭がハドリーを包み込んだ。
「……う、なんだ、これ」
物が腐ったような悪臭が家中に広がっていて、ハドリーは思わず顔を押えて咽込んだ。
「マム?」
荷物を玄関先に残したまま、口を押えたまま居間の扉を開けると、其処には、まるで泥棒に荒らされたかのように、乱雑に散らかった部屋の光景があった。
投げ出された新聞や雑誌、脱ぎ捨てられた衣類などが、部屋中に散らばって埃が舞って、キッチンには、食べ掛けの皿やコップが、そのまま放置され、残り物が腐敗して悪臭を放っていた。
ここ二~三日どころではない、何日も何週間も経っているような生ゴミが放つ悪臭に、ハドリーは我慢出来ずに其処で吐き戻した。苦しい息で口元を拭うと、ハッと気付いてハドリーは両親の寝室へ駆け出した。
「マム! マム?」
両親の寝室の扉をドンドンと叩いたが返事は無く、怪訝げに扉のノブを回すと扉は呆気無く開き、全開にした扉の前で、ハドリーは目の前の光景に立ち竦んだ。
家の中に雪が降っていた。
白い雪がヒラヒラと部屋全体を舞っているのを、呆然と見ていたハドリーであったが、やがてそれは雪では無い事に気付いた。
――……これは、羽毛?
手の平に受けたそれが、小さな羽毛の欠片であることに気付いたハドリーは振り返り、ベッドの上に黙って座っているローズマリーを見開いた瞳で見た。
何時も綺麗な輝きを見せていた栗色の髪は、ボサボサのまま振り乱され、広がって脂の浮いた髪の一部が、額に張り付いていた。
明るい蒼の瞳には光が無く、前を見ているようで、もう彼女には何も見えていないようだった。何日もずっと、着替えていないのであろう悪臭を放つドレスも、白かった筈なのに、薄汚れてくすんだ茶色に見えた。
そして何事か小さく呟きながら、ローズマリーは何度も何度も、手にした小さなナイフを羽毛の枕に突き立てていた。
その度に羽毛の欠片が舞い上がり、彼女の周囲に漂っていたが、口元に張り付く羽毛にも何も気付いていないように、ただ繰り返し枕にナイフを突き立て続けていた。
「マム!」
ハドリーが絶叫したが、その声も、もうローズマリーには届いていなかった。頭を抱えたハドリーが、その場にしゃがみ込んで絶叫し続けていても、ローズマリーの心にはもう何も届かなかった。
舞い上がる羽毛の吹雪の中、その雪景色の向こう側で、目の前に居る筈なのに、何処か遠くに行ってしまった母の姿を、ハドリーはただ目を見開いて見つめながら、声を枯らして絶叫し続けていた。
その後ハドリーは、モース家の客間のベッドで呆然と座り込んでいた。
結局、頼る場所はこの家しかなく、ハドリーの連絡に駆けつけた祖父母は、狂った娘の姿に愕然としたが、何処からか手配した車にローズマリーを乗せて秘密裏に何処かへ運び去り、そしてハドリーを此処へ連れてきたのだった。
何が起こったのか分からず、受け止め兼ねていたハドリーの元に、祖父母が憮然とした表情でやって来て、ハドリーを労るでも無く、憤懣やるかたない表情で侮蔑の言葉を並べ始めた。
「あの男の所為だ! アイツがロージィを狂わせた!」
「だから私は反対したのに! いくらウチの家柄が欲しいんだって言われても、あの子には、あの子には許婚が居たのに」
リチャードが口汚くエドワードを罵り、エノーラは涙を浮かべた瞳にハンカチを押し当てて号泣した。
まだ呆然としているハドリーに向って、祖父母はこうなった経緯を説明し始めた。
「エドワードが『名門の家柄が欲しい』と我々を脅して、無理矢理ロージィに結婚を申し込んだんだ。あの子には、モースに相応しいフィリップス伯爵家の跡取りのオーガストという許婚が居たんだ。それなのにアイツは、財力に物を言わせて、ロージィと結婚した。ところが、ロージィがロンドンに戻ったら、赴任先で浮気三昧だ。毎日ロージィは泣いていた。しかし、アイツは離婚には応じない。家柄が大事だからだ。あの子がどんなに傷ついた事か……」
リチャードは眉を顰め、ハドリーがまるでエドワードであるかのように、汚い物を見るような目で睨んだ。
「そうよ、だから、あの子には、オーガストの愛だけが支えだったのよ!」
祖父の言葉を、信じられない思いで呆然と聞いていたハドリーに、エノーラが声を上げて泣きながら叫んだ。
「自分は浮気をしているのに、ロージィがオーガストと逢うのには目くじらを立てるなんて、なんて事なの! あの子にはオーガストが必要だったのに」
ハドリーが意味を諮りかねて首を振っていると、エノーラは涙目でハドリーを覗き込んだ。
「あの子がオーガストと逢った日にはどれだけ楽しそうだったか、ハドリー、覚えているでしょう? 名門同士の強い結びつきだけが、ロージィの心の支えだったのよ」
あれは、あの上気した頬で、嬉しそうな顔をしていた母は、男と逢った後の事だったのか、と知らされたハドリーは、愕然として、口を開けて祖母を見つめていた。
優しかった母も、あの楽しかった親子三人の日々も、全て贋物だったのだと、ハドリーの脳裏には『嘘』という言葉だけがグルグルと廻っていた。
「一応エドワードにも連絡したが『病院に隔離しておけ。何処にも内密に』だと。離婚する気はないらしい。このモースの名前だけが必要なんだ。クソッ」
悔しそうにリチャードがブツブツと呟いても、ハドリーは目を見開いたまま黙っていたが、やがて怒りで真っ赤になった顔を上げて、震える唇から呪詛のように言葉が漏れ出した。
「……出て行け」
「え?」
「出て行け! 出て行け! お前ら、みんな出て行け!」
ハドリーは絶叫して、祖父母にベッドの枕を投げ付けて暴れた。
狼狽した祖父母が、「やっぱり、あの男の血筋ね」とハドリーを睨みつけて部屋を出ていくと、ハドリーは大きく肩で息をしながら閉まったドアを睨んでいたが、やがて嗚咽を漏らし、その場に座り込んで泣き崩れた。
誰も信じられなかった。誰も信じたく無かった、父も母も祖父母も、みんな消えて無くなってしまえばいいと思った。
いや、寧ろ、自分が此処から消え去ってしまいたい、そう願ったハドリーは、いつまでも膝を抱えて泣き続けていた。
頭の中では、ヒラヒラと粉雪が舞う光景が焼き付いて、ハドリーの脳裏から離れようとはしなかった。