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第九話 蒼色の記憶-ローズマリーの日記-

【一九九〇年八月十二日】

 ロンドンに帰ってきてしまいました。エディを置いて帰ってきてしまいました。

 何故あの時、「此処で三人で一緒に暮らします」と言えなかったのでしょう。自分が情けなくて涙が零れます。

 お父様とお母様を前にすると、何も考えられなくなってしまうのです。お二人に逆らう事を考えただけでも、頭の中が割れたように痛んで何も言えなくなってしまう自分の弱さに、エディに申し訳ない気持ちで一杯になってしまいます。

 神様、どうかエディを本国へお戻し下さい。あの人と、あの人と一緒に暮らしたいのです。


【一九九〇年十月十日】

 今日は忙しいエディから久しぶりに電話がありました。エディの優しい声を聞いていると、心が安らぐのを感じます。

 お父様とお母様の事は考えないように、ひたすらエディの事だけを想って、その声を忘れないように、受話器を強く耳に当て、(わたくし)の想いがエディに届きますようにと祈りながら、エディの声を聞いていました。


【一九九〇年十二月二十三日】

 久しぶりに親子三人で過ごした時間は、なんて過ぎ去るのが早いのでしょう。

 エディの傍を離れようとしないハドリーを見ていると、あの子にも悲しみを強いているのだと思い知らされ、胸の張り裂けるような痛みを感じましたが、それすらもエディは優しく受け止めて下さいました。

 全ては、私の弱さからきた事とエディに謝りましたが、エディは首を振り、「気にしてはいけないロージィ。私が必ず君を守るから、暫くの間我慢してくれ」と私に優しくキスをして下さいました。

 お父様から「オーガストと別れてフェアフィールド家に嫁ぐように」と言われた日には、こんな幸せが訪れるとは思っていませんでした。エディは私が誰であろうと、深く愛してくれています。

 私もエディを愛しています。この方に廻り合せて下さった神に、深い感謝を。


【一九九五年十月十三日】

 今日エディから、まだ本国には戻れないと、電話がありました。早く逢いたい気持ちだけが募ります。

 最近、オーガストからしばしば連絡があって、お断りしているのに何度も連絡が来て、不安で溜まりません。でも、それをエディに告げる事は出来ませんでした。エディに心配を掛けたくないのです。私が強く心を保って、ハドリーを守っていれば済む事と、心を固く決めました。


【一九九五年十二月十日】

 今日、お母様がお見えになって、私を酷く叱り付けました。何故オーガストと逢おうとしないのだと。

 お母様のおっしゃる意味が分かりませんでした。私にはもう夫も子供も居るのです。他の男の方と逢わないのは、当然なのではないでしょうかと申し上げたところ、お母様は厳しく私を戒めました。

 貴族でもないフェアフィールド家に私を嫁がせたのは、この家の財力があってこその事、貴族は貴族同士、もっと絆を深めるべきだとおっしゃいました。オーガストも別の方を娶りましたがまだ私を欲していると、お母様はおっしゃいました。「第二夫人でも構わないのです。ロージィ、オーガストと逢いなさい」と私を叱りました。


 ああ、何故私は、其処で「嫌です」と言えなかったのでしょう。私はエディを愛しています。ハドリーを愛しています。ですので、どうぞそっとして置いてと、どうして言えなかったのでしょう。

 また頭が割れるように痛みます。明日は、オーガストに逢わねばなりません。どうか私の望みがオーガストの心に届きますように。このままエディとハドリーと静かに暮らしていきたいという、私の願いが届きますように。


【一九九六年六月四日】

 今日、エディから今度はカナダへ赴任すると連絡がありました。お願い、帰ってきて、と縋りつきたかったのに、私は何も言えませんでした。

 私はエディを裏切っているのです。オーガストは何度も私を呼び出して、その度に私を求めます。その私が、エディに何を申し上げられるのでしょう。

 何度懇願してもオーガストは私を諦めようとしてはくれません。私がオーガストに懇願する度に、お母様からお怒りの連絡が来るのです。厳しいお母様の声を聞くと頭の中が真っ白になり、もう何も考えられなくなります。

 オーガストに逢った日に、呆然としている様子の私をハドリーも訝しんでおります。何時かはハドリーにも悟られてしまうのではと思うと恐ろしくてたまりません。

 神様、どうか、どうか私をお助け下さいませ。


【一九九六年八月十一日】

 エディの顔を見られませんでした。私の様子に、強く私に真実を話すように迫ったエディに、終に本当の事を話してしまいました。

 到底許して貰えるとは思いませんでした。このまま死んでお詫びをするしかないと覚悟を決めていました。けれどエディは何も言いませんでした。

 エディの静かな怒りと悲しみが私を覆い尽くして、私はただ泣き続けるしか出来ませんでした。

 エディは最後に一言だけ「出来るだけ、オーガストを近づけないようにしてくれ。出来るだけでいい。無理はするな」とだけ、私に言いました。

「どうか、赴任先に私を連れ帰って欲しい」とエディに願いましたが、「モースの家がきっと承諾しないだろう。君がそれでもと言うなら……」とエディは悲しそうな顔をしておりました。

 私にはそんな事は出来ない事は、自分でも分かっておりました。全ては私の弱さからくる事、エディに詫びても詫び足りません。

 神様、私はどうすればよいのでしょうか。どうか、どうかお助け下さいませ。


【一九九八年十月六日】

 この夏もエディは戻ってきませんでした。ハドリーがE校に進み普段は家に居なくなると、オーガストは遠慮なくこの家にもやってきて私を求めていきます。

 エディとだけ過ごしたい寝室でオーガストに抱かれている私は、もう人ではないのだと諦めています。私はお父様とお母様の道具でしかないのだと、抱かれている間は何も考えないようにしています。

 エディも神様も、もうきっと私をお許しにはならないでしょう。ハドリーにも逢わせる顔がありません。もう、何かを考える事にも疲れました。


【日付不詳】

 エディ、逢いたい。逢いたい。逢いたい。エディ、助けて助けて助けて助けて助けて。




【二〇〇三年八月一日】

 毎日、エディの顔を見ているとホッとします。優しいエディは、私の全てを受け止めてくれています。此処にハドリーが一緒に居ればと願わずにいられません。

 ハドリーはこの秋にケンブリッジに進む事になったと聞きました。知らぬ間に大きくなっていたハドリーに、自分が犯した罪の大きさを感じずにはいられません。そんなに長い間ハドリーを独りぼっちにしていたのかと思うと、涙が止まりません。

 それでもエディは私を許して下さり、何時かは親子三人で暮らそうと励ましてくださいました。何時かまたハドリーを抱き締めたい、そのためには、私はもっと強くあらねばならないのだと、心に決めました。もうお父様やお母様には従わないと。

 私が信じて、私が守らねばならないのは、エディとハドリーだけなのだと、心に決めました。


【二〇〇六年七月十日】

 弟のエイブが、男の赤ちゃんを授かったと連絡が来ました。

 モースの父からハドリーの連絡先を聞いたエディが、ハドリーに連絡をしましたが、ハドリーは、私達を許しませんでした。当然だと思いました。何年もハドリーを独りぼっちにして、簡単に許して貰える筈がありません。

 泣き崩れる私を、きっと分かり合える日が来ると、エディは慰めて下さいました。

 何時かは、何時かはまたハドリーを抱き締めたい。この手で抱き締めたい。その日が来るのを信じています。

 神様、どうか私の願いを聞き届け下さいませ。愛するハドリーに、もう一度逢わせて、抱き締めさせて、キスをさせて下さいませ。 

 ハドリー愛しています。愛しているわ、ハドリー、私のハドリー。


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