霧雨を待つ
右手に人間を左手に宇宙人を。ありとあらゆる生命体の、ごくわずかな環境下でしか生きられない脆弱な人間の、全ての愛しさと美しさとを発見した偉大なる人間の、その存在に、敬愛を。
「だからさあ、俺はやっぱりさ、屑じゃなければ見えないこと、あると思うんさ」
語尾を下げた調子で言うその男の物言いは、おおよその人を不快にさせるであろうものだった。けれど私に限ってはそうではない。その、壮年若しくは中年期のオッサン方にすこぶる悪評判であろう話し方は、けれど確かな親しみを私に持ってくれている証拠でもある。もしも私がもう少しだけとっつきにくく、かつ顔の偏差値が低い人間であったならば、彼のそのふざけた愛しい抑揚は聞けなかっただろう。
「屑じゃなければ見えないことってなんですか。私は馬鹿だからわかんねえっす」
手元の台拭きでカウンターを磨く私がそう言葉を弄すると、卑屈さにあきれて先輩は笑った。三白眼で短い髪の毛の、御世辞にも善人には見えない顔立ち。それが目を細め、頬を緩めるだけでこんなにも幼げで年相応な姿になる。先輩と私では明らかに私の方が年下なのだが、彼が笑うその瞬間だけ、私は彼にどうしようもない庇護欲や母性を感じてしまうのだ。
「屑じゃなければ、っていうよりは、屑だからこそ、ていうのかなあ。なんかない、そんなこと」
レジ閉めの作業の傍ら交わす会話の、閉店して暗い店内に反響して。外から聞こえる雨粒さえ、何処か密やかだ。
外が暗いせいか、窓から外の情景は窺えない。代わりに今私のいる狭いカフェが、曖昧な輪郭線を持って表現されている。複数ある窓の内の一つ、唇を自嘲気味にくねらせている私が映し出されていて、今度は不機嫌に唇を歪ませた。
「屑だからこそ見えないって、何にも考えないから屑なんじゃないんすか」
「確かにそういう屑もいるけれど、でも考える屑もいるだろ」
「考える屑かっこ笑いかっことじ」
ぼと、と不意に大きな雨粒が、窓にぶつかり鈍い音を立てた。表の桟に溜まったものが自身の重みに耐えきれなくなって落ちてきたのだろう、ざまあみろ、と思った。そういう風に何もかも全部自業自得で堕落していけばいい。
先輩ひいては人自体を馬鹿にした発言を吐き出した私を、先輩は苦笑で迎えた。まただ、と心の中で毒づく。胸の中立ち上る芳香を、土留め色をした沼地の液体で塗りつぶそうとして、やめた。というよりはやめざるを得なかった。
鼻先不意に。胸の中で立ち上っていたあの香りが、具象化して私の肺腑奥深くまで浸透してきたのだ。否応なしに連想される記憶、印象、感覚。あの、世界中どこを歩いてもその蘭麝がしっとりと佇んでいて、まるで白昼夢を魅せられているかのような。そんな、衝動が。
「なんだっけ、これ。この匂い」
レジ閉めを終えた先輩が、窓の前ぼうっとしていた。先輩の手によって開かれたであろう縦長な一枚の窓、が、半開きに開いていて。そこから室内入っていく花の味。橙色の、小さな、あの、
「金木犀、です」
「きんもくせい。うん、おれ、すきかも」
すう、と彼は香りを味わう。ああ好きだな、と思った。
店先の前にある金木犀の花は、ここ最近の寒さで一気に開花を迎えたようだった。並木道に並んで栽培されたそれは、きっと業者さんの手によって大事に手にされてきたのだろう。ひどく立派な、清楚として可憐な花を幾億も咲かせて、道行く人たちにあの独特な花の香りを届けてきたのだった。トイレの芳香剤と言われればそれまでだが、擬似的な匂いと本物ではまるで違う。もっとずっと、深くて軽くて、そして優しい。そんな匂いを、金木犀の花は届けているのだ。
「トイレの芳香剤と同じ匂いですよ」
「ああうん。俺あれは嫌い。なんでなんだろうな、同じ花の匂いなのに」
雨音は依然として止まない。きっと私達が一通りの閉店作業を終えて帰る時刻になっても、低気圧は変わらず汚れた水で涙するのだろう。弱い霧雨の中、安物の自転車を漕いで帰る様を想像してみる。歩いてれば気にならない筈のそれは、自転車に乗った途端きっとうざったいものになるだろう。服が濡れる不快感は少ないものの、顔に当たる水の線にどうしようもなく苛つくから、仕方なく傘を刺す。でも私は臆病で尊大でおまわりさんに怒られるのが怖いから、やっぱり途中で紺色の折り畳み傘をしまうのだ。そしてその時も変わらず、金木犀の香りが私の世界に満ちている。自転車に乗る時も、先輩にお疲れ様でしたという時も、家についてからも、ずっと。まるで白昼夢だ、と思う。肌を撫でる程緩やかな速度で降り注いでくる雨で白く煙った視界、世界。どこにいてもどこを通ってもひたり浸ってくる金木犀の味。どこか遠い世界の、綺麗な国にありそうな情景だと思う。そこにはなにも生活が介入しない。居酒屋の排気口から臭う油臭さも民家から漂ってくる夕飯の匂いも、全部雨と金木犀に掻き消されて、現実が夢想にすっぽりくるまれる。夢遊病患者が見ている夢のようなしあわせな景色。嗚呼早く帰りたい。早く私も夢を見たい。
「さあ。ていうか先輩、寒いんで。窓閉めてください」
「さっき清掃中暑いって文句言ってたじゃん」
「ごめんなさい。でも閉めてほしいんです」
そう言うと先輩は、笑いに少しの不服を混ぜた表情で大人しく窓を閉めた。私も先輩と同じ、その匂いは好きだけれど、ここはまだ現実であってほしい。先輩といる間は、夢をみる乙女になりたくなかった。
「さっきの話題。結局なんだったんすか」
「さっきの? 屑のはなし?」
「はい」
カウンターを拭き終わった後客席を拭き始めた私を、先輩はじいっと見つめてきた。なんすか、と聞くと、いや、と歯切れの悪い返事をされて、反射的にまた唇が歪む。気になると問い詰めれば「屑の話とは関係ないんだけどさ」と女々しい前置きをしてから先輩は話し始めた。
「今の『はい』が、可愛くて」
「マジすか。もっと言ってください」
「いや今のは可愛くない」
少し笑って、雨の音が消えて、黙って、雨の音が生まれた。そのまま数秒の沈黙に身を置いてからようやくあ、終わりかと思った。何だか拍子抜けした。その後急激に恥ずかしくなって、ずるずると椅子を枕に崩れ落ちた。先輩はよくわからないという顔をしていた。
「先輩」
「何」
「死ね」
「生きる」
「嘘。やっぱ死なないでください」
「うん」
言葉を吐く度混じる薄橙の、小さな花の感情。ああ早く帰りたい、と思った。早く帰って結んでいた髪をほどいて、そしてその髪の間閉じ込められていた金木犀の匂いを感じて、嬉しかったことを思い出して笑いたかった。こんな茶番、早く終わらせたかった。
ちらりと先輩を見る。レジ閉めは終わっているからもう先輩に残された仕事は無いのに、彼は一向に帰ろうとしない。恐らく私を待っているのだとは思うが、それを自覚した途端先輩が「じゃ」と言って帰ってしまいそうな気がしてひどく怖くて、慌てて思考からその期待を吹き飛ばす。頭の中、金木犀の感情が、ぞわぞわと満ちてきそうで嫌だった。
「あのさ。百点ずっと取ってる人が努力すれば何でもできるっていうのとさ、十点から九十点取った人が同じこと言うのってさ、どっちが説得力あるとおもう」
「そりゃ、一般的に十点の人の方があるんじゃないすか」
「松山からしたらどうなの」
「どっちもあります。百点をずっと取り続けている人も、九十点になった人も、両方私にとってはすごい人です」
だるい右手を動かして、客席を拭きあげる。丸い、背もたれの無い椅子。支柱は細く銀色で、私の顔を醜く映し出す。見る度に私はこんな顔の長い人間じゃないとは思うのだけれど、それでもやっぱりなんとなく傷つくのだ。
「先輩はどうなんすか」
「俺? 俺も松山と同じ」
同じ。おそろい。一緒。その一言に、嗚呼追いやった筈の金木犀が香る。私はそれを悟られたくないから、どこかも知れない土留め色をした沼地の水で、容赦なく良香を悪香に変えていくのだ。この、繰り返したくて堪らなくなるやり取りを、くだらない茶番だコメディだと言いくるめて、なんでもないことへと格下げする。純情も純愛も糞食らえと鼻で笑う。そうすることで、むやみに立ち込めてくる期待を無かった物へとする。それこそ茶番だ、だとも思う。「でもまあ一般的にいったら後者じゃん、だからさあ、何が言いたいかっていうとそう言う苦労を経験した人しか言えないものがあって、いやだからどうってわけじゃないんだけどさぁ」と、べらべら舌を回し続ける先輩さえも鼻で笑おうとしたら、喉が詰まってうまくできなくて、代わりにくすくすと変な笑いが漏れた。
「おそろいって、変なの」
歪む、目尻が。崩れる、頬が。何度口元を真っ直ぐに矯正しても、すぐに支えを失って湾曲する。眉毛は切なく皺を寄せるのに、どうしようもない愛しさが瞳に頬に唇にこみ上げてきてしまう。次いで喉にもその愛しさが迫ってきて、またくすくすと笑って、嗚呼、もう、駄目だ。
「松山」
窓の前立ちっぱだった先輩が、ひどく慌てた様子で私の方に来る。そのまましゃがみこまれて目線を同じにされたかと思えば、物珍しそうな表情で歪んだ顔を覗き込んできた。
「なんすか」
問う。次にくる言葉も、それによって立ち上る香りも、密かにわかっているのに、あえて問う。右手。握っていた布巾から手をはなして、空っぽにする。
「いや、なんか。笑ったから、珍しいなって」
「そうすか」
「ああ、うん、いや、なんか、好きだ」
「死ね」
えぇ、とたじろいで頬を掻く。嗚呼好きだ、と思った。
金木犀の匂いすきです。沈丁花もすきです。
感想などいただけるのもすきです。あいしてる。