アナタは誰ですか?
よく晴れたある夏の日。
昼間の閑静な住宅街の路地に、一人の少女の姿があった。
肩まで伸びた栗色の髪と真っ白なワンピースが特徴的で、足元を見ると何故か靴は履いていない。
真夏の日差しが照りつけるアスファルトの表面は、目玉焼きが出来るほど熱くなっていると言うのに。
しかし、少女はまったく気にする様子もなく、しきりに辺りを見渡しながら何かを探すように路地を徘徊した。
その頃、少女が現れた路地の近くにある交番から、若い警察官が自転車に乗ってパトロールに出発した。
彼は、幼い頃から警察官になる事が夢で、同期の誰よりも正義感が強く、地域の人からも愛されている。
彼の上司は、勤勉で明るい彼の性格を賞賛すりほどで、内外からの信頼も厚い。
そんな彼は、毎日の日課であるパトロールを一人で行っている。
この時の彼にしてみれば、いつもと変わらない一日だったに違いない。
夏特有の日差しは気になるものの、苦痛に思うほどではなかった。
力強く自転車のペダルを踏み込むと、風を切りながら昼間の住宅地を疾走した。
頬を撫でる風が心地よく、このままどこかへ旅に出たいと思うほどに。
もちろん、真面目な彼がそれを実行する事は、この先の将来を考えてもありえない事なのだが。
そんな時、彼は前方を歩く白いワンピースの少女を見つけた。
彼の目には小学六年生から中学二年生くらいに見えた。
学校は夏休み期間に入っているため、学生が街の中を歩いていても何ら不思議ではない。
しかし、少女が裸足だと気が付くと、ただならぬ気配を感じて目を細めた。
よく見ると、足を怪我しているらしく、微かに出血の跡があった。
最近は、家庭内暴力やネグレクトで警察が介入する事件も少なくない。
一カ月前には、家庭内暴力の被害にあっていた少年を保護したばかりで、彼の脳裏には当時の光景も浮かんでいた。
「キミ、裸足で歩いて、靴はどうしたんだ?」
それを聞いた少女は、警察官に向き直ると、頭の先からつま先までじっくりと見渡した。
そして、何かに納得すると、首を縦に大きく振って見せた。
「…アナタは誰ですか?」
「わ、私は見ての通り警官だが?」
「では、お願いです。私を捕まえてください」
少女はそう言い放つと、両手を差し出し、手錠をかけるよう要求した。
言われた警察官は、突然の出来事に驚き少しの間思考が停止している。
文字通り、開いた口が塞がらない状態だった。
少女は差し出し両手をさらに警察官に近付けると、呆気に取られていた彼の意識が現実に戻ってきた。
「…ま、待ちなさい。一体何があったんだい?酷い…足を怪我しているじゃないか」
警察官は事情を聞こうと慌てて背筋を正した。
言葉に少し動揺が見られるが、そんな事を気にしている余裕はないらしい。
少女はそれを見て微笑すると、スカートの端を両手で摘まんで会釈をした。
「アナタ、警察官なんでしょう?だったら、私を逮捕してください」
「あ、あのね…いくら警察官でも、理由もなく逮捕する事は出来ないんだよ。それに、キミは未成年だろう?ご家族に連絡をしなくては…」
それを聞いた少女はニヤリと笑った。
警察官はそれを見ると、急に背筋が冷たくなる感覚に襲われ、無意識に身を引いてしまった。
少女は彼が怯えているとわかると、すぐに得体の知れない気配を引っ込め、ペコリと頭を下げた。
「…すみません。家族には内緒にしてもらえませんか?できれば理由も」
それを聞いて警察官は我を取り戻し、一つ咳払いをした。
「あ、あのね、とりあえず事情を聞きたいから、あそこに見える交番まで行こうか。それで、本当に逮捕しなくちゃいけないなら、手錠を掛けるから。いいね?」
「…そうですか。それが規則なら仕方ありませんね」
少女は不服そうな表情をしつつも、彼の言葉に従ってくれた。
二人は三百メートルほど先にある交番に向かって歩き出した。
カラカラと自転車を引く音が住宅街に響く。
警察官は少女を先導するように前を歩き、少女はヒタヒタと言う足音を立てながらその後を追った。
警察官はブツブツと呟きながら、今後の聴取する内容を考えている。
少女はそれを冷ややかな目で眺め、何かを確信して小さく頷いた。
二人は一定の距離を保ったまま歩くと、市民公園の前を通りかかった。
公園の周囲には高さが一メートルほどあるウバメガシの生垣が植えられている。
いつもなら近所の子どもたちが公園で遊んでいる頃だ。
しかし、今日は珍しく誰の姿もなかった。
今日は町の公民館で夏祭りが催されているため、子どもたちはそちらに夢中らしい。
静まり返った公園は少し物悲しく見える。
その時、少女は辺りを仕切りに見渡すと、再び得体の知れない笑みを浮かべ、気配を消して警察官の真後ろまで移動した。
次の瞬間、少女の右手が伸びると、警察官は“ドンッ”と後ろから押される感覚に襲われ、歩みを止めて自分の胸を見た。
そこには、こぶし大の穴が開き、おびただしい量の血が流れている。
警察官は、空っぽになった胸を両手で押さえると、膝から崩れ落ちて前のめりに倒れ込んだ。
少女の手には、微かに脈を打つ赤い塊が握られていた。
それは、ずっと働き続けていた彼の心臓だった。
少女はそれを握り潰すと、倒れた警察官を仰向けにして、拳で顔面を何度も殴りつけた。
住宅地に鈍い音が何度も響き、その度に少女は返り血を浴びた。
殴られた顔は原形を留めなくなり、顔の骨が粉々に砕け、辺りには血溜まりができている。
少女は、不敵な笑みを浮かべて警官の首を掴むと、八十キロ近くある身体を軽々と持ち上げ、そのまま生垣に放り込んで遺棄した。
全てが終わった直後、今まで少女だった得体の知れない“何か”は、被害にあった警察官の服装に変わり、背格好も彼と瓜二つになった。
その得体の知れない“何か”は、人とは思えない奇声を発すると、いずこかへ走り去って行った。
翌朝。
散歩をしていた近くの住民が、生垣の中に裸の身元不明の遺体を見つけた。
遺体は激しく損傷しており、一見しただけでは性別がわからない。
また、一部は白骨化していて腐敗臭も酷かったと言う。
遺体の特徴は、真新しい白いワンピースを着ていると言うくらいで、他に手がかりになりそうなものは見つからなかった。
着衣と遺体のギャップから、第一発見者は何か得体の知れない雰囲気を感じたと言う。
すぐに検死が行われると、一年前に失踪した少女だと言う事がわかった。
しかし、この遺体には不可解な点がいくつかあった。
一つは遺体の発見現場で、見つかった公園は人の出入りがあり、近くには交番もある。
人目に触れやすい場所に遺棄するのは、どう考えても道理が悪かった。
他にも、少女が死亡したのは、今から半年以上前だと言う事だ。
また、彼女は関西出身のため、所縁のない関東にいるのは不自然だった。
彼女が今までどこに居て、何故遺棄されたのか、警察関係者は悩まされ捜査は難航した。
そして、近くの交番に勤務していた男性の行方だとわかり、さらに謎が深まっていった。
それから更に半年後。
今度は、人里離れた山中の林で身元不明の遺体が見つかった。
検死の結果、遺体の身元は半年前から行方不明になっていた警察官の男性だと判明した。
しかし、何故遺体が山中で見つかったのか、どうして事件に巻き込まれたなど、解決に繋がる糸口は見つからなかった。
警察官の遺体が発見されてしばらくすると、関東の各地で不審人物の目撃情報が警察に寄せられた。
それは、女性や男性、子どもや老人などで、一見すれば共通性がないと思われていた。
しかし、この不審者には唯一の共通点があり、仕切りに通りかかる人の顔を覗き込み、必ず同じ質問をすると言う。
「…アナタは誰ですか?」
その質問に答えた者は忽然と消息を絶ち、しばらくすると遺体となって見つかると言う…。