バック・トゥ・ザ・ダンジョン
私がその手紙を受け取ったのは、店じまいをしている時だった。
五十三歳になった今、私は王都から少し離れた町で、小さな道具屋をやっている。若いころは勇者と呼ばれ、剣を持って魔王軍と戦っていたが、今では売っているのは薬草や火打ち石、旅人向けの水袋くらいだ。
冒険をやめてから、もう二十五年以上になる。
「店主さん、これいくら?」
「銅貨三枚」
「二枚にならない?」
「ならない」
「勇者だったくせにケチだなあ」
「元勇者だからな。今は普通の道具屋だ」
そんなやり取りをして、最後の客を見送ったところで、店の扉の下に一通の手紙が差し込まれているのに気づいた。
差出人の名前を見て、私はしばらく動けなかった。
セリア・ランフォード。
昔、一緒に旅をしていた魔法使いだ。
最後に会ったのは、たしか十三年前だった。王都で一度だけ食事をしたが、それ以来、手紙のやり取りすらしていない。
封を開ける。
『三十年前のダンジョンが戻った』
最初に書かれていたのは、その一文だった。
「……は?」
思わず声が出た。
もう一度読む。
『東の山にあった第七迷宮。私たちが最初に攻略した、あのダンジョンよ。三十年前に消滅したはずなのに、昨日、まったく同じ場所に入口が現れた』
私は椅子に座った。
第七迷宮。
忘れるわけがない。
私たち四人が、まだ何者でもなかったころに初めて挑んだ、本格的なダンジョンだ。
当時の私は二十三歳だった。
勇者に選ばれてから二年目。仲間は魔法使いのセリア、戦士のガルド、回復役のミナ。
あの迷宮を攻略したことで、私たちの名前は王国中に知られるようになった。
『お願い。来て』
手紙の最後には、短くそう書かれていた。
私はしばらく天井を見上げていた。
(今さらダンジョンか……)
腰は痛い。
昔ほど剣も振れない。
走ればすぐ息が切れる。
正直に言えば、行きたくなかった。
でも、その日の夜はなかなか眠れなかった。
翌朝。
私は店の入口に『五日ほど休みます』と紙を貼った。
「結局、行くのかよ」
隣のパン屋の主人に笑われた。
「確認するだけだ」
「剣まで持って?」
「念のためだ」
「五十三歳なんだから無理すんなよ」
「わかってる」
本当は、あまりわかっていなかった。
第七迷宮があった東の山までは、馬車で二日かかった。
山のふもとに着くと、すぐに懐かしい顔を見つけた。
「遅い」
「久しぶりに会って最初の言葉がそれか」
セリアは六十歳になっていた。
昔は腰まであった金髪も、今は肩のあたりで短く切られている。それでも、腕を組んで人を待つ癖は変わっていなかった。
「本当に来たのね」
「呼んだのはお前だろ」
「来ないと思ってた」
「俺もそう思ってたよ」
少し離れたところには、白髪の大男が座っていた。
「ガルド?」
「おう」
「でかいな」
「昔からだ」
「いや、横に」
「帰るぞ」
「悪かった」
ガルドも昔の仲間だ。今は故郷の村で鍛冶屋をしているらしい。
そして、もう一人。
「ミナは?」
私が聞くと、二人の顔から笑みが消えた。
セリアが静かに答えた。
「八年前に亡くなったわ」
「……そうか」
「病気だった。あなたにも知らせようと思ったけど、本人が嫌がったの」
「どうして」
「『レイルはお別れが苦手だから』って」
私は何も言えなかった。
その通りだった。
仲間が死ぬたび、私はうまく別れを言えなかった。魔王を倒したあとも、旅の終わりを認めたくなくて、何度も皆を食事に誘っていた。
ミナは、きっと全部わかっていたのだろう。
「行きましょう」
セリアが山の方を見る。
木々の間に、黒い穴が見えた。
三十年前と、まったく同じ場所だった。
入口に立った瞬間、私は息を止めた。
「……本当に同じだ」
石の門。
右側が少し欠けている。
左の壁には、ガルドが昔つけた傷まで残っていた。
「これ、俺が斧をぶつけた跡だ」
「覚えてる」
「魔物と間違えて壁を殴ったのよね」
「暗かったんだ」
三十年ぶりなのに、昨日のことみたいに思い出せた。
セリアが杖を持ち上げる。
「中を調べた冒険者によると、一階までは普通だったらしい。でも二階から先に進めない」
「どうして?」
「壁があるの。魔法でも壊せない」
「それで俺たちを呼んだのか」
「たぶん、この迷宮は私たちを待ってる」
「そんなことあるか?」
「入ればわかるわ」
私は剣を抜いた。
昔使っていた聖剣ではない。
あれは王城に返した。
今持っているのは、道具屋の裏に置いていた普通の鉄剣だ。
「じゃあ行くか」
「昔みたいに先走るなよ」
ガルドが言った。
「五十三歳に言う台詞じゃないだろ」
「お前は五十三歳でも先走る」
否定できなかった。
迷宮の中は静かだった。
一階には弱い魔物が何匹かいたが、若い冒険者がすでに倒したらしい。
問題の二階に着く。
セリアの言った通り、通路の途中に白い壁があった。
「これよ」
「何もないな」
「触ってみて」
私は手を伸ばした。
その瞬間だった。
『レイル』
声が聞こえた。
「え?」
聞き覚えのある声だった。
『レイル、早く!』
私は反射的に振り返った。
誰もいない。
セリアとガルドも固まっている。
「今の……」
「ミナだ」
ガルドが言った。
白い壁が光り始めた。
光が薄くなると、壁の向こうに通路が現れた。
私たちはしばらく動けなかった。
「行くわよ」
セリアが先に歩き出した。
昔と変わらず、こういう時だけ迷いがない。
通路を抜けた先には、大きな部屋があった。
そこに四人の若者がいた。
「……何だ、これ」
二十三歳の私。
二十二歳のセリア。
二十五歳のガルド。
二十一歳のミナ。
若い私たちは、部屋の中央で話していた。
「だから言っただろ! 右だって!」
若い私が叫ぶ。
「左よ!」
若いセリアが言い返す。
「俺は真っすぐだと思う」
ガルドが言う。
「全員違うじゃないですか!」
ミナが笑っていた。
私は息をするのを忘れた。
「映像……なのか?」
「たぶん、迷宮が残していた記憶ね」
セリアの声も震えていた。
若い四人は、私たちに気づかず会話を続ける。
「レイルって方向音痴ですよね」
「違う!」
「昨日も迷いましたよね?」
「あれは道が悪かった」
「道は動かないぞ」
「ガルドまで言うな!」
三人が笑う。
若い私だけが怒っている。
私は思わず笑った。
「俺、こんなにうるさかったか?」
「もっとひどかったわ」
「本当かよ」
「本当だ」
次の瞬間、部屋が暗くなった。
若い四人の姿が消え、新しい道が現れる。
私たちは黙って進んだ。
三階。
また記憶が現れた。
今度は戦いのあとだった。
若いガルドが地面に座り、腕から血を流している。ミナが必死に回復魔法を使っていた。
「ごめん」
若い私が言った。
「俺が突っ込んだから」
「珍しいな。レイルが謝った」
「うるさい」
「次から気をつけろ」
「ああ」
記憶の中のガルドは笑っていた。
今のガルドがぽつりと言う。
「覚えてないな」
「俺もだ」
「私は覚えてる」
セリアが言った。
「あのあとレイル、一週間だけ慎重だった」
「一週間だけ?」
「八日目にまた突っ込んだ」
「成長してないな」
三人で笑った。
でも笑いながら、私は胸の奥が少し苦しくなった。
四階。
そこにはミナだけがいた。
若いミナが一人で壁にもたれ、こちらを見ている。
「これは……」
セリアが声を落とした。
記憶の中のミナは、誰かと話しているようだった。
『私、いつか皆が別々になるのが怖いです』
私たちは動けなかった。
『ずっと一緒に冒険できるわけじゃないって、わかってるんです。でも、終わるって考えると嫌で』
たぶん、誰かに話していたのだろう。
けれど相手の姿は映っていない。
『レイルは絶対、終わりを認めたくないって言うと思います』
「……その通りだよ」
私は思わず答えた。
もちろん、若いミナには聞こえない。
『だから、私が先に言えるようにならないと』
ミナは笑った。
『楽しかったって』
映像が消えた。
私はしばらくその場から動けなかった。
「八年前」
セリアが言った。
「最後にミナと会った時、同じことを言ってた」
「何て?」
「『旅は終わったけど、楽しかったことまで終わるわけじゃない』って」
私は目を閉じた。
何十年も前の言葉が、今になって胸に刺さった。
最下層。
三十年前、私たちが迷宮の核を壊した場所。
そこには巨大な青い結晶が浮かんでいた。
「核が戻ってる」
ガルドが斧を構える。
「待って」
セリアが止めた。
結晶の表面に文字が浮かぶ。
『オカエリ』
誰も声を出さなかった。
続けて文字が変わる。
『アノヒニ モドル?』
「……戻る?」
結晶の周囲に光が集まり始めた。
その中に、若い私たち四人が立っている。
二十三歳の私。
二十二歳のセリア。
二十五歳のガルド。
二十一歳のミナ。
全員が笑っていた。
私は理解した。
この迷宮は、三十年前の私たちを保存していた。
ここに残れば、またあのころのように冒険できるのかもしれない。
ミナもいる。
若い体も戻る。
全部、やり直せる。
「レイル」
セリアが私を見る。
「どうする?」
私は若い自分を見た。
楽しそうだった。
怖いものなんて何もない顔をしている。
世界は広く、明日は必ず今日より面白いと、本気で信じていた。
正直、戻りたかった。
ほんの少しだけ。
いや、かなり。
五十三歳になった今、もうできないことは多い。
昔のようには走れない。
仲間の一人はもういない。
これから先、失うものは増えていく。
それでも。
「戻らない」
私は言った。
セリアもガルドも何も言わなかった。
「三十年前は楽しかった。でも、戻ったら今までの三十年までなかったことになる気がする」
道具屋を始めたこと。
町の人たちと知り合ったこと。
旅をやめたあと、普通の生活を覚えたこと。
全部、私の人生だ。
「それに」
私は若いミナを見る。
「ミナに怒られそうだ」
ガルドが笑った。
「間違いない」
セリアも笑う。
「『昔に戻るくらいなら、今をちゃんと生きてください』って言いそう」
「言うな」
私は結晶へ向かって言った。
「ありがとう。でも、戻らない」
少しの間、何も起きなかった。
やがて文字が浮かぶ。
『ワカッタ』
次に。
『マタ キテ』
「また来て?」
ガルドが眉を上げる。
「壊さなくていいのか?」
結晶は静かに光っている。
セリアが杖を下ろした。
「もう迷宮じゃないのかもしれないわね」
「じゃあ何だ?」
「思い出の置き場所」
私は少し考えた。
「それなら、残してもいいか」
光が広がった。
若い四人が最後にこちらを見た。
ミナが笑った。
もちろん、本物ではない。
ただの記憶だ。
それでも私は手を上げた。
「じゃあな」
光が消えた。
外に出ると、夕方だった。
三人ともかなり疲れていた。
「腰が痛い」
私が言う。
「俺は膝だ」
ガルドが答える。
「私は全部」
セリアが言った。
「三十年前は、このあとそのまま酒場に行ったのよね」
「今は無理だな」
「宿に戻って寝たい」
「同意する」
山を下りながら、三人で笑った。
「レイル」
セリアが呼ぶ。
「何だ」
「また来る?」
私は少し考えた。
「一年に一回くらいなら」
「来年、五十四歳よ」
「知ってる」
「再来年は五十五」
「数えなくていい」
ガルドが笑う。
「六十になるころには入口までで終わりそうだな」
「それでもいいだろ」
私は山を振り返った。
三十年前の私たちは、あそこにいる。
でも、戻る必要はない。
会いに行けばいい。
過去は帰る場所ではなく、思い出す場所なのだ。
一週間後。
私は道具屋へ戻った。
「店主さん、どこ行ってたの?」
いつもの少年が聞いてくる。
「昔のダンジョン」
「冒険してきたの?」
「まあな」
「魔物倒した?」
「ほとんど倒してない」
「宝は?」
「ない」
「じゃあ何しに行ったの?」
私は少し考えた。
「昔の自分に会いに」
少年は変な顔をした。
「よくわかんない」
「俺も昔ならわからなかったよ」
私は笑って、水袋を棚へ並べた。
もう勇者に戻るつもりはない。
若いころへ戻りたいとも思わない。
でも、あの日々を嫌いになったわけでもない。
だから時々、会いに行けばいい。
バック・トゥ・ザ・ダンジョン。
それは過去へ戻るための旅ではなく、過去に「ありがとう」と言うための旅だった。




