闇深く
夜の帳がすっかりと世界を覆い隠した頃、ミュゼルシアは黒装束で身を包んでこっそりと離宮の自室を抜け出した。
影として仕えているルウだけを伴い、部屋の外で守るロイドにすら気づかれないよう細心の注意を払ってたどり着いたのは、離宮を囲む森の中心にある湖だった。
母が生きていた頃、彼女から教えてもらったことは多くない。
覚えているのは、ベッドの上でか細い呼吸を繰り返す消え入りそうな姿。
そんな母が、唯一好きな場所だと言っていたのが、この湖だった。
生きているうちに、連れて来れたらよかったのだけれど。
「……心配ないわ」
数日前、ガゼポで話して以来、テオバルトからの接触はない。
ひとまず返事は保留に、と言われたけれど、彼にミュゼルシアの提案を断ることなどできまい。
この国の王族は、一夫多妻制である。側妃も愛妾も持っていい。
ただし、継承権の正統性は必ず正妃、娶った順番の側妃、最後に愛妾。
そのすべてを覆すのが、紺碧の瞳の有無だった。
紺碧の瞳を持つ者の生母が誰であっても、その者の継承権には誰も敵わない。
今はミュゼルシアが継承権を主張していないから、国王や側妃の意向でもって元々王太子であったテオバルトが次期国王と定められているだけ。
母が正妃で、唯一紺碧の瞳を持つミュゼルシアを己の陣営に引き込むことでしか、彼は王位を手中に収めたとは言えない。
王宮に戻って国政に携わってほしいという要望は、つまり王太子の側近のような立ち位置で、彼と志を共にしながらも忠誠を誓ってほしいということと同義だ。
そうすることで、王位を望まないミュゼルシアの身の安全も確保できる。
けれど、もっと確かな方法があるだろう。
裏切ることが難しく、弱みさえ握りやすい方法が。
汚くともおぞましくとも。
────お綺麗な文句だけで手に入れようなんて、甘すぎる。
少なくとも、王族としてのミュゼルシアはそう思う。
生まれる前からないものと扱い、存在を認識した後は命を奪おうとし続けた相手を、手元に置こうというのだ。
誠意を、とか、対話を、とか。時間の無駄でしかないとなぜわからないのか。
テオバルトにとってもミュゼルシアにとっても、これ以外の手はない。
血の近さなどは二の次だ。間に子を成す行為をしない選択だってある。
ただ、伴侶という形を取るしか最善にはなれない。
正当な血筋のミュゼルシアを娶ることで、他国の血を引くテオバルトの王位の正統性が確実なものとなる。
しかも、正妃が亡くなってから疎遠になっている筆頭公爵家の後ろ盾まで付いてくる。
(わたくしにとっては?)
ミュゼルシアは、抗っている。大切なものをこれ以上奪われないように。
そのためにテオバルトを、父たる国王を、そして側妃を下す。
それだけの力をつけるために、今まで必死に努力してきた。
今のミュゼルシアには、奮える力がある。
許せるはずがない。
母を追い詰め、生きている間も亡くなった後も顧みなかったこと。
ミュゼルシアが笑いかけた人、そっと引き出しに仕舞った欠片さえ奪っていったこと。
────ロイドを、欲したこと。
ミュゼルシアは、ミュゼルシア自身への扱いなどどうでもいい。
ただ、奪われたもの、奪われそうなもの、そのすべてが許しがたい。
なくせば取り戻せないものがある。
それは十七年の月日をかけてミュゼルシアの心を削ぎ、感情を剥ぎ、筆舌に尽くしがたい苦痛を与え続けてきた。
────これは、奪われないための戦いだ。
ミュゼルシアによる、ミュゼルシアが選び取る、ミュゼルシアのための生き方。
恥じることも諦めることもない。
誇り高く、やってやろうではないか。
幼い頃に大切な護衛からもらった短刀を握りしめ、紺碧がうっそりと笑んだ。




