それを人は逆鱗と呼ぶ
テオバルトが接触してきたのは、二年前。
暗殺されかけることが当たり前の日常になり、ミュゼルシアはすっかり可愛げをなくしていたが、彼は何一つ気にせず当然のように声をかけてきた。
まるで知己のように『久しいな』と言われて、一瞬ミュゼルシアは頭の中で辞典を開きかけた。
あの式典から五年も経っていて、異母兄たちの中では彼だけが何の接触もなかったため、このまま距離を保っていようと思っていたのに。
王宮に戻れ、政務を手伝え、とテオバルトは毎回すごくどうでもよさそうな口調で言う。
表情がぴくりとも動かないし、声の抑揚もほとんどない彼の真意を測るのは、さすがにミュゼルシアも難しかった。
「まだ死にたくはありませんから」
対抗するつもりで淑やかな笑みを貼り付け、ミュゼルシアも柔らかいながら感情を込めない声で答えた。
先触れもなく離宮を訪れる異母兄のため、屋根のあるガゼポはいつでも客を迎えられるようになっている。
周りをぐるりと池で囲った、いわば池の真ん中にぽつんと置かれたようなガゼポだ。
護衛や使用人に距離を取らせれば、会話の内容は誰にも知られない。
とはいえ、二人とも人払いなどはせず、近くに控えさせているが。
どちらかといえば、これはミュゼルシアを狙った暗殺者の類から、王太子を守るための場所だ。
「何か、やるべきことが?」
ティーカップを手にしたテオバルトをそっと制し、ちらりとロイドに目をやる。
すぐに察したロイドがテオバルトの毒味を行ってから、ミュゼルシアはもう一度そっと紅茶を勧めた。
「ええ。ああでも、あなた様に命じられれば、今すぐにでも絶ちましょう」
にこりと微笑みながら告げれば、珍しくかすかにテオバルトの眉間に皺が寄った。
自分のカップに口を近づけてから、そのまま中身を後ろの花壇に捨てる。
「カップを替えてちょうだい」
「ただいま」
萎れてしまった黄色の花を、淡々と片付ける使用人の様子を眺めるテオバルトのお付きの者たちの口がぱかりと開いている。
「このような厄介事、王宮に持ち込まれても困るのでは?」
「やりようはある」
「それはそうでしょうけれど……」
何事にだって、やりようはあるだろう。
手段や犠牲を加味しないならば余計に。
「聞き分けないのなら、ロイドをもらっていくぞ」
冗談めかした、到底本音ではない戯言のような声音。
けれど、ミュゼルシアの胸には虚無が広がった。
父は、側妃の言いなりになって、ミュゼルシアの弱点を探ってくる。
ほんの少しでも惜しんだり、褒めたりしたものは、人でも物でもすべてすげ替えられた。
こんな風に、飲食物に簡単に毒を仕掛けられてしまうのは、母の生家から来た使用人よりも敵側の人間が多くなったからだ。
暗殺者の侵入が容易いのも同様に。
それでも、数人の使用人とロイドだけは、ミュゼルシアは死守してきた。
殊更冷たく、興味のない言動を徹底し、時にはいないものとして扱ったりもする。
主に名を呼ばれることもない彼らは、それでもミュゼルシアを理解してくれている。
物心つく前から傍にいた、父のような兄のような人だ。
ロイドを失うことは、ミュゼルシアにとって世界に一人きりになるのと同義に思えた。
「お連れになっては?」
だから、つい。声に険が混じった自覚があった。
向かい側のテオバルトが、父によく似た金の瞳を揺らす。
「陛下のように、何でも持って行かれればよろしいわ。嫌だと申したことなどありませんでしょう?」
おそらく、父や側妃の思惑と、テオバルトのそれは大きく異なる。
なんとなく直感だが、それは理解している。
けれど、それと味方であるということとは同義ではないのだ。
「あれも欲しいこれも欲しいと、みなさまおっしゃるのだけれど。お好きになさればいいわ。わたくしの大切なものは、すべて母に持って行ってもらいましたもの」
「ミュゼ、」
「ああ、この瞳かしら。抉り取ればよろしい? それとも、あなた様のおっしゃる誰かと子を成しましょうか。瞳を継ぐかもしれませんわね」
苛烈な光を込め、ミュゼルシアは紺碧を一層煌めかせた。
「よろしいわ、殿下。わたくしはあなた様の妃に上がりましょう。側妃でも愛妾でも、あなた様のお好きなように。そうすれば、ロイドも同時に手に入るでしょう」
「何を……」
「差し上げますわ。わたくしに残っているのは、この身だけ」
愕然とする異母兄がおかしくて、ミュゼルシアは嘲笑う。
もう何もかも知ったことか。壊してやればいい。
彼らの大切なもの、守りたいものなど。
誇り? そんなもの、異母妹でも抱いて捨ててしまえ。
どうせ彼らにとって価値があるのは、ミュゼルシアでもその子でもなく、この紺碧だけだ。
「それ以外なら、わたくしは決して王宮へは戻りません。どうぞ殿下の御心のままに」
ミュゼルシアが欲しいのなら、同じくらい大切な何かを失ってもらわなければ割りに合わないだろう。
ミュゼルシアにとって、自分とロイドと数人の使用人以外は、等しく無価値なのだから。
挑戦的に歪めたミュゼルシアの赤い唇を、テオバルトはしばらく呆然と見つめていた。




