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PART6 人は、かつてエネルギーだったのではないか

最終回

 ここから先は、私の想像にすぎない。

確かめる術もなく、証明する気もない。

ただ、そう感じてしまう、という話である。

この世のすべての本質は、

形ではなく、エネルギーのようなものではないか。

流れ、移り、変換されるもの。

留まらず、境界を持たないもの。

人もまた、最初から人だったわけではない。

かつては、もっと軽い状態で存在していたのではないか。

生と死に分かれる前の、

どちらにも属さない在り方として。

それが、ある時、形を持った。

人という形に変換された。

形を持つということは、

そこに留まるということだ。

留まるためには、燃やし続けなければならない。

人が生きるために食べるという行為は、

その代償として現れたのではないか。

エネルギーであった頃、

人は食べなかった。

奪う必要も、蓄える必要もなかった。

ただ、流れていた。

だが人になると、

生は維持されなければならなくなる。

弥生以降、人は田畑を作り出した。

生をつなぐために、

外部のエネルギーを集め、管理し、囲い込んだ。

その過程で、

何かが切り落とされたように思える。

生と死が、

同じ流れの中にあるという感覚だ。

生は、生として固まり、

死は、生の外側へ追いやられた。

戻る場所ではなく、

失われるものとして扱われるようになった。

縄文の人々は、

まだそれを忘れていなかったのではないか。

死者を生活のそばに置いたのは、

彼らが別の存在になったからではない。

形を変えただけだと、

どこかで分かっていたからではないか。

人は死ぬと、

再び軽くなる。

燃やす必要のない状態へと戻る。

それは終わりではなく、

変換なのだと考えたとき、

墓が遠ざけられていなかった理由が、

少しだけ見える気がする。

もちろん、これは仮定である。

思想でも、教義でもない。

ただ、墓地の前に立つとき、

生きている者と死んだ者のあいだに、

決定的な断絶を感じきれない理由を、

私はこの想像で説明している。

もし人が、

かつてエネルギーだったのだとしたら、

生と死を切り離したのは、

文明の選択だったのかもしれない。

便利さと引き換えに、

流れを忘れた。

それでも、

完全には忘れきれていない。

地方の町に点在する墓地や、

理由なく抑えられる振る舞いの中に、

その名残が残っている。

この想像が正しいかどうかは、重要ではない。

重要なのは、

私たちが今も、

生と死を完全に別のものとして

扱いきれていないという事実だ。

縄文から続く何かは、

知識としてではなく、

感覚として、

まだここにある。


         【完】





本稿は、縄文時代を理想化するために書いたものではない。

また、現代社会を否定する意図もない。

ただ、あまりにも遠い過去として扱われてきた時代が、実は現在の足元に折り重なっているのではないか、その可能性を確かめたかった。

墓地の位置や、自然や対立に対する態度は、意識して選ばれた思想というより、長い時間の中で身についた感覚に近い。

それは言葉にされにくく、気づかれにくいが、完全には消えていない。

この感覚が、これから先も残るべきものかどうかは分からない。

だが、失われつつあるからこそ、立ち止まって見直す価値はあるように思う。

過去を知ることは、懐かしむことではない。

これからどのように生きるかを考えるための、別の視点を手に入れることだと、本稿を書き終えて改めて感じている。

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