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PART5 現代日本人の無意識に残る縄文的感覚

 縄文的な感覚は、すでに失われた思想として語られることが多い。

だが本当にそうだろうか。

私たちは、縄文人のように森で暮らしているわけではない。

狩りも採集もしない。

集落の中心に墓を置くこともない。

制度も価値観も、当時とはまるで違う。

それでも、完全に断ち切られたとは言い切れない何かがある。

たとえば、住宅地の中に残る墓地を前にしたときの感覚。

誰に教えられたわけでもないのに、

声を落とし、足取りを変え、

そこが単なる空き地ではないことを理解している。

それは信仰ではない。

合理的な判断でもない。

ただ、そうしてしまう。

先に生きた者たちが、

今もこの場所を共有しているという感覚が、

言葉になる前に身体に染みついている。

あるいは、自然に対する態度もそうだ。

山や川、森や海に対して、

完全に支配できる対象として振る舞うことに、

どこかためらいを覚える。

科学的には説明できる。

理屈も理解している。

それでも、乱暴に扱うことに抵抗が残る。

この感覚は、宗教教育の成果だろうか。

道徳の刷り込みだろうか。

おそらく違う。

もっと古い層で、

世界を「利用するもの」ではなく

「共に在るもの」として捉える感覚が、

完全には消えていないのだ。

争いに対する距離感にも、それは表れている。

対立を好まず、

正面から衝突するよりも、

回避や調整を選ぼうとする傾向。

それは、弱さと見なされることもある。

主体性がないと批判されることもある。

だが、縄文的な視点から見れば、

それは環境を壊さないための知恵でもあった。

勝ち続けることよりも、

長く続くことを選ぶ。

今の利益よりも、

場所の時間を乱さないことを優先する。

私たちは、それを理論として学んだわけではない。

制度として教え込まれたわけでもない。

ただ、そう振る舞ってきた。

もちろん、この感覚は万能ではない。

近代社会の中で、

ときに判断を遅らせ、

決断を曖昧にし、

問題を先送りにする原因にもなる。

失われてしまった方がよい部分も、確かにある。

だが同時に、

この感覚があったからこそ、

極端な断絶や破壊を避けてきた側面もある。

縄文時代を理想化する必要はない。

戻ることもできない。

けれど、

私たちの足元に、

先に生きた者たちの時間が折り重なっているという感覚は、

これからの社会を考える上で、

無視してよいものではないはずだ。

争わなかった理由。

死者を遠ざけなかった理由。

先祖を祀らなかった理由。

それらは、未熟さの証ではなく、

世界をどう捉えるかという選択の結果だった。

私たちは今、

効率と速度を最優先する時代に生きている。

だが、その足元には、

別の生き方の痕跡が残っている。

それを掘り起こすことは、

過去に戻ることではない。

これから先、

どのように生きるかを考えるための、

もう一つの視点を取り戻すことなのだと思う。




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