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スタートライン

作者: 夏野モエギ

 走るって、自由だ。

 ピストルの音も硝煙の匂いも置き去りにして、スパイクで地面を軽やかに蹴りつけて走る。

 腕を振れば、ぐんと加速した。重力なんてないみたいだった。

 風を切ってただひたすらに前へ、前へ。ポニーテールにした髪が旭の首筋を撫でる。

 目まぐるしく流れていく景色に息をはずませて、誰も追いつけないスピードで旭は走る。


 そうして旭は、ゴールと設定されたラインを踏み越える。

 マネージャーがストップウォッチに刻まれたタイムを読み上げる声がした。

 がくん、と足から力が抜ける。なにが起きたかわからないまま転んだ。誰かが旭の名前を叫ぶ。

 呼吸と一緒にグラウンドの砂埃を吸い込んだ。口の中がジャリジャリとする。練習着に覆われていない腕や足にも砂や小石がまとわりついた。足が、痛かった。


「……バカみたい」


 教室からグラウンドを見下ろす旭が呟いた。

 その傍らには松葉杖があった。そしてギプスこそないが、左足にはテーピングがされている。

 疲労骨折だった。完治までは最低でも四週間。とても中学最後の夏の大会には間に合わない。


「旭ちゃん」


 ふと、名前を呼ばれて振り返った。教室の入り口で薄茶色の髪をしたジャージ姿の少年が佇んでいる。幼馴染の湊だ。

 二つ下の幼馴染である湊は中学に入ると、旭と同じ陸上部に入部した。

 そこからめきめきと頭角を現して、湊はこの夏の大会で一年生ながらもリレーのメンバーに選ばれている。


「監督が呼んでるよ」

「……わかった」


 呼んで、どうするの。練習もできないのに。そう思って、旭は唇を噛む。

 湊から視線を外して、また窓からグラウンドを見下ろした。同級生たちがコースを走っているのが見えた。

 六月の生ぬるい風が吹いて、旭の前髪を揺らす。遠くで吹奏楽部が練習をしているようだった。


 人の気配がした。

 隣を見れば、いつの間にか側に来ていたらしい湊が旭を見ていた。

 二人の間にあった小さな頃の大きな身長差は、今はもうほとんどなかった。


「……なに、サボり?」

「今のオレが求められてることは、旭ちゃんをグラウンドに連れて行くことだから」

「いや、行かない……行きたくない」


 いやいや、と幼い子どもみたいに旭が首を振る。それを見た湊がまばたく。

 けれど、こんな気持ち旭は初めてだった。


 旭は走ることが好きだった。

 小学校でのかけっこはいつも一番で、旭ちゃんは足が速いねといつも褒められていた。

 だから中学校に入学した旭は当然のように陸上部に入部した。

 そして陸上部に入部して、旭は自分が一番でないことを知った。


 しかし、それでも旭は走ることが好きなままだった。

 走る場所は一番前ではなくなってしまったけれど、それならまた一番になればいいだけだ。

 そう思って練習して練習して練習して、もうすぐ一番に手が届くところまできていた。

 それなのに怪我をした。中学最後の大会を前にしてなにもかもを無駄にした。旭にはもうなにも残っていない。旭はもう自由じゃない。

 グラウンドに行きたくない。グラウンドに行くのが、怖い。

 まるで旭の心は迷子みたいだった。


「旭ちゃん」


 ぽつりと名前を呼ばれた旭が顔を上げる。

 湊が旭をじいっと見つめていた。湊の薄茶色の瞳が旭を射抜いた。


「オレ、旭ちゃんが好きだよ」

「……は?」


 突然の告白にそんな声が出た。旭は困惑して湊を見る。湊がやわらかく目を細めた。

 窓枠に置かれていた旭の右手にそうっと湊の左手が重ねられる。旭よりほんの少し小さい男の子の手だった。


「ごめん。なんて言えば旭ちゃんにオレの言葉が届くのかなって考えてたんだけど、わからなくて」


 そう言って湊が寂しそうに笑う。

 ストレートな言葉とその表情とのちぐはぐさに旭は少し戸惑って、それから湊のことが少し羨ましくなった。

 窓枠をぎゅっと握る。旭はまだこの左足の痛みを、その心を言葉にできずにいる。


「オレ、旭ちゃんが好きだから陸上始めたんだ。そうしたら、ずっとそばにいられるでしょ?」

「……陸上、好きじゃないの」

「今は楽しいけど、一番ではないかな」


 先ほどまでの旭と同じようにグラウンドを見下ろして、なんてことはないように湊は言う。

 湊にはきっと走りの才能がある。それでも陸上を一番にしない湊のことが旭は信じられなかった。

 そんな旭を置き去りにして、湊は言葉を続ける。


「オレの一番は旭ちゃん。旭ちゃんが好きで、そばにいたい。でも、これってオレだけの気持ちでしょ」

「うん」


 ぎゅっと手を握られる。グラウンドを見ていた湊が再び旭を見た。薄茶の瞳がきらきらと輝いている。

 それから湊は、旭の手を握る手とは反対の手で自身の胸元を掴んだ。ジャージにぐしゃりとシワが寄る。

 湊が息を深く吸って、吐いた。


「オレだけの気持ちで、大事なもの。だからそれはなにからも、誰にも、それこそ旭ちゃんにだって奪えないものなんだ」


 誰にも奪えないもの。湊の言葉が旭の心に触れる。

 瞳を揺らす旭を見て湊が笑う。そして首を傾げた。


「旭ちゃんの一番は、違うの?」

「違わないよ!」


 自然と大きな声が出た。

 けれど、だけれど、だって、それは同じだから。違うことなんてない。

 怪我をした。最後の大会に出られない。それはひとつも変わらなくて、たしかに辛いし苦しいし、悔しい。旭は今、自由じゃない。

 けれどそれで、たったそれだけのことで旭は陸上のことを嫌いになんてならない。旭の一番は奪われない。絶対に。


「私は陸上が好き。それは……なにからも奪えない」


 じわり、と目の前にいる湊が滲んだ。

 眉を下げた湊がそうっと旭の頭を撫でた。旭の黒い髪が揺れる。

 旭は溢れそうになる雫をこらえるように何度かまばたきをした。それから深呼吸をして、不自然なくらい明るい声を出した。


「あーあ、湊に励まされちゃった」


 努力むなしいその明らかな鼻声に旭は少し恥ずかしくなる。

 けれど湊はなにも言わなかった。ただ、ほうっと息を吐いて目を細めただけだ。


「グラウンド、行けそう?」


 そう言って湊は右手を旭に差し出した。迷わず旭はその手を取る。


「うん、もう大丈夫」

「じゃあ行こうか。監督、待ってるよ」


 湊に手を引かれ、どこかで練習をしている吹奏楽部の音を聞きながらグラウンドに向かう。その途中で湊がぽつりとこぼした。


「さっきの告白だけどさ」

「う、うん」


 それどころではなくて聞き流していたことを掘り返されて、旭の心臓が跳ねる。

 旭にとって湊はただの幼馴染だ。それ以上でも以下でもない。


「返事、まだしないでね」

「えっ?」


 支えられている左手をぎゅっと握られた。

 湊がまっすぐに旭を見る。視線が絡まって、ほどけない。


「見てなよ、旭ちゃん。今にオレのこと好きになるから……だから、返事はそれからね」


 湊の射抜くような視線に息が止まる。

 それから自信満々に笑う湊がおかしくって、旭は思わず笑ってしまった。


「ふふっ……うん、怪我が治るまでは湊のこと見ててあげる」


 くすくすと笑う旭に湊は悔しそうに唇を尖らせて、それからそうっと目を細めた。

 そこには湊が一番好きな旭の笑顔があった。迷子のような顔をした旭は、もうどこにもいない。

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