ちゃんと生きるということ
今日買い物をしているとふと小児がんにかかった子たちの書いた絵というものが飾られていた。
興味が湧いたのでさらりと流し見をする。
しかしそれをそんな軽い気持ちで見るものではなかったのだと私は後から知った。
絵はそれぞれあったのだが、私が一番心打たれたのは花嫁と王子様が描かれた絵だった。
花嫁が大好きな女の子だったそうで、自分の花嫁姿と王子様を書いたらしい。
ここまでならほほえましい話だったのだが、なんとその子は10歳で亡くなったらしい。
あぁ無情だ、同じ夢を追いかける者、夢追い人がその若さで亡くなってしまった。
そのことに思わず涙がこぼれ、人目もあるというのに静かにしゃがみこんで泣いてしまった。
他にも同じような、というのは失礼だと思うので言い方を変えよう。同じく綺麗な夢を持った子がたくさんいた。
幼くてまだ世界をちゃんと見られる背まで達する前だったはずの彼らはそれでも写真の中で笑っていた。
その若さで亡くなりながらも夢に手を伸ばし続けた彼らに私は大きな敬意を払う。
帰りの車に乗り込みながら私はあの子たちの生きたかった今日を生きている者としてなにができるのだろうと考えていた。
好きなことを思いっきりやることか、天寿を全うすればいいのか、それとも誰かを幸せにすればいいのか。
わからない、あの子たちが生きたかった今日を生きる責任というのはなんなのだろう。
そもそもちゃんと生きるというのはなんなのだろうか。
ただ私にも今を生きるものとしてずっと思っていたことがある。
ここまで偉そうに生を語りながら、怒られるかもしれないが、私は生きることが必ずしもいいことだとは思っていない。
健康でも自死を選ぶ人はいるし、実際私もその一人になりかけていた人間だ。
小学1年生から自覚したその希死念慮は私を徐々に蝕み、約1年前、それは私に自死という選択を取らせかけた。
たまたまその時頭をよぎったのが希望だったから生き残ったが、あの時さらに絶望が襲ってきていたらきっと私はこの文すら書き込んでいない。
ただ今は生きていてよかったと思えるし、死にたくないと思えるようになってきた。
つまり私たちができるこの日を生きる責務というのはこうやって選択して息をすることなのかもしれない。
死にたいと思う葛藤も、生きたいと思う嘆願も、それの選択こそ生きているということなのかもしれない。
今与えられた世界が暗くても、明るくても、私たちは生きているからこそこの場所に残るか、去るかを選べる。
どれくらい生きて何をしたかなんていうのは結局何も残さなければ、死んでしまったら消えてしまう。
でもそれだとダメだとも思うのだ、これは私の人生だからといって何も変えなければそれではぼーっと時に流され、勝手に死んでいくのだ。
あの子たちに報いる生き方をするなら、私は今この書いている文字を大事にしよう。
これが私の生きるということだ。
だから私は今日もずっといつもと変わらない選択肢の方を選び続ける。
その選ぶという行為すら捨てないように、私は今日も生きていく。




