孤独の負け犬
人の目というのはきっと気づいたら私の中に入り込んでいる。
私は面白いことが好きだ、この世の何よりも。
何を犠牲にしてもいいと思うくらいに。
何を、というと抽象的だ。もっというと人からの評価だ。
人から何と言われようと私は自分の興味が向きたい方向へと帆を開く。
だがその背に何か刺さっている気がするのはきっと気の所為じゃない。
きっとその姿は周りにとって適当に見えるのだろう、遊び回っているように見えるのだろう。
あいつは口だけ達者でやるべきことをやっていない。そう言われるのがとても怖い。
私、頑張ってるよね?ってふと友人に遠回しに聞きたくなった。
会話の流れを作って、きっと私は自分を怒られる方向へ誘導する。
――なぜ?
ふとそう思った。
なぜ私は怖いのに怒られようとしているんだ?意味がわからない。
私は怒られたいのか?なぜ?
......きっとそれは今のままだとあとから後悔するかもしれないと恐れているからだろう。
周りには頑張って小説を書いているように見えるのだろうが、私にとってはそれは遊びと一緒だ。
楽しくて楽しくて仕方がなくて、いつもそればかり考えてしまう。
私にとって頑張るというのは嫌なことが伴う行動だ。
嫌なことをするのが努力だ。
だから私は努力という言葉が嫌いだ。
面白いを真っ向から潰して、無駄ではないが面白いに直接結びつかない。
就職のために必要な勉強、大学に受かるための勉強、欲しくもない、だが必要な資格の勉強、やりたくないけどしなくてはいけない。私はそんな勉強が大嫌いだ。
何事も浅いまま薄く広く知っていたい、そして気になったところだけ掘りたい。それが私だ。
でも世の中の人はどうやらそうじゃないらしい。
したくなくてもやるべきことをやって次に繋げていく。
それがこの世の中で優秀な人の条件なんだろう。
でも私は結果を得るための行動が嫌いだ。
行動の結果こそ私は知りたい。
自由に動き回って、すべての物事を自分の中で咀嚼し、自分なりに答えを出す。そしてその旅の過程で得た知識をポケットに貯めていき、ふとした瞬間に思い出して旅を豊かにする。
それが私の生きたい生き方だ。
でも不安なのだ。
前に先導者がいなくて、おそらくこうやって生きようとした人は負け犬のレッテルを貼られて嘲笑われているのを見ると。
私のこう生きたいは間違いなのだろうか。
甘えなのだろうか。
したくないことを死ぬほどしたくなくて、やりたいことだけやる。
そんな生き方、許されるはずがない。
きっとあとから後悔する。
そう頭の中で口々に、いいや私の理性なのか危機察知なのかわからない人格が何かあるたびにそう嘆く。
やりたくないことをやるから人は報われるのだと。
でももう私にはこの生き方しか残されていない。
それだけは確かだ。
あの日生き方に虚無という一つの答えを見つけてしまった時から、私はもうこの生き方しかできなくなってしまった。
だから一緒に見よう、私よ
人にとって苦労と言える事が私にとっては楽しいことなんていう幻想を。
そんな夢を見て私は今日も面白いを見つけていく。