絶望と軽蔑
私はもう疲れてしまった。
人に優しくすると必ず何かを奪われていることに気が付いてしまった。
優しくする方が馬鹿なのか?でも私は誰かに怒鳴ることも、非道に振る舞うこともできない。
できて気分が悪いと言って無口になり、誰ともかかわらないようにするだけ。
こんなの誰も気にかけなどしてくれないし、誰も関わろうとすることもできない。
私から距離を置いた、だけどもし誰かが走ってきて大丈夫?と言ってくれたならそれだけで私は救われる気がするのだ。
でも誰も気が付けなどしない。
優しいって言うのは嘘が上手ということなんじゃないかと思う。
自分がやりたいこと、したいことを全部胸の奥に押し込んで他人を優先し、必要とあれば身を削る。
それを世間では優しいと言ったり、お節介、馬鹿と言ったりするんだろう。
でも聞いてほしい。
ふと思ったのだ、もらった優しさを返しているのかと。
説教じみているとあなたは思っただろう。
私だってもらった優しさ全てに報いていられるとは思っていない。
ただ優しさをもらった人は誰かに優しくしろ、その言葉に違和感を覚えたのだ。
優しくしてくれた人には返さなくてもいいのかと。
優しくされた人は手頃な優しいを返して、満足するのだろう。
でも優しいに重さはない。
それがとても残酷だ。
どれだけ身を削っても、どれだけ手軽でもそれは”優しい”の一言で片付いてしまう。
バタフライエフェクトの逆だってありえるのだ。
優しいが必ず回をこなすごとに大きくなるとは限らない、裏切られることだってある。
そんな優しさを振りまかずにいられない彼らに、世間は馬鹿だと言うのだろうか。
あぁ他人から見れば馬鹿だ。自分も顧みずに優しさを振りまいた自業自得だ。
でもそれに取り入って優しい人を傷つけるのは必ず他人だ、優しい人本人じゃない。
それでも優しい人は相手に自分を投影して、助けなくてはという天からの使命のような言葉で人を助けようと走る。
優しさが罪ならば私はもうこの世界に絶望するしかない。
たくさんの人の優しさのおかげで私はここで生きている。
優しくしてくれた人にはどれだけでも報いてあげたいし、なんでも話をきいてあげたい。
そんな人たちを傷つけて、傷ついているのはお前が馬鹿だからだと嘲笑う人たちがいるこの社会を私は
—―心から軽蔑する。
私に優しくしてくれた方々、私を救った方々すべてに幸福を。