南方の軍人
ユーミンの「ESPER」をモチーフに短編小説を祖父母の戦争体験を絡めて書いてみました。
「離れてても、あなたの胸の中にいるのは何故?」
昭和19年東京。冬。
千代子は待っていた。
富雄が南方のパプアニューギニアの戦地に赴いてから早いもので2年が経つ。敏夫はもう9歳になる。食料の配給も年々少なくなって育ち盛りの息子に申し訳なくなる。
「お腹は空いてないかい?」と敏夫に千代子が聞くと、
「母ちゃん、大丈夫だよ、俺男の子だもん!」と気丈に答えてくれる。
今ある家は富雄が工夫して、二階建て木造家屋を杉並区に苦労して猫の額ほどの土地を買って自前で建ててもらった。親子二人、なんとか雨露は防げる。
ただ、やはり女の身一つでは心細いし、我が子を飢えさせたくない。
「あんた、早く帰ってきておくれよ…。もう限界だよ。」と一人千代子は呟く。狭いながらも、敏夫が2階の寝室に行ってからの空間は千代子には広すぎた。虚空に女の鳴き声が寂しく響いた。
その頃、富雄はパプアニューギニアのジャングルを放浪していた。
連合軍からの追跡からの逃避行であり、食糧を探しての徘徊でもあった。
「富さん、あそこに猪がいる!絶好期だよ、富さん!」と部下の政夫が言う。
富雄は、先ほどの家を建てたり、銃を撃てばほぼ百発百中で、車の運転も見事で自動車兵として、満州からパプアニューギニアと転戦していた。
「おう、静かにしていろ。ようし…そこだ!」と狙いを定めて一発平射すると、猪はドウッと倒れた。
「今日は富さんのおかげで猪鍋が食える!蛇やカエル、ネズミはもう飽きたよ。」政夫が言う。
南方戦線はとにかく飢えとの戦いだった。戦線が伸び、しかも連合軍に物資の補給船を叩かれて、食糧の補給が絶たれていたのだ。とにかく食う物がなく、米兵でも食べて腹の足しにしようかと政夫は思ったくらいだった。
実際、フグや伝染病に罹ったネズミを食べて亡くなった戦友が多数いた、恩給を考えて殉職と上官には報告していたが。
「今日はここらで野宿をして猪鍋とするか?」と富雄が政夫に聞く。疲れ切った政夫はニッコリとうなづいた。
日本とパプアニューギニアの時差はあまりないが季節は全くの反対だ。真冬の日本に比べて今は真夏である。遠くに南十字星が輝いている。日本からは見えないが、千恵子や敏夫は同じ空の下、星を眺めているのだろうと思うと、富雄はやるせない気持ちになった。
出征の日夕焼けの中、家を離れようとする富雄に
「父ちゃん、行かないで…父ちゃん!」と、公園の鉄棒にしがみついて泣く敏夫を見て、このまま息子を連れ去って何処かへ逃げてしまおうか、と思った。
ヒモじい思いを家族がしていないだろうか?千代子は気丈に家を守ってくれているだろうか?ゴロツキに家族が何かされていないだろうか?
「愛する為、誰もが持つ、聞こえる声が…。」
昭和20年東京。夏。
暑い夏だった。戦況は悪いが、憲兵が彷徨いている為、口が裂けても日本が負けるとは言えない。千代子は敏夫にも口を酸っぱくして、「日本が勝つのよ、そしたら父ちゃんが帰ってくる。三人で腹一杯白米をたべましょうね。」と言うと敏夫は唾をごくりと飲み込んで腹一杯ご飯を食べる事を想像する。その姿が千代子には堪らなく愛おしく思える。我が子を安心させる為の全くの嘘だった。市民の生活は著しく疲弊し、配給は途絶えている。千代子は理容師を営む妹の嫁ぎ先で散髪業をして何とか親子二人闇市で食糧を調達して戸口を凌いでいた。この戦争に勝てる訳が無い。
(富雄さん、早く帰ってきて。もうこの戦争は終わり。日本が負ける。)
千代子は念じる。
数日後、日本の二つの都市に未曾有の爆弾が落ちた。
パプアニューギニアは冬だったが、やはり常夏の南方のジャングルは暑い。ただ、藪蚊を気にしなければ寝るには困らなかった。満州で夜間に敵襲に備えて、監視当番をしていた時は眠くて立ったまま寝ていたが、上官にぶん殴られて起きたものだ。そのまま凍死しない為の優しさでもある。それに比べれば南方は快適であった。
連合軍の追撃が厳しくなったが、不思議とカンが働いて襲撃を避けられていた。虫の知らせというか第六感というか。千代子が耳元で囁くかの様に、ハッとして富雄は回避行動を奇跡的に繰り返した。
また、現地の人々に富雄は、家の修繕を手伝ってあげたり、猪や野鳥を銃で撃って仕留めてあげたり、と優しく接していた。
そうすると、期待していた訳ではないが、現地の人々が「トーアン(富さん)、ガイジンキタ、カクレル。」と教えてくれるのだ。
(極限状況でその人の身を左右するのは優しさではないか。)
政夫は心の中で思う。
富雄は自分に本当に良くしてくれた。米兵に追われて、もうダメだと言う時に富雄が助けに来てくれた、そのまま自分は逃げられる状況だったのに。連隊の中でも富雄はお人好しだった。配給の食糧を先輩に取られたり、イカサマのギャンブルで金を巻き上げられてもいつもニコニコしていた。上官に意味もなく殴られてもその姿は一向に変わらなかった。政夫はいよいよな事があったら身を挺してでも富雄の為になろうと思った、多分富雄はお返しは全く期待していないだろうと思いながら…。
「あなただけを、あなただけを…。」
昭和20年東京。夏の続き。
戦争が終わった。玉音放送がラジオから流れている。
千代子と敏夫は正座して、陛下の有難いお言葉の一言一句に耳を傾けていた。
「母ちゃん、足痺れた。」
我慢強い敏夫が言うからにはよっぽどなんだろう。
「もう我慢する事はないよ。さっさと足崩しちまいな。母ちゃんは父ちゃん帰ってくる準備を始めないと。」
この切り替えの速さが千代子の特徴である。富雄からの手紙や電報はここ一年全くといってないが、千代子にはあの人は生きている、という確信に近いものがある。何故かはわからない。感じるのだ。その姿を命の躍動を何万キロも離れた日本で感じるのだ。
「さて、あの人が帰ってきたら何を食べさせてやろうかね。塩辛いシャケの塩焼きが好きだったね。嗚呼、忙しい忙しい。」と周りの家々で終戦を憂う悲しみの声を吹き飛ばして駆け出す千代子であった。
富雄は現地の人々の家でうたた寝をしていた。政夫はもういない。敵兵に見つかった時、富雄を庇って凶弾に散ってしまった。富雄にはなんで自分を政夫が庇ってくれたのかぎわからなかったが、丁重に墓を作り葬った。部隊とは撤退戦で逸れてしまい、一人になり寂しかったが、現地の人々とさつまいも畑を耕したり、鍋を囲んだりして毎日を過ごすうちに孤独は感じなくなった。
政夫との思い出に耽っていると突然、可愛がっていた現地の若者が走ってきて、富雄に叫んだ。
「トーアン、センソー オワッタ!」
まだ、夢の続きかと思った。でも、現地の人々はスレていなくて嘘だとは思えない。
家族の元に帰れる!
千代子に会える!
成長した息子の顔が見れる!
富雄は小躍りして叫んだ。
現地の人々は、見た事もない富雄の姿にびっくりしながら、何か嬉しい事があったんだろうと皆笑顔で拍手をしていた。
「閃く予感に振り向けば、ベルが鳴る。」
昭和21年東京港。春。
(全く、帰って来るまであの人は何処をほっつき歩いてたんだろうね。)
千代子は独りごちた。右手には敏夫が手を繋いでいる。
(あの時、闇市で買ったシャケは母子で食べちまったよ。昨日また闇市であんたの好きな塩っ辛いシャケを沢山買ってきた。毎日食わしてやる、あたしがヒモじい思いをしてもだ!)
ギュッと敏夫の手を千代子が握り締める。
「母ちゃん、痛いよ!」と敏夫に言われて、ハッとして千代子は手を緩める。
ボロボロに傷ついた復員船が小型船に曳航されて、懐かしい日本の港にたどり着く。
ドッと、綻びた軍服を着た男たちが港に溢れてかえる。
「富雄さん、あんたアンタ!」と千代子は叫んだが富雄は見つからなかった。その時、「父ちゃん、父ちゃんだっ!とうちゃん〜」と敏夫が走りだしたので、千代子はその後を追った。
真っ黒に日焼けした顔がそこにあった。
待ち焦がれていた夫の顔だ。
息子が富雄の足にしがみついた。
「大きくなったなあ、敏夫。元気だったか?」
富雄は破顔した。
千代子は夫に会うまでは、実はずっと手が震えていた。震えが止まらなかった。夫が生きている確信があった。自分は戦争を終わらせたんだ、強く念じる事によって、とまで思っていた。でも、震えが止まらなかった、夫の顔を見るまでは。
千代子は富雄に抱きついた。
「何年もタダで海外旅行して、ほっつき歩いて何やってたのさ!現地の女と浮気して外子を作ってないだろうね!」と富雄に口付けた後、こう毒付いた。
富雄はやはり自分の妻は千代子しかいない、と思った。
一年後直ぐに、次男が生まれた。その子は政夫と名付けられた。
「あなただけを感じることが、私の…」
平成XX年代々木。火葬場。冬。
祖父の葬式。
火葬場の煙突から白い煙がたなびいている。
空は抜けるように青い。
周りで親戚が泣いている。
お前はなんで泣かないんだと、親戚になじられる。
僕は、茫然と立ち尽くす。哀しいという気持ちが湧き上がってこない。ただただ非現実的な夢の中にいるようでまるでリアル感が無い。心が何も感じない。
茫然自失とはこの事なんだ、と僕は自覚する。
10歳で母が亡くなってから祖父母に育てられて、祖父の富雄にはとても可愛がられた。祖母にも溺愛されたが、祖父は底抜けに明るく優しい人だった。生きていれば、めっけもんのような人だった。
祖父の葬式から半年がすぎた夏、
まだ、祖父を亡くした心の傷が癒えない僕は外回りの営業をしていた。
ITシステムの提案営業だ。暑い。東京はフェーン現象やエアコンの吐き出す熱風でまるで熱帯雨林地区だ。
祖父が庭で育てていた、バナナやパイナップルの木々を思い出す。南方のジャングルを思い出していたのか庭に密集して生い茂っていた。固かったりすっぱくてその実は食べられたものではなかったが。
暑い。スーパーのフードコートでアイスコーヒーでも飲んで涼もうとすると、お客さんでいっぱいでほとんどの席が空いてなかった。
相席で探してみると、後期高齢者と思しき白髪で黒眼鏡の老人の席が空いていた。
「ここ、座っていいですか?」
「どうぞ。」とその老人は笑顔で許可してくれた。
「暑い中大変だねー、仕事は何してるの?」
老人は気を使ってか、世間話をし始めた。
「営業です、ITシステムの。あ、コンピュータを売ってます。」
「あ、そう。ハイカラだね。」とその老人は和かに話す。
(話合わせた方が良いかな)、とIT業界の話しよりはと僕は思い、(そうだ、祖父の戦争の話しをしよう。)と話し始めた。
「うちの祖父は、満州から南方のパプアニューギニアに転戦して散々ジャングルを駆け回って、無事復員したんですよ。」
「そうなんだ。私はソビエト連邦(今のロシア)に抑留されたけど、なんとか日本に帰国できたが、飢えと寒さが酷かったよ。南方は暖かくて良かったろう。」と老人は和かにされど戦争での厳しい体験を滲ませて僕に語った。
「わしは士官学校出だったから、ある程度安全な戦場を渡って来たけど、君のお祖父様は何処を出てたの?あの戦争を生き残るには、学歴も重要だった。コネがあれば前線に行かせない配慮があったみたいだし。」
と老人は話に興味をもち、前のめりになって話しをし出した。
「祖父は貧乏百姓の出で、学校の弁当は毎日梅干しだけの日の丸弁当だったそうです。ただ、誕生日に弁当の蓋を開けたら、塩ジャケが一切れ入っていたそうです。あれは美味かったな、と祖父は語っていました。あ、学歴は中卒でコネなんか無かったはずです。」と僕が答えると老人は訝しげな顔をし始めた。
「学歴もコネも無くあの南方の殲滅戦を生き残ったのかね、君のお祖父様は?」
「はい、ただ部類に優しい性格で現地の人々に優しくして敵から匿ってもらったり、復員してからは親戚に金をだましとられては祖母に怒られていたそうです。」と僕が答えるとますます老人が首を捻り出した。
「優しいから、南方のあの激戦区を生き残ったって?いや、何か資格があったんじゃないかな?通信兵だったとか看護兵だったとか。」
そこで僕は、ポンっと手を叩いて閃いた。
「あ、そういえば当時祖父は自動車免許を持っていたので満州とパプアニューギニアの戦場では自動車兵だったと言っていました。だから、生き残れたんじゃないですかね、運転上手かったし。」
老人は最後にますます首を捻ってこう言った。
「いや、自動車兵が真っ先に命を狙われるんだよ。目立つからね。」
僕が何故祖父が生き残れたかを聞こうにも、その時すでに南方の軍人はその妻ととも南十字星になった後だった。
おしまい
ギリギリの世界で生死を分けるのは、優しさや愛や人を思う心ではないか、という思いから書きました。
それが、念やサイキックであってもええじゃないか、と思います。映画「インタステラー」の様に愛もエネルギーの一つではないか。また、ラストの書きっぷりとしては、名作「南から来た男」を恥ずかしながら目指しました。(笑)