Ⅰ タイヤの下(Unterm Reifen)
高校を卒業して遠隔地の大学に進み、一人暮らしの解放感に浸っていた。車の運転免許を取得するため、大学キャンパス近くの自動車教習所に通った。その土地では教習所のことを、「自練」と呼ぶ。自動車の運転を練習する所という意味なのだろう。
「守尾くんは、これまでも無免許で運転したことがあるね」
最初の実技教習で、指導員に指摘された。まだ十八歳だったし、免許取り消しになった経歴を持つわけではないと、指導員は知っている。
「はあ。動かしてみたことはあります」
あいまいに答えた。父親の車を勝手に持ち出したり、高校を中退して働く暴走族まがいの友達の車を散々運転させてもらったりしていた。
それでも、高速で走行している状態から減速する際はクラッチペダルより先にブレーキペダルをポンピングで踏むことや、坂道発進でのサイドブレーキの使い方、縦列駐車でのサイドミラーを見ての勘所は、教習所で教わって目からうろこの落ちる思いがした。ステアリングホイールを内側から握る「逆手」の癖も矯正された。
クラクションを鳴らすことが許されるのは危険回避のためと《警笛鳴らせ》の標識がある場所のみと学科教習で知り驚かされた。ステアリングホイールやペダルの「遊び」の存在などそれまで考えたこともなかった。
そうこうしながらおれは、なんの足踏みを強要されることもなくスムーズに卒業検定の日を迎えた。
検定は、公道の決められたコースを走る。助手席に技能検定員が座る。その日になって振り分けられた班の最初がおれだったからだろう、二番目と三番目の教習生が、後部座席に乗り込んだ。二番目、三番目にコースを覚えさせるという目的のはずだ。
教習時と違って検定員たる指導員は、無言を貫く。
「右よし、左よし。後方よし」
定められた手順に従い声に出し安全を確認し、おれは、検定用の車を教習所敷地内から外の公道に向け発進させた。
助手席の検定員も後部座席の教習生も無言のままだ。おれは検定員を横目で見ていたが、手にしたクリップボードになにかを記入したりチェックしたりの様子はない。減点なしで合格だろうとおれは楽観した。
コースを巡って教習所に到着する手前の、片側二車線の道路はやや渋滞している。おれは外側の歩道寄り車線を走行していた。何台か前を走る車が、なにかを避けるように内側の車線にはみ出しながら進んでいく。直前の車が同様に車線をはみ出させたのを見て分かった。路上でネコが轢かれて死んでいるのだ。
黒いネコだった。車のタイヤに押しつぶされたのだろう、体は平たく伸びている。流れ出た体液のような物が、乾いて路面にこびりついている。
車線を変更するべきか否か、おれは迷った。それまでのような教習ではなく検定の最中だから、助手席の検定員に相談していいものかどうか分からない。検定員もなにも言わない。
迷ったまま、ステアリング操作をせずアクセルも緩めず進んだ。左前輪と左後輪がなにかを踏んだ感触が、ステアリングホイールにも車両全体にも伝わった。
ごくりと唾をのみ込む音が、助手席から聴こえた。検定員の視線は変わらず前方を向いている。なにも言わないのは、受験者たるおれを動揺させないための配慮なのだろう。
後部座席の教習生がどんな顔をしているか、おれはルームミラー越しに確認を試みた。二人とも、自分の乗っている車が死んだネコを轢いたと分かっているはずだが、無表情だ。その向こう側のリアウインドウ越しの後続車は、フロントガラス越しの前の車と同じように、車線を右に大きくはみ出し死んだネコを避けている。
「守尾くん、合格。右折の時の後方確認が、ちょっと怪しかったよ。気を付けて。試験場での筆記もがんばってね」
全員の検定が終わり、検定員に言われた。死んだネコを轢いたことには触れられなかった。検定員も、なんと言っていいか分からなかったに違いない。後部座席の二人はどこの誰なのか知らないから、その後、顔を合わせることも、ネコの話をすることもなかった。
(「Ⅱ 男の誘いをかわす術」に続く)