1-9 遺された意志
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母は椅子にまっすぐに座り、こちらを見ているその瞳が光を時折、強く反射する。
「あなたのお父さんは、学者なのよ。多くのファクトとその関係性について学んでいた。私と出会うよりずっと前、十五歳の時に洗礼を受けて、すぐに精霊教会に加わったのよ」
ファクトの大半はささやかなもので、日常のほんの手助けにしかならない。
今の時代、魔物との戦争状態が続いているがために、戦闘に役立つファクトは重宝されるけど、実際のファクトの半数以上は、実戦的ではないというのは、俺も知っている。
つまり、父のファクトは戦闘向きではなく、それよりは学術に向いていた、ということになる。
「えっと、じゃあ、なんでこんな辺鄙な場所に流れてきたの?」
そう問い返すと、母は笑うしかないというように、かすかに口元を緩めた。
「どこの集団にも、派閥争いはあるのよ。利権もね。お父さんはそれに上手く加われなかった。実際には、加わらずに傍観していた、と話していたわ。でも傍観していても、弾き出される人は弾き出される」
「精霊教会に、追い出された?」
「そういうことよ。私はお父さんと一緒に、聖都を出たの」
聖都!
それは誰もが知っている街の一つだった。教会領の中心地にして、精霊教会の中枢だ。
そんなところで働いていたとは、どうやら父は相応に優秀だったらしい。
ただし、人間関係、駆け引きみたいなものは苦手だったようだけど。
それだって、別に悪いこととは俺には思えなかった。むしろ学者らしいとすら感じたほどだ。
たとえ、その父の選択によって、俺や母が苦労していても、父の選択や生き方は、間違っているとは思えなかった。
「あなたのお父さんがルスター王国を選んだのは、この国の西域に知人がいるから、と言っていたわ」
「え? 西域?」
今日はとにかく、訳の分からない話ばかりだ。
西域は山岳地帯のことを指すのだけど、そこは騎士領にはなっていない。
昔から、その一帯で遊牧を営んで生活するハガ族の領域なのだ。
国境などはないけれど、ハガ族は自治を許され、交易も行い、独自にまとまりを持っている。
「ハガ族に知り合いがいたってこと?」
「そこよりもさらに西らしいわ」
それって、と言葉が漏れたが、それ以上は続けられない。
西域の山岳地帯よりも西域となると、人が住む場所ではない。
そこは峻険な山々が密集した地帯で、「深き谷」と呼ばれている。
そして深き谷には、そこでのみ生きる存在がいる。
「巨人たちが住む辺りに、その方はいるらしいわ」
母の言葉に、もう何も言い返すことはできなかった。
深き谷とは、巨人たちの国なのだ。
数千年を生きるという巨人は、すでに人間社会とは関係を持っていない。巨人と人間が争った時代も遥かな過去にはあり、しかし今は争うことすらない。
そもそも巨人の数が減っているというし、巨人たちは人間が踏み込めないような山岳地帯の奥深くに隠れているということがまことしやかに言われる。
もっと俺が幼い時、大人たちの話として、一部の人間が深き谷に定住しようと試みたが、結局は一人も生きて帰ってこなかった、と聞いたこともある。
つまりルスター王国の西域のさらに西域、深き谷は、人が住める場所ではないのだろう。
「本当にその誰かがいるって、お母さんは信じているの?」
母は小さく、しかし確実に頷いた。
「まさかお母さんは、俺にその誰かのところへ行け、って言いたいわけ?」
「あなたのファクトを知るためよ」
「別に」舌がもつれた。「ファクトなんてどうでもいいよ。何の役にも立たないファクトと思って、放っておくから」
そう言った途端、母の目が真剣な色を帯びた。
いや、強い気迫のようなものが、唐突に表出したのだ。
「ファクトは誰にも等しく与えられるものではない。お父さんは何度もそう言っていたわ。だから自分がもし死んだとしたら、自分の子供にはその身に宿すファクトを開花させて、人の役に立つように話してやってほしいって、そう言っていたのよ」
「草を育てるファクトが、役に立つわけないよ」
「本当に? もっと別のことができるんじゃない?」
「知らないよ……」
無性に父と話したくなった。
父が知っているだろう知識で、俺の体に宿っているファクトの正体を突き止めて欲しかった。わからないとしても、二人で色々と確かめて、可能性を見出したかった。
でも今、父はいない。
母に何を言っても、仕方がない。それは確かだ。
俺が選ぶしかなかった。
ファクトのことは忘れて、平凡な小作人の男としての人生を選ぶか。
それとも、ファクトについて知ろうと努力するか。
知ろうと努力したところで、何かが約束されているわけでもない。それ以前に、西域にいるという誰かに無事に会えるとも限らないのだ。
そう、西域に行くには、長い旅になる。路銀もいる。そもそも一人で踏破できるのだろうか。
「一年、待ってちょうだい、リツ」
母の顔が穏やかな、いつものものに戻っていた。
「その間に、決めればいいわ。私もそれまでに用意を整えます」
いいわね? と確認され、俺は黙って頷いた。
それ以外、できることはない。
これから自分が考え、悩むことは目に見えていた。
頭に浮かんだのは、ユナのことだった。彼女も考えたし、悩んだだろう。でも彼女はすぐに決断した。そこが俺とは違う。
ユナは立派だ。行動力があるし、決断力がある。
負けていられないけれど、俺は彼女ほど強くはない。
稽古はもういいの? と母に訊ねられて、続きをやるよ、と外へ出た。続きも何も、今日の稽古は終わっていた。だからほとんど逃げたようなものだ。
外へ出ると、さっきのまま、巨大な木のように成長した花が、そこにあった。
転がっていた棒を拾い上げて、俺はそれを振った。
何度も何度も、振り続けた。
なかなか心の中のモヤモヤとしたものは、振り払えなかった。
(続く)