2-30 一緒に断ち切れ
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宿に飛び込むと、番頭らしい男性が驚いていた。
部屋に戻ると、ジューナは一人で窓際にある椅子に腰掛けていて、こちらを目を丸くして見ていた。
夕日に照らされた顔が笑みを浮かべる。
その皺が変に深く見えて、ジューナの年齢が意識された。
傭兵としては年を重ね、強さよりも弱さ、気丈さよりも、そう、弱気が見える。
「無事ということは、うまく進んだか」
ジューナはそう言って、わずかに座っている姿勢を変えてこちらに正対した。
「その、コルトという人と話して……」
そこまで言って、口を噤んでしまったのは、目元が熱くなったからだ。
どうしてだろう。
こんな感情は今まで、ほとんどなかった。
左目は眼帯に覆われている。右目を、手の平でぐっと拭ったけど、涙は後から後へと、止まることがない。
言葉を文字どおり、絞り出した。
「神鉄騎士団に、参加します」
そうか、とジューナが言った。その顔を見ることが、私はできなかった。
「そうだ、それがいい。お前は紫紺騎士団に縛られるのも、俺たちのような小さな世界で生きるのも、似合わないと、俺はそう思っていた」
ジューナが言ったことが、思い出された。
今じゃない。
ルスタピアに向けて、ミテアを出る前だ。
私は自由になるべきだと、彼は言った。
まさか、今の状況を予想していたわけじゃないだろうけど、きっとジューナの中には、私が国が運営する軍という場所には馴染めないという予感があったんだろう。
もしかしたらそれは予感なんて曖昧なものではなくて、実感だったかもしれない。
一ヶ月以上の間、私を鍛え上げたのは誰でもない、ジューナなのだ。
彼の理解は、きっと正しかった。
私が紫紺騎士団の入団試験で、兵士を相手に手を抜いて媚びを売るようなことはしないと、わかっていたんだ。
私が本気で、試験をするものを打ちのめして、少しも悪びれず、どうだ、という顔をすると、きっとわかっていたんだろう。
そうなれば、私の立場は元より、ジューナの立場も、もっと言えば藤の傭兵隊の立場も危うくなる。
私はあまりにも傲慢だったかもしれない。
自分のこと、自分の技量と力だけを頼りにしていた。
「もっと俺たちを頼れよ」
ジューナがそう言ったことで、私ははっきりと、自分の未熟を知った。
どこまでいっても他人の存在と協調しようとせず、どこまでも独立独歩で先へ進もうとする。
故郷を出た時から、そうなのだ。
あの親友を、幼馴染を、誘うこともできた。
あの別れの場面より前に、相談して、話し合うことだってできた。
でも私はそんなことはしなかったし、考えもしなかった。
自分の面倒は自分で見れる。自分の力だけで世を渡っていくんだ。
その思いだけだった。
藤の傭兵隊に拾われても、シグや、ルガのような仲間に恵まれても、どこかで本当に信頼はしなかった。
ルッカのこと、カンのこと、イクのことが、どうしても忘れられない。
私が巻き込んで、私の勝手で、命を落とした人たち。
彼らがいることで、私はどこか、周りと距離を置いたのか。
今、それを放り出すように、ジューナは私に言ったのだ。
無責任かもしれない。自分勝手で、恥知らずかもしれない。
だって、人が死んでいる、殺しているのに。
それなのに、すっかり忘れて、本当の仲間を、得ることなんて許されるのか。
「お前は間違ってはいなかったな、ユナ」
ジューナの声は、夕日が差し込む部屋の空気を、静かに震わせた。
「俺はお前にある危うさに気づいていた。ファルナもだろう。どうにかしようと、技を極めさせた。お前はそれについてきて、想定以上の力を身につけた。努力は、経験は、お前を肯定したよ。だから今、お前はきっと、本当の意味で自由になった」
どう答えることもできず、口からはみっともない嗚咽だけが漏れていた。
語りかけるジューナは椅子から立ち上がろうとしない。
「ファルナには、俺から話しておく。自分の道を自分で決めた。道を決める力を身につけた。そういえば、惜しむだろうが、ファルナもお前の今後に何も言うまい。藤の傭兵隊と紫紺騎士団の関係は気にするな。どうせ元から、兵隊と傭兵なんだ、大して親しくもない」
はい、はい、と声を出そうとするけど、やっぱり上手く声にならなかった。
ジューナは私に近づかず、もう黙って、ただそこにいた。
私はやがて泣き止み、その時には何度も何度も繰り返し目元を拭ったせいで目の周りがヒリヒリとしていた。
呼吸を整えて、座ったままのジューナに、私は一礼した。
「ありがとう、ございました」
気にするな、と返事があった。
顔を上げると、闇に沈んだ通りを背景にしていたのが、街灯に火が灯され、ジューナの顔が完全に逆光になった。うっすらとした光量の中に見えたジューナの表情は、それで消えてしまった。
私はもう一度、頭を下げた。
「行け、ユナ。振り返る暇はないぞ。神鉄騎士団の一員として、頑張れよ」
また涙がこみ上げたけど、声は漏らさなかった。
顔を上げて、目元を袖で無理矢理に撫でて、「いつか、また」とだけ声にして、私は部屋を出た。
ジューナは何も言わなかった。扉が閉まり、私は足早に廊下を進んだ。
宿のものが驚くのも構わず、私は外へ出た。
旅の荷物は部屋に置いてきてしまった。ジューナは困るかもしれないけど、ジューナが届けてくれることを期待している自分に気づき、少しだけ、私は自分を叱った。
もうジューナとも、ファルナとも、縁は切れた。
私は私として立つし、そのそばにいる神鉄騎士団の傭兵たちのことを、考えなくてはいけない。
ジューナはきっともう、私の前には現れない。
その代わりに、新しい仲間が、そばにいるはずだ。
悲しみと後悔も、一緒に断ち切れ。
そうジューナは言いたかっただろう。
通りを走る。さすがは王都だけあって、明かりが多く、まるで昼のように明るい。人通りも多かった。走る私を、人々は自然に避けていく。
神鉄騎士団の建物が見えてきた。
玄関に気だるげに寄りかかっている小さな人影が見えた。
あの女性が待っていてくれた。
玄関を照らす灯りの中で、彼女がちょっとだけ口元を動かした。
笑ったようだけど、好意的なのか、それとも皮肉げなのか、嘲笑ってるのかは、何もわからない。
でもここで、待っていてくれたんだ。
私は灯りの中に駆け込み、息を整えて、声を張った。
「これから、よろしくお願いします!」
女性は今度こそははっきりと不快げな顔をして「うるさい」とだけ言った。
(続く)