1-6 朝日の中で
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夏の盛りの早朝、俺は一定のペースで山の中を駆け巡っていた。
すでにコースが定まって長い時間が過ぎているので、獣道のように俺の走る道筋がついている。
木の根を飛び越え、大きな岩を回り込み、倒木の下をくぐる。
木々の間を抜けたら、河原に出て、そこに沿って進む。
「おーい! リツ!」
急に声がして、俺は足を止めた。
頭上から、と振り仰ぐと、川が遥かな時間で作った崖の上に、立っている人物がいる。
まだ夜明け間近という頃合いで薄暗いのだけど、それがユナだとすぐにわかった。
こちらでも手を振り返し、道筋を変えて崖になっている岩を這い上がった。崖と言っても緩やかな傾斜だし、張り出している岩が多いので特に技能は必要ない。
「まるで猿みたいじゃない」
崖を上がりきった俺を出迎えて、ユナが口元を隠して笑う。そういう所作は、まるでお嬢様みたいだ、と言ってやろうかと思ったけど、それを言うより前に、気になることがあった。
「どこかへ出かけるわけ?」
ユナの服装は、稽古着ではないし、屋敷にいるときのちょっとした贅を凝らした服装でもない。
あまり見たことはないが、旅装、に見えた。
しかし周りに人はいない。荷物も持っていない。
では旅装ではなく、そういうオシャレ、ということだろうか。
そんな疑問が即座に俺の思考を巡ったが、ユナははぐらかすように「似合う?」とその場で姿勢を変えている。
「まあ、似合うけど、どういう風の吹き回し?」
こちらも遠回りに質問できる辺りに、長い友情の一部が見え隠れする。
ただこの時、ユナはその友情で育まれた近しさを、わずかに嫌ったようだった。
「どういう風の吹き回しもないわよ。ちょっとここまで遊びに来ただけ」
嘘だ、というのはわかる。
でも、どうして嘘をつくのか、本当は何をしているのか、それがわからない。
瞳をじっと見ようとしたけど、ユナはそっぽを向いていた。
「もうすぐ夜が明ける」
急にそう言われて、彼女の視線を追うと、山の木々が小川のせいで切れている場所、その向こうに遥か彼方の稜線が見える。
その稜線が紫から、あっという間に白く染まっていく。
綺麗、とユナが呟いた。
山際から太陽が覗いた。眩しいほどの鮮やかな夜明けだった。
「まだ走るのよね、リツは」
そういうユナの方を見ると、彼女はまだ朝日を見ていた。朝日も美しいけれど、ユナもまた美しいことを、意識しないわけにはいかなかった。
今まで、そんなことを思ったことは、ほとんどなかった。
幼馴染の中の幼馴染で、誰よりも親しい、姉とも妹とも言えないけど、そういう存在だったのだ。
俺はユナともっと話すべきことがあるのではないか、という疑問が刻々と心を占めていくのを感じた。
訓練用の棒を向けあって剣術を高める以上の、もっと別の何かが、二人の間で交わされるべきだったかもしれない。
それはあの、五歳の日の前からするべきことだったのか。それとも十歳のあの旅の剣士にあった時、もしくはその前に、しておかなくてはいけなかったのか。
そして、十五歳を迎えた今は、もう手遅れなのか。
「リツ?」
ユナがこちらを見ていた。
大きな瞳がキラキラと光を反射している。
「まだ走るよ。習慣なんだ」
そう答えながら、こんな話をしていていいのか、と頭の中で何かが叫んでいる。
その叫びは彼女には決して聞こえない。
嬉しそうにユナが笑い、「リツは真面目だしね」と言って不意に歩み寄ってくると、ポンと俺の肩を軽く叩いた。
「まあ、頑張りなさい。またね」
目の前でユナが身を翻した。
そう、彼女は髪の毛を伸ばしていて、稽古の時はいつもひとつに結んでいたけど、それ以外の時は下ろしている。
今の彼女は、髪の毛を一つに結んでいた。
そんなところに、彼女が普段と違うということを見出すのは、変だろうか。
ユナが離れていく。
俺は岩場に立ったまま、彼女の姿が森の中に消えていくのを見送っていた。
まだ迷っている、何かに後ろ髪を引かれている自分を無視するために、俺は崖を素早く降りて、元のコースに戻って走り出した。話をしていた時間を取り戻すために、普段より早いペースで駆け抜け、朝日の中、一度、家に戻った。
母は先に食事をしていて、普段より帰宅が遅れた俺を「何かあったの?」と確認してきただけで、叱りはしない。そういう人なのだ。
その母に、ユナと会ったことを話さなかったのは、何故なのか。
崖の上にいたユナの服装や髪型、瞳の光、そんな全部が、俺に何かを示しているのは、考えすぎか。
「ちょっとね」
それだけ言って、俺は急いで食事をした。
母と二人で畑に出て、ひたすら農作業に打ち込んだ。若い者が集められて、山を切り開いていたのは一ヶ月前で、今はどうにか棚田を作ろうと試行錯誤していた。
地面を掘り返して岩を取り除いたり、棚を作るための石組みに使える石を運んだり、とにかく力作業だった。
十五歳になる小作人の息子は他に二人いて、一人がストロングのファクトを受けたので、その剛力ぶりには目を瞠るものがある。俺ともう一人は負けじと必死になったけど、あまりにも力に差がありすぎた。
昼食が済んだ頃、馬が駆けてくるのが見えた。
小作人の中でも実際の仕事を取り仕切るリーダーが、そちらへ駆けていく。馬に乗っているのは遠目に見て、レオンソード騎士家の使用人のようだった。服装が小作人や商人とはまるで違う。そもそも馬に乗っているのだ。
俺は作業へ戻ろうしたが、すぐに小作人のリーダーがやってきて、「ここにいるもので、ユナさんを見た奴はいるか?」と全員を見回した。
視線が俺で止まるが、反射的に首を横に振っていた。
そうか、とリーダーは使用人の方へ戻っていき、使用人はまた馬で駈け去った。
その日の夕方、俺との稽古にユナはこなかった。
そして母が、ユナがどこかへ消えてしまったらしい、と言ったのは、一人で稽古をして家に戻った時だった。
(続く)