1-41 攻防
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オー老師はジュンとイリューのことを聞いても「そうか」としか言わなかった。
ジュンとイリューの帰還の二日後、昼間に稽古をしているところへ当のジュンがやってきた。戻ってきた時とは別人のように、笑顔になっている。
「お久しぶりです、老師」
「死ななかったらしいな」
それだけがオー老師の返答で、しかしジュンが俺と老師の間に割って入り、何かオー老師と話し始めた。酒瓶はまだ二つしか空になっていないので、話している間に昏倒することはなさそうだ。
ちらっとこちらをジュンが見て、また話に戻る。
俺のことを話しているのか?
じっと見ているうちに二人の会話は終わり、オー老師が置いてあった酒瓶を手に取り、フラフラと離れていった。食堂の方へ行くようだ。
それを見送る俺の方へやってきたジュンが、「ついてきて」と言って俺の肩を叩いた。そのまま先に立って歩き始める姿勢なので、俺は立ち尽くしているわけにもいかず、後についていった。
向かった先は武器を手配できるところで、ここでは特注品も少量ながら扱うが、大抵は量産品を安価で提供するようだった。
ジュンがそこにいる係りの者に身分証を見せると、何か注文をつけ、係員はみるみる渋面になった。
武器のせいで死ぬなんでつまらないでしょ、とジュンが言っているのが聞こえる。
結局、係員は奥へ引っ込み、一振りの刀を持って戻ってきた。それが台に置かれ、また係員は奥へ。戻ってきた時には具足の一部を持っていた。手甲のようだ。
ありがとう、とジュンが礼を言って、銭を何枚か投げ渡す。係員はまだ苦々しげだった。
俺の手元にジュンが刀と手甲を押し付けてくる。
「これを使いなさい。大量生産品だけど、今使っているものよりは悪くない品よ」
はあ、と言いながら、手元の手甲を見てみるが、前と大差ない。
「リツ、オー老師はあなたをおおよそ認めている。私はそれを信じる。ただ、イリューはあなたが黙らせなさい」
いきなり言われたので、どういう意味か、すぐには測りかねた。
認めている、ということは、傭兵として、ということだろうか。それをジュンも認めて、えっと、イリューを、なんだって?
行くよ、とまたジュンが先に立つ。
向かう先はすぐにわかった。亜人たちが集まっている場所だ。
亜人たちが立ち話をしたり、卓を挟んで飲み食いしたり、何かの盤を挟んでその上の駒で遊んでいる。もちろん、剣術の稽古をしているものもいる。
イリューは少し離れたところで、座り込んで瞑目していた。
「イリュー」
ジュンが声をかけても、イリューは動こうとしない。
構わずにジュンが言葉を重ねる。
「リツを戦場へ出す。私とあなたでフォローする」
うっすらとイリューが目を開いた。しかし瞳はこちらを見ていない。言葉もない。
「無駄に死なせたくはない」
「周りに面倒を見られる歳でもあるまい」
やっとイリューがそう言った。ジュンは鼻を鳴らした。
「あなたはもう一〇〇年も前に大人になったかもしれないけど、彼はまだ二十歳にもなっていない」
「人間の未熟さなど、論ずる価値もない」
「その未熟な人間を守る度量もないわけ?」
ユラッとイリューが肩を揺らした。
反応できたのは、何故だろう。
俺は抱えていた手甲と刀を手放し、背を逸らしていた。
鼻先を切っ先が走り抜ける。
転がり、姿勢を整えようとするが、イリューがすぐそこに立っている。
彼の長刀はすでに鞘から解き放たれている。こちらは刀を抜く間がない。
攻撃の気配。
半身になる。紙一重で落雷の一撃をそうして避けるが、切っ先が飛燕となる。
膝を折る。首を傾げる。
頭上を刀が走る。
転がり、そこでイリューは動きを停止させた。
俺は目の前にいるイリューに集中した。
音は消えた。
景色も、よく見えない。
汗も止まる。
瞬きも、極端な集中で停止。
イリューは時間を使うつもりはない。
踏み出してくる。滑るような足の送り。
遅い、と思った時には速い。動き自体が速いのではない、こちらの目測が乱されている。
そういう足の運びなのだ。
気づいた時には、間合いはない。
刀が翻り、俺の首を狙う、と見せかけて胴を斜めに切り下げる。体を捻る。すでにボロボロの服が裂ける。
鋭い痛み。しかしやはり集中が痛みを痛みと理解させない。
反撃は、できない。
イリューの本命の一撃。
地に触れる寸前で切っ先が翻り、頭を狙ってくる。
きっと防ごうとすれば、狙いを変えて胸を引き裂いただろう。
俺の姿勢は乱れている。
完全な回避は不可能。
受けることもできない。
なら攻めるだけか。
決断も何もない。
居合の姿勢を作る余地はない。
左手で鞘の鯉口を握り、鞘ごと帯から引っ張り出すように前に突き出す。
柄頭が、イリューの腕に触れる。
反動で俺の姿勢がさらに乱れる。
その乱れを利用して、転倒する。
転がり、起き上がったとき、俺はまだ生きていた。
イリューが不機嫌そうに、刀を下段に構え、こちらを見ている。
「不愉快な技だ」
吐き捨てるようにそう言うと、その姿が掻き消えた気がした。
牽制に惑わされただけだ、人間が消えるわけがない。
右へ目をやり、左へ目をやったのは、本能的なものだ。
その死角から死角を巧妙に辿って、ほんの数瞬の間にイリューは間合いを消したのだった。
刀が迫ってくる気配はあっても、やっぱり視線が追いついていない。
本能のままに体を逃がそうとしたけれど、視界の隅で、こちらの首へ致命的な一撃を与えようとする刃が刹那だけ、見えた。
避けられない。
妨害もできない。
反撃もできない。
死んだ、と思った。
目の前で火花が散った。
「やりすぎ」
イリューの刀を受け止めたのは、ジュンの剣だった。
亜人が冷ややかな視線を向けている。
「戦場で死ぬ誉れをこの小僧に与える気か、ジュン」
「相応の才能があると私は見た。老師もね」
「あの老人も不愉快だ」
甲高い音を上げて、しかしイリューは刀を引いた。二人の傭兵が同時に鞘へ得物をしまった。
イリューは強い視線で俺を睨みつけてから背を向けると、元の位置に戻り、座り込むと瞑目した。黙想しているというより、何かに祈りを捧げているような気配だと、やっと気づいた。
行きましょう、とジュンが俺の肩を叩いて、イリューの前から離れた。俺は地面に落としていた新しい手甲と刀を拾い上げた。その段になって、左胸を切り裂かれていることに気づき、思わず呻いていた。着物は赤く染まっている。ただ、傷口を縫う必要もないだろう。
そのことに気づいていないようなジュンはどんどん先へ行ってしまう。駆け足で追いつくと、その背中が「忙しくなるわよ」と言った。
「俺を、戦場へ連れて行ってくれるんですか?」
「もちろん」
くるりとジュンが振り返る。
陽気な口調だったが、表情は獰猛な獣のようだった。
「生きるも死ぬも、あなた次第よ」
俺はただ頷いた。
(続く)




