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傭兵は命を散らす  作者: 和泉茉樹
第一部 彼の別れと再会
38/213

1-38 呼吸


      ◆


 オー老師は食堂で酒瓶を三つも調達し、ついでに飲みかけの一本も加えて、抱えるようにして外へ出た。

 俺はいつもジュンと稽古をしていたところへ老人を連れて行ったが、その間も老人はぐちぐちと俺に何か説教のようなことをしていた。

 剣術に対する心構えを説いているようだが、発音が時折、曖昧になり聞き取れない。

 それでも稽古の場所に着くと、彼はそばに酒瓶を並べ、杖代わりでもある剣を構えた。

「さあ、若造、いくらでも打ちかかってこい。真剣でな」

 この老人が正気なのか、本当に大丈夫か、不安に感じながら刀を抜いた。

 昨日のこともある、と思った時には、ゆらりと老人が間合いを詰めてきた。

 詰めるなんてものじゃない、目の前にいる!

 いつの間に、と思う間もなく、オー老師の手が俺の手首を掴み、掴まれたと感じた時には捻られている。

 そばで見ていれば、その鮮やかさに感嘆の声を漏らしただろう。

 手首を捻られただけのはずが、俺の両脚が地を離れている。

 腕が引っこ抜かれるような感覚があり、次には体は宙に舞い、背中から地面に落ちていた。

「素人ではなかろう。少しは気合いを見せんか、気合いを」

 起き上がって刀を構えようとしたが、また間合いを潰され、横へ身を逃がそうとしたところへ、足元に剣が差し込まれる。

 足がもつれたところへ老人が俺のわき腹を蹴りつけ、今度こそ転倒する。

「素人の方がマシだな」

 もう一度、立ち上がった俺の前で、老人がふらふらと揺れている。

 こんな酔っ払いに手玉に取られるなんて、俺はどうしたんだ?

 まるで本当に、俺が素人みたいだ。

「いいか、若造、思い切りだ」

 右へ左へ、オー老師の頭が揺れる。

「相手を叩きのめす時に躊躇するな。全てがそうだ。躊躇はいかん。間合いを消すなら、相手に密着するようなつもりで間合いを詰めろ。投げ捨てるなら相手の肘や肩がぶっ壊れても構わないくらいに力を込めろ。剣もそうだ。殺す気で振れ」

 刀を構えるが、俺はまだ踏ん切りがつかなかった。

 何せ、俺は刀をすでに抜いていて、それは人を殺傷することができる。

 オー老師は具足もつけていないし、剣は鞘の中。何より酔っ払っている。

 バカめ、という声が目と鼻の先でして、また間合いを潰された、と思った時にはオー老師の華奢な肩が俺の胸を打っていた。

 打ったというより、叩きつけられたのだ、と気づいたのは吹っ飛ばされた後だ。

 地面の転がり、息がうまく吸えない。

 のたうちまわる俺のそばで、オー老師は平然と言う。

「手を抜くな。戦場は殺し合いの場だぞ。相手は魔物だ。人間相手に手心を加えるものか。何が何でもこちらを倒そうとしてくる相手なんだ。まさかお前は魔物に、手加減したください、素人なんです、若造なんです、と泣きつくつもりか?」

 何度も咳き込み、やっと息が吸えた。

 俺が起き上がったときには、オー老師は酒瓶のところへ行き、ぐっと直接、瓶の口から酒を飲んでいる。

 酒瓶が空になり放り捨てられ、さあ、続きだ、とこちらへ戻ってくる。

 立ち上がった俺の中にあったのは、ある種の恐怖で、同時にある種の諦念だった。

 もう躊躇っていても仕方ない。迷っている理由もない。

 オー老師を傷つける、もしくは殺すことになっても、それはもうどうでもいい。

 そういう諦めが、俺に思い切りの良さを取り戻させたらしい。

 刀を手に突っ込んでいく。

 さっとオー老師が避けるのに、ついていく。

 間合いの中に常に老人を置き、刀は一撃必殺を狙う。

 姿勢をわずかにずらすことで、オー老師は面白いように俺の刀を避ける。

 もっと踏み込める。もっと早く刀を振ることができる。

 その確信のままに、俺の体はみるみる動くようになった。

 すっとオー老師の剣が突き出されてくるのを、刀で払いのける。

 彼の片手がこちらの手元へ差し込まれる。

 投げが来るか。

 手を逃がすように、姿勢を変える。

 肩と肩がぶつかり、離れざまに刀を薙ぎ払うが、届かない。

 間合いができる。

「それで良い。面白くなってきたわい」

 いつの間にかオー老師は酒瓶が並ぶところへ戻っている。

 それに気づいて、少し背筋が冷えた。

 激しい攻防は俺にとっては精いっぱいだった。しかしオー老師はその中でも自分が立っている位置を加減し、最終的に酒瓶のそばに自分が立っているように状況を支配していたのだ。

 技量などという言葉では足りない、魔法のような技だ。

 酒瓶を手に取り、栓を器用に抜くと一口、二口と中身を飲む。唇の端から琥珀色の液体が滴となってこぼれる。

「まだ剣は抜かないでおいてやろう。かかってくるがよい、若造」

 泰然自若、というのは、こういう姿勢を言うのだろう。

 小柄なのに圧倒的な気迫を発する老人に、しかし俺はこの時、躊躇いを感じなかった。

 足が自然と前に出る。

 瞬間、オー老師が笑っているような気がしたが、そんなことを考える余裕もない。

 間合いを消し、ぶつかり、刀を振るう。

 どこまでいっても、俺の攻撃はオー老師には届かない。しかし絶対に届かないという感覚はない。

 刀を振った時、足を踏み出した時、届かないのはわかる。

 届かないが、工夫すればその間隙を詰めることができる、という感覚がある。

 それを信じて、攻防の中で工夫を形にしていく。

 思考は目まぐるしく巡った。

 オー老師をどうしたら切れるのか、どうしたら反撃を回避できるか、逆襲できるか。

 自分の技のどこが足りないか。どう変えていけばいいか。

 どんな展開が、どんな新しい筋があるか。

 とにかく休みなく考え続けた。

 そして休みなく、体は動き続けた。

 オー老師は時折、間合いを取り、その度に酒を煽る。

 俺は呼吸を整え、すぐにぶつかっていく。

 どれくらいが過ぎたのか、日差しと熱を孕んだ風もあって、全身が汗で濡れていた。

 ぐらっとオー老師が揺れて、危うくその首筋に刀を差し込みそうになり、慌てて手を止めた。

 しかしオー老師はきわどいところで、俺の刀を受けられる位置に剣を挟んでいたので、止めなくても弾かれただろう。

 俺が姿勢を整える前で、逆にオー老師はグラグラッと揺れると、倒れこんだ。

 呼吸が上がっている自分がいて、肩で呼吸をして、しばらくオー老師を見ていた。

 うつ伏せで寝ている。いびきが聞こえた。

 窒息するんじゃないか、と思ってその体を仰向けにしたが、目覚める気配はない。ただ力強いと表現できるいびきは続いている。

 やれやれ、またか。

 俺はその場で地面に腰を下ろし、耐えきれずに寝転がった。

 何か、丸一日、ぶっ続けで稽古をしたような気分だが、まだ数時間だ。

 何度か、ジュンに言われたことだけど、戦場に立つと休憩なんてないし、休める時に休み、それ以外は常に戦い続けるような事態になるという。

 この数時間の稽古も、戦場での途切れない実戦とは、やっぱり比べものにならないんだろう。

 空は青く澄み渡って、雲がゆったりと流れていく。

 深く息を吸い込むと、自然と深く息を吐くことが出来る。その吐いた息には、胸の内にあった重いものが一緒に吐き出されたような感覚があった。

 隣では、老人がまだいびきをかいている。

 また夜中に目覚めるんだろうか。食事を用意しておくのは当然として、しかし、酒はどうしたものだろう。

 見ればオー老師が持ってきた四本の酒瓶は全部が空になって転がっている。

 酩酊して意識を失うほど飲むのは感心できないけれど、それくらいの自由は誰にでもある。たぶん、あるだろう。俺が面倒を見ているわけだし、それなら、俺が許すか許さないか、というだけの問題かも知れなかった。

 俺に稽古をつけてくれているのだ、酒くらい、許すとしよう。

 でも、夜中から酒盛りはやめてほしい。

 あとは宿で部屋を用意しておこう。俺も寝台で寝たい。

 空腹を感じ、昼食を食べに行くべく起き上がったときも、まだオー老師はフガフガといびきをかいて、眠っていた。




(続く)

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