1-36 老人の横槍
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ジュンの稽古は三日で中断した。
傭兵隊の連合でできている部隊は入れ替わりながら戦場へ出ており、その中でも人類を守り隊の参加する部隊の出番が来たのだ。
正直、俺は戦場に立つのが怖かった。
口にこそ出せないけれど、それが本音だ。
ジュンはそんな俺を見透かしたのかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、「来なくていいわよ」とあっさり言った。
「今のあなたは大して使えないしね。顧問もそろそろ来るでしょう。のんびりと稽古していなさい」
ジュンは笑っているが、戦場へ立つとなると、もしかしたら、とどうしても考えてしまう。
戦場で倒れれば、もうジュンは俺の前に現れることはない。
自分が戦場に立つのでは、という不安が消えた次には、仲間がいなくなるのでは、という不安がやってくるのだから、落ち着かない。
「そんな顔しないで、気軽に送り出しなさい」
にっこりとジュンが笑うのにも、俺は無言で頷くだけしかできないのだった。
ジュンが戦場に向かい、ルッツェにいる傭兵の顔ぶれがはっきりと変わった。大きく部隊が入れ替わったせいだ。大半が疲労困憊し、そこらじゅうで座り込んだり、寝転がっているものがいる。
戦場での強烈な負担からの解放が、彼らの緊張の糸を切っているようだ。
俺は一人で場所を見つけて剣を振っていた。
ジュンが俺に教えてくれた型を何度も繰り返す。全身の筋肉の動きを意識するように、と繰り返し言われていることを思いながら、体を把握しようと努力する。
「くだらん技だな」
横手からしわがれた声がして、俺はそちらを見た。
老人がいる。皺だらけの顔に長い白髪をひとつに結んでいる。
ただ、片手に酒の瓶を持ち、もう一方の手では剣を杖のようについていた。
「暇潰しだが、くだらん技を見せてみろ、若造」
老人の傲然とした態度と言葉に無意識に怒りが湧いたけれど、こんな老人に嫌味をぶつけるのも、気がひける。こういう時、老人というのは有利なものだ。
仕方なく、俺は稽古に戻った。
いきなり横手から剣が伸びてきて手首を打った。抜き身ではない、鞘に入ったままだ。
鋭い痛みに息を飲んで、反射的に睨みつけていた。
「なんだ、その目は」
老人がとろんとした目でこちらを見ている。片手は酒瓶を握ったままだけれど、剣は今、肩に担がれている。
「なんだ、と聞いている。不満か。横槍を入れられたことが」
口調も怪しい。酔っ払っているのか。だいぶ嫌な酔い方だった。
「邪魔しないでくださいよ、ご老人。危ないですから」
必死の理性で丁寧な口調を心がけたが、「邪魔なものか」と老人が大きな声で言った。
「お前の剣でなぞ、誰も切れぬわ。遊び、子どもの遊びだわな」
ひゅっと風を切る音がした時、老人の鞘に納まったままの剣が俺の首筋を打った。
不意打ちの衝撃にぐらりと意識が揺らぎながら、老人が普通じゃないのがわかった。
なんでもない一撃が、俺には見えなかった。
予備動作が何もない。
姿勢を撮り直すと、「わしにやりかえしてみよ。どうやっても良いぞ」と老人がニタニタと笑っている。しかしこちらが行動に移る前に、彼の剣の先が俺の胸を突いている。
よろめくが、それよりも息ができない。
視界が明滅するが、老人がゆらりと動き、鋭い一撃がくる。
刀を立てて、それを受けた、はずが、何故か老人の剣が俺の刀をすり抜ける。
なんだ?
そういうファクトか?
考えた時にはこめかみを打たれて、昏倒していた。
意識がなかったのはどれくらいか。ほんの数十秒だろう。
立ち上がると、老人は平然と立ったまま酒瓶を煽っていた。俺の意識が戻ったのを見て、じっとこちらを見るが、すぐには何も言わない。
さすがに今度ばかりは怒り、その衝動のまま立ち上がり、刀を取り直す。
「一端に刀など持ちよって」
老人がまた水が流れるように間合いを詰めてくる。
刀を構える前に懐に入られている。
老人の手の剣の柄頭が、俺の鳩尾を痛打する。
視界が暗くなり、腰から崩れかかるのがわかり、ぐっと堪えて脚を後ろに送ることで転倒を避ける。
歯を噛み締め、意識を維持する。
だが、老人は俺のすぐ目の前にもう立っていた。
「阿呆め」
さっきと同じ、柄頭の一撃。
見えているぞ。
刀の刃を手元の動きで割り込ませる。
甲高い音で、刃と柄頭がぶつかった。
防いだ、と思ったが老人の手元で剣が旋回、両足が意外なほどの強さで払われる。
痛みと衝撃を理解する前、俺が倒れる前に、老人の突き出した柄頭が、空中にある俺の体を打ち据える。
地面に墜落し、息をしたいが、まるで胸が上下しない。
喘いで、もがく俺の視界の中で、老人は笑いながら酒を煽っている。
くそ、なんだ、この爺さんは。
どうにか呼吸が回復し、起き上がると「若造だから体力だけはある」と老人が酒瓶の最後の一滴を飲み干し、空き瓶を放り捨てた。
俺は刀を構え直すけれど、どうしても呼吸が整わない。それほど体を動かしていないのに、老人の的確な打撃のせいだろう。
最悪な戦術だった。
再起不能な打撃を与えるのではなく、呼吸をできなくする、いたぶるような戦い方だ。
どう崩せるか、と俺は刀を構えたまま、老人を見た。
その老人は悠然と剣を下げたまま、頻繁にしゃっくりをして、そして茫洋とした目でこちらを見ている。
しかし全く、隙がない。
そう見ているところで、老人が一歩、踏み出したのだが、これは不自然以外の何物でもなかった。
明らかに上体を無視した、足を送るだけの動きだ。
これでは攻撃も防御も不完全になる。
誘い、か。
俺は迷ったが、そのうちに老人がもう一歩、踏み出す。
違う、踏み出すというより、足を送っただけで、上体は傾き、そうして俺が見ている前で老人はいきなり受身も取らずにうつ伏せに倒れた。
何が起こったのか、全くわからなかった。
俺の攻撃は当たっていないどころか、触れてもいない。
今日も日差しは強いから、それでのぼせたのだろうか。いや、とにかく、老人の介抱をしないと。
刀を鞘に戻し、俺は老人を一応、仰向けにさせた。
顔は赤らんでいて、呼吸は安らかだ。安らかだが、酒精がすごい。
もしかして、酔っ払って寝ただけか?
稽古の最中に?
周囲には傭兵たちが大勢いるが、こちらを見ているものはいない。いや、二、三人がいるが、驚いているか、胡乱げにしているかで、関わろうとはしない様子だ。
参ったなぁ。
俺は仕方なく、老人を抱え上げ、自分の部屋のある宿へ向かって歩き出した。
急に老人がえずいたので、危うく放り出しそうになった。
背中で嘔吐されたら、それは、ちょっと……。
とにかく俺は足を速めた。
俺の呼吸はまだ、落ち着かず、胸が激しく痛んだ。
(続く)




