1-35 逃げたい気持ち
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しばらく稽古をしてから、イリューの元に若く見える亜人が二人、三人と集まり、何か話し始めた。
「意外に慕われているのよね」
イリューは不機嫌そうな表情をしているが、身振り手振りを交えて、何かを教えている。
実際に亜人の二人が刀を抜き、緩慢な動きで刃をどう走らせるか検討し始めた。
「あの剣術が厄介なのよ」
こちらも不機嫌そうに、俺の隣でジュンが言う。
「速度で負けているのに、最短距離を選んでくる。しかもそれが、ただ最短距離に仕留めに来るわけじゃない。最短距離で防ぎに来る振りを混ぜる。攻撃も防御も、牽制も欺瞞も、全く見分けがつかない」
俺は宿の部屋で、ジュンとイリューが見せた攻防を思い出した。
そうか、亜人はそもそも人間と違ってファクトを持たないんだ。
あれは純粋にイリューの剣術だったことになる。
人間離れした速度だ。
「ジュンさんのファクトは、加速系ですか?」
気になったので確認すると、まさにね、とジュンがちょっとだけ笑うけどまだ不愉快そうだ。
「ライトニング・スピード、っていうファクトよ。相応に高位のファクトだけど、イリューの剣術を前にすると形無し、ってとこかな」
どう応じていいか、すぐにはわからなかった。
ジュンとイリュー、どちらに対しても、俺はとても及ばない。
ジュンのファクトは、明らかに超一流のそれで、その上、長い修練と研鑽を経た確かな技がその剣技に練り上げられている。
一方のイリューは、亜人独特の剣術を、遥かな高みまで研ぎ澄ませて神の領域まで突き抜けている。
俺の技は半端だし、ファクトも全く意味を持たない。
やっぱり俺は、ここでは邪魔者か。
俺が黙っているせいか、気づくとジュンも黙っていた。
イリューは数十分、亜人たちに何を伝え、それから広場の隅の木に引っかけてあった裾の長い外套を羽織った。一目で分かる、高級品だ。細かな刺繍が施され、精緻な文様が描き出されている。
「見物している暇があるのか」
こちらへやってきて、イリューが俺を見下ろしながら睨みつけてくる。
どう答えることもできない俺に代わるように、見てわかることもある、とジュンが言い返した。イリューは鼻を鳴らした。
「素人が達人の技を見て、何かがわかるわけもあるまい。それに、女に代わりに答えてもらっているようでは先が思いやられるな。戦場でも女に代わりに敵を切ってもらうのか?」
やはり答えられない俺の横を、イリューは静かな足取りで抜けていった。
身につけているままのボロボロの具足を、今すぐに脱ぎたかった。刀も捨てて、戦場から離れられれば、どれだけ楽だろう。
そうしていけないわけがない。
でも何かが、俺を引き止めている。
「逃げるなら今、逃げなさい」
横からの声に、俺は伏せていた顔を上げた。
険しい表情で、ジュンが俺を見据えている。
「無駄に死ぬことはないわ。生きる気力がないのに戦場に立つという自殺は、惨めなだけよ。戦場に立つ以上、死ぬときも魔物の一体でも巻き添えにする覚悟がないと、死ぬってことは辛いでしょうね」
答えることが、なかなかできない。
「稽古はつけてあげる。時間を費やしてもあげる。でもやる気がなければ無駄になるから、私はあなたに付き合うことはない」
「いえ」
言葉は弱々しい。どうにか、喉元に力を込めるようにして、続きの言葉を発した。
「まだ諦めるつもりはありません」
「まだ?」
「死ぬまで、諦めません」
じっと目を細めてから、ジュンは無言で頷いた。
その日は日暮れまで、ジュンは俺に剣術を教えてくれた。具足はこの日だけでほとんど使い物にならなくなり、ジュンは特に気にした様子もない。明日には手配しておく、と請け負った。
「そんなに具足を消費して、怒られないんですか?」
食堂が満員だったので、料理の入った器だけ持って外で食べている時、訊ねてみた。
「誰に? ヴァンに叱られるか、ってこと?」
「ヴァンさんもだけど、フォウさんとか」
ああ、あの人たちはどうでもいいって思っているでしょう。
そんな返答をして、何も気にした気配も見せず、ジュンは料理を口に運んでいる。
「でもジュンさんも、イリューさんも、なんか、いい服を着ているし、具足とか武器も普通じゃないですよね」
俺の問いかけに、戦士だしね、とジュンが応じる。
「私たちは一級品の武装をすることで、少しでも生き残る可能性を高めている。三級品の武器が折れたり、粗悪な具足が邪魔になったりして死ぬんじゃ、たまったものじゃない。まぁ、普段の服装に関してはそれぞれの主義があるけど、私はただ、おしゃれが好きなだけかな」
ズズッと汁の入った器を傾け、ジュンが遠くを見る。
「戦場でしか生きることができないけど、生きているわけだしね。死ぬときにあれこれと後悔したくない。あれを食べたかったとか、あれを着たかったとか、そういう後悔がない方が、生死が別れる究極の場で思い切った決断ができる。信念というより、そういう信仰だけど」
そんな生き方があるのか。
俺は今まで、服装に気を使ったことはない。最低限で、みすぼらしくなければいい、という程度だった。
武器もそうだ。こだわりはないし、今も、ただジュンが用意してくれた具足と刀しかない。
銭がもっとあれば、変わるかもしれない。でも、銭が何もしていないものに流れ込んでくるわけがない。
敵を倒し、武勲をあげ、認められた時に、初めて自分というものを持てるようになるのか。
傭兵としてその高みに達するには、苦労、苦難しかないだろう。
でもそこから逃げるのは違うのだろうとも思う。
「ヴァンには知らせを出してある」
器の中身を空にして、すっくとジュンが立ち上がった。
「まだまともかは知らないけど、うちの顧問がこっちへ来る。悪いけど私とイリューは仕事があるし、不在の時はその人があなたの相手をする」
顧問?
なんか、立派そうだ。気安い人だといいんだけど。
ちょっとの沈黙の後、声をひそめてジュンが言った。
「酒はあまり飲ませないように」
……酒?
(続く)




