1-32 殺意と殺意
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目が覚めた。
正確には、意識が戻った時には、すでに俺は目を見開いていて、眼球が乾いているのを感じた。反射的に目元を拭いそうになり、それより前にどうにか瞼が一度、降りる。
息が詰まっていたのが、回復されるかと思ったけれど、呼吸ができない。
自分のものとは思えない唸り声が出て、背を丸めていた。
喉に何か硬いものが引っかかっていると感じた次には、それを吐き出していた。
赤い石? いや、目の前で砕け、砂粒になり、そのまま消えた。
「目が覚めたようだな」
咳き込んでいる俺はやっと周りを見る余裕ができた。
見覚えがある。ルッツェにある宿とも言えない宿だ。
上体を起こし、まだ咳が止まらないが、声をかけてきた相手を見た。
長身の亜人、イリューだった。
「死んだはずだと聞いていたが、生きているようだ」
聞いていた、というのは、俺をここまで連れ帰ったジュンがそう言ったのか。
俺は死んだ。
そう、魔物の短剣のような爪が、胸を刺し貫いた。
その俺をジュンが背負って運んできたのか。
音もなくイリューが立ち上がり、抱きかかえるようにしていた刀を左手に持つと、その柄を右手が握る。
「死なないというのは、例えば首をはねても死なないのか、気になるところだ」
反射的に寝台から転げるように飛び降りた。
光が瞬き、俺の頭上を走る。
床で大きな音を立てて転がるが逃げ場はない。扉はイリューの背後にある。
イリューは狭い室内で、器用に長い刀を構えている。
「一度、死んだのだろう。ならきっちりと死んでおけ」
刀が突き込まれる。
俺は座り込んでいる。咳が出る。息が詰まる。
避ける余裕はない。
いや、きわどいところで。
首を傾げ、上体を捻る。
それから一瞬であまりにも大きなことが起きすぎた。
扉が吹っ飛び、何かが部屋に飛び込んできた。
甲高い音が上がり、俺の頭のすぐ横で激しい火花が散って、周囲を刹那だけ照らし出した。
いつの間にか、俺の横にジュンが出現していた。
「やめなさい、イリュー」
イリューの刀の切っ先は俺の耳のすぐそばにあり、しかしその刃にジュンの剣が差し込まれ、わずかに狙いを逸らしていた。
突然の乱入に気分を害したようにイリューが眼を細める。
「こんな人間ではない存在をそばに置きたくはない」
「あなただって人間とはちょっと違うでしょう。自分の年齢を言える?」
不愉快な女め、とイリューが吐き捨てる。
次には彼の手元が目まぐるしく動き、刀が複雑な軌道で俺を解体しようとした。
それに対して、ジュンの両腕がほどとんどかき消えた。
空気を引き裂く音と金属同士が打ちあう鈍い音が多重奏となる。
しかし結局、俺は無事で、最後にはイリューとジュンが刀と剣を合わせた姿勢で動きを終えた。
「人間など、ファクトに頼る軟弱者だ」
「その軟弱者に及ばない剣術しか使えないのが、亜人の限界ね」
二人の超級の剣士が睨み合うのは、そばにいるだけで意識を失いそうなほどの殺気のぶつかり合いでもあった。
「ここでお前を殺しても何の意味もないが、我らの技を侮辱したものを放っておく理由はない」
「さっきの私が本気だとでも?」
「さっきの私が本気だとでも?」
「質問に質問で返す、しかも同じ言葉を返す程度の頭脳しかないって、亜人は百年だか二百年を生きて、その程度の知性しか身につかないの?」
口論自体はどことなく幼稚なのに、本気で相手を切る気配が濃厚すぎて笑えないし、なごみもしない。
ぐっとイリューが刀を引き戻し、大げさな身振りをして鞘に戻した。
それから視線が俺に向く。
「死に損ないが仲間とは、心強いな。盾として役立つように努力しろ」
イリューが部屋を出て行く。扉は完全に外れていて空洞になっていて、そこへ身をかがめてイリューは姿を消した。覗き込んでいる野次馬も、イリューを前に無言で、表情にさえ気を付けて道を開けたようだ。
あのイリューの様子を前にからかうことができるものがいたら、それは正真正銘の命知らずだ。
ため息を吐いて、ジュンも剣を鞘に戻した。
その視線に鋭さはなく、おどけた色がある。
「あれでも超一流の使い手なんだけど凶暴で、頭は動物並みね」
どう答えることもできずにいる俺の前で、手が痺れたわ、とジュンは両手をブラブラさせた。そうしてから、真面目な表情になる。
「あなた、体はなんともないの?」
「ええ、まあ……」
やっとそう答えたけれど、声がガラガラだ。部屋の隅の戸棚から、何かの液体の入った瓶をジュンが持ってきてくれる。
礼を言って受け取って少し口に含むと、酒のようだった。
酒でも、今は何か飲み物が欲しい。
一口、二口と飲むと喉のあたりはすっきりした。
「私が見たとき、完全に死んでいたけど」
壁に寄りかかったジュンの問いかけに、ええ、それは、とまで答えるけれど、すぐに続けられなかった。
本当のことを言うべきだとは、分かりきっている。
自分のことを受け入れてもらえるか、もらえないか、それを俺は気にしているようだ。
「言えないの?」
そう促す声は、どこか柔らかく、深いものを感じさせた。
言わずにはいられなかった。
「実は、生きた岩、というものが体にあって」
「生きた岩?」
ジュンはよくわからないようだった。それもそうか、詳しくなければ知ることもない。
「巨人の恩恵で、その、死ににくいというか」
ふぅん、というのが返事で、ま、いいわ、とジュンはあっさりと片付けようとした。
ま、いいわ?
「それだけですか?」
思わずそう確認すると、悪い? とジュンは笑って見せた。
「戦場にいるとね、それこそいろんな奴がいるわよ。ファクトのせいで人間離れした奴とかね。腕がちぎれても再生したり、化け物みたいな姿に変わったりね。だから、死なないというのは大したことじゃない」
ジュンの説明に、どう答えればいいのか、分からなかった。
まったく分からなかった。
「気にしないように。いいわね?」
ええ、と答える声は、みっともないほど弱かった。
まずは扉をどうにかしないと、と言って、床に倒れているただの板ような扉を、ぐっとジュンが引っ張り上げた。埃が舞い上がり、俺は少し咳き込んだ。
もうさっきのような息苦しさはない。
でも、別の苦しさがあるのは、間違いなかった。
(続く)