1-31 初めての戦場
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荷馬車を降りた時には身体中が痛かったけれど、誰もそんなことは言わない。
体をほぐすことなく、それぞれの得物、剣や斧、槍などを手にとって飛び出していく。
さてと、とジュンが小さく言った。
二人で荷馬車を降りると、すぐに待機していた負傷兵が運び込まれていく。あまりそちらを見ないようにした。
周囲が薄暗く見えるのは、何故だろう。
時間帯はまだ昼で、ちょっと曇っているだけか。
目に入るのは、どこまでも続く土塁だった。高さは背丈の倍はある。それが日を遮っていて、余計に薄暗く見えるのかもしれない。
合わせて、疲れ切った兵士や傭兵が方々に座り込んだり、横になったりしている。
集まれ、という声があり、俺はジュンに袖を引かれてそちらへ行った。
立派な具足の大柄な男が、魔物をさらに踏み込ませるために囮となって、一時的に前進する、と作戦を説明し始めた。
全体では四十人が一隊になり、それが三隊、波状的に攻撃を仕掛けてから、一気に後退する。魔物が引きずり込まれたところで、ルスター王国軍の紫紺騎士団が大攻勢をかけるという。
話を聞く傭兵たちは、特に気負った様子もなく平然としている。
色で隊の所属を分ける、合図があり次第、出撃する。
それが最後の指示だった。
俺はジュンと一緒に赤い腕章を受け取った。三つの隊は、赤、青、黄色で分けらている。
「ちょっと厳しいけど、気楽に行こうか、リツくん」
つい半日前まで安全なところにいたせいか、まだ自分が戦場のすぐそばにいるという実感がなかった。
いや、ここが戦場なのか。
ジュンに何か言っておかなくてはいけない気がしたけれど、何を言えばいいのか。
考えている間に、笛が吹かれた。出撃の合図だ。
先頭は赤の隊である。
行くよ、とジュンが言った声は周囲の傭兵たちのあげる喚声が響き渡ってかき消された。
土塁の切れ目にある柵が開かれる。
四十人が一斉に駆け出し、飛び出していく。
俺も必死に走った。
前には傭兵の姿しか見えない。
魔物はどこだ?
動物とは違う鳴き声が聞こえた。
「剣を抜け!」
誰かが叫んだ。いや、さっきの、傭兵を前に命令を出した男の傭兵だ。
すぐ横で素早くジュンが剣を抜いた。
よく切れそうだな、と他人事のように思った。
俺も刀を抜いた。どうしてか、それはあまり切れないように見えた。
目の前にいる傭兵の動きが急に止まる。
さっと隙間が作られるところへ、後続の傭兵が突っ込む。
俺も傭兵と傭兵の間から進み出て、そこで初めて、この目で、魔物を目の当たりにした。
豚の顔だ。豚の頭に、毛むくじゃらの体がついている。
武器なんて持っていない。殴りかかってくる。
自然と刀が前に出た。
すっと刃が魔物に突き刺さり、肩からぶつかっていった俺の動きが止まる。
魔物の頭がすぐそばにある。生臭いというよりは、ほとんど腐臭のようなものが俺を包み込む。
ぐっと腕に力を込めて、刀を走らせた。
手応えが消えたとき、刀は魔物の胴体を半分ほど引き裂いていた。
返す一撃で首を落としたのは、出来過ぎだ。
真っ黒い血が噴き出し、俺の全身がずぶ濡れになる。
殺した。
魔物を、倒した。
興奮してもよかった。いきり立ってもよかった。
しかし俺はどうしてか、呆然としていた。
次の魔物が来る。
動けない。
なぜ?
何かが目の前を走り抜ける。肉薄してきていた魔物が四体、同時に転倒する。胴と頭が切り離されて、周囲を土砂降りのように魔物の血が濡らしていく。
「死にたいの!」
強烈な衝撃に尻餅をつくと、見上げた先に、真っ黒い血にその顔を汚したジュンが立っていた。
こちらを見たまま、その剣の一撃が、魔物を斬り下ろす。俺の目の前に魔物の死体が転がってきた。
「戦いなさい!」
その言葉に、何かが動き始めた。
立ち上がり、突っ込んでいく。
魔物の数は、すぐにはわからない。傭兵たちが雄叫びをあげ、武器を振るう。
切るしかない。
切って、切って、切り続けた。
さっきとは違う、人の胴体にトカゲの頭が乗ったような魔物の爪が、胸元をかすめた。鋭さと剛力に具足が引きちぎられた。
構うものか。
刀が雑な一撃で、その魔物の首を半ばまで断ち切る。いや、食い込んだだけだ。落ちてはいない。
爪の一撃が、胸に突き立ったのがわかった。
激痛。息が止まる、そうじゃない、息ができない。
何かが口元から溢れる。
両腕に力を込める。無理矢理に刀を振って、魔物の首を飛ばした。
リツ! と誰かが呼んでいる。
身体がふらつく。
足で踏ん張る。目の前に魔物がいる。
刀を振り上げようとして、しかし軽い。ちらっと視界の隅に、刃が半ばで折れているのが見えた。
また誰かが俺を呼んだ。
折れた刀を魔物に叩きつけようとして、急に空が見えた。
俺は倒れているのか。
死ぬのか?
顔に何かが落ちてくる。
黒い雨。
魔物の血。
戦場なんだとやっと本当の実感がやってきた。
目を閉じてはいけない、と思ったのに、瞼が閉じていってしまう。
身体が引きずられている、ということだけを感じながら、俺の意識は曖昧になり、最後にはふっつりと途絶えた。
魔物の顔が、目の前にある。
恐怖。
はっと目が開いた。
曇った空。俺は誰かに担がれている。
喉に何かが絡みつき、咳が出た。
「リツ! もう少し耐えなさい!」
俺を背負っているのは、ジュンのようだった。
ぼんやりしていた視界がはっきりしてくる。周囲を傭兵たちが走っている。鉦がどこかで打たれているのも聞こえてきた。
安心したからか、俺は体が弛緩するのを感じて、次にはまた意識が遠のいた。
周囲では怒号と悲鳴が交錯し、人の声か魔物の声かもわからない。地面を踏み鳴らす音に、両者の区別は元からない。
地面そのもの、空気そのものが唸っているようだった。
ジュンが荒い呼吸をしているのが、その背中から伝わってきた。
(続く)




