1-3 奇跡のような日常
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魔物というものは何度か見たことがあった。
魔物は大陸南部を制圧して、今では異境領域と呼ばれている。
そこにいる魔物は「出現」した魔物で、魔物はそれとは別に「顕現」することもある。
人間には理屈はわかっていないけど、魔物は物体ではない、ということらしい。
顕現する魔物は、何もない空間から滲みだすように現れる。そして暴れる。
レオンソード騎士領にも守備隊と呼ばれる武装集団がいて、一応、レオンソード家の兵士なのだけど、ユナが言うには「三流の集団」らしい。
それでもレオンソード領に魔物が顕現すれば、彼らが相手をする。
剣や槍で武装し、具足で身を固めた彼らが魔物の相手をする間、領民は逃げているわけだけど、僕とユナは何度か、大人の目をかいくぐって、戦いを遠くから眺めたものだ。
魔物と言っても、特別に巨大ではないし、非生物的でもなかった。
姿は醜悪で、トカゲとかイノシシとかと人間が融合したような、ちょっと背筋が寒くなる格好だ。
ただ、例えば人の背丈の三倍くらい飛び上がるとかはない。
守備隊の男たちは連携をとって、その魔物を一体ずつ倒していく。
一度に顕現する魔物は多くて五体ほどで、守備隊は現場に十人ほどいるから、二人で一体に当たれる。
こうなると魔物の方がどこか不憫に見えるほど、一方的に倒される。
顕現した魔物は、元々からして何もない場所から現れるせいだろう、倒されるとそのままチリになって消えてしまう。血飛沫も消えるので、守備隊の男たちも血まみれになるのは一時で、すぐに汚れはほぼ消える。
一度ならず、守備隊の男たちに僕とユナが見つかったことがあったが、戦いの後だからか、あまり咎められもしなかった。
危ないぞ、と笑われたり、囮にしてやろうか、とふざけ半分で脅されるくらいだ。
中には、領主に上等な酒を用意するように言ってくれよ、とユナに冗談を飛ばす者もいる。
そんな戦いを何度か見ていることで、僕とユナの稽古の内容が発展していったのだが、リウの指導を受けた後からは、さらにもう一歩、発展した。
素人考えの上にあった技に、実戦の技の要素が加わり、そこにさらに剣術としての理論の要素が加わったことになる。
後はそれらを組み合わせる段階だった。
ユナは日に日に過激になり、僕も気を抜いていると痛烈に打ち据えられることになった。
僕は体力を作るために、朝早い畑仕事よりさらに早く起きて、野山を駆けることにしていた。毎日、一時間は走った。
時間は流れていく。
「また来ないかなぁ、リウさん」
十三歳になったある日の稽古の後、ユナが言った。
性別を選んで、時間が過ぎている。僕は少しずつ背丈が伸びて、肩幅が広くなってきた。反対にユナはスラリとして、徐々に女性らしくなっている。
ただ、僕もユナも、手だけはどこか似通っている。
使い込まれていて、がっしりとしていて、手のひらは固い。
「どこへ行ったかもわからないしね」
そう答えてから、「俺」は稽古をしている空き地のそばの用水路の水で、顔を洗った。
季節は夏が終わろうとしていて、しかし日が暮れても空気は熱を帯びている。さすがにユナは俺のような行動はしない。レオンソード家での行儀作法の指導は彼女をその程度には上品にしたのだった。
「もっと教われば良かったなぁ」
ユナが視線を西の方へ向けて、そう言った。
俺もユナも、リウが何を求めて旅をして、どこを目指しているのか、聞いていなかった。彼の生き方とか目的よりも、彼の剣術に十歳当時の俺とユナは魅了されていたのだ。
今も、結局はあの剣術を求めているということかもな、と袖で顔を拭いながら、俺は考えていた。
「守備隊の人に教えてもらえば? ユナなら立場的にもできるでしょ。騎士様に頼んでみたら?」
途端、不機嫌そうな顔になり、ユナが鼻を鳴らす。
「お父さんは私に武術なんてやらせるつもりはないわ。ここにいられるだけでも奇跡みたいなものなんだから」
ユナが剣術の稽古を俺としているのは、レオンソード騎士家の当主であるユナの父には不愉快そのものだと、さすがに俺もわかっている。
俺のような小作人の小僧に、例えば棒で打ち据えられて怪我でもすれば、今後に重大な支障がある。
そんなことになれば、俺も母もただでは済まないだろう。その点では俺の母が何も言わずにいてくれているのは、感謝しかない。優しさだとしても、あまりにも危険と隣り合わせ、密着しているとしか思えない。
「とにかく、稽古をするしかないわね」
ユナがそう言ってこちらに背中を向ける。ここのところ、何気なく屋敷まで彼女を送っていくことが日常になっていた。この日もユナに並んで、日の暮れた道を歩いた。
「早く十五歳になりたいわ」
ユナの声はどこか、浮ついていた。
「まだ二年はあるよ」
「二年も未来が決まらないなんて、生殺しよね」
十五歳は特別な年齢だった。
精霊教会によって、一人一人にその素質にあった能力が与えられる「洗礼」が、十五歳の年にあるのだ。
能力はただ「ファクト」と呼ばれる。
種々様々なファクトがこの世界にはあり、あるものはそれによって成功し、あるものは社会の中で沈んでいくことになる。
しかし、ファクトはその人物が十五歳までに積み重ねたもので左右されるとされていた。
ユナはきっと、いいファクトを手に入れるだろうと、俺は思っていた。
俺自身のことはあまり考えなかったけど。
「まだ有名な女傭兵になることを考えている?」
薄暗い中で、ユナの顔を見ながら、何かを確かめるように質問していた。
ユナの表情はよく見えなかったが、口元で白い歯が光った。
「もちろん」
短い言葉に、強い意志が見えた。
俺にもそれくらいの強気があればな、と思ってしまう。
そうして俺たちは平凡な日常と短い稽古、未来への不安と、虚栄にも近い自信の中で日々を過ごした。
そして十五歳の年になり、洗礼の日を迎えた。
(続く)