1-28 分水嶺
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深き谷を離れて二週間が過ぎた。
雪山を抜けていくのに一週間かかり、山裾へ降りたときにはすでに周囲は緑に包まれ、日差しもギラギラとしている。つい一週間前まで、雪に囲まれていたとは思えなかった。
エン族の、というよりカナの誘いがなかったわけではないけど、結局、俺はヴァンを選んだ。
エン族の部隊が仲間の元へ戻るのと別れ、俺はヴァンと共に南下した。
深き谷自体が大陸中部でも南寄りなので、すぐに戦場にたどり着けるだろうとヴァンは言っていた。
一週間ほどで、ルスター王国の街の一つハクナンにたどり着いた時、珍しくヴァンが宿を探し始めた。ここまでは適当な民家に泊めてもらったり、気まぐれに選んだ旅籠に止まっていたのだ。
それがここに来て何かを探しているのは、あるいは、と思ったけど、黙っていることにした。
「ああ、ここか」
そんなことを言ってヴァンは一軒の宿に入り、すぐに部屋を一つ取った。
三階建ての宿の最上階で、角の部屋だった。少しすると宿のものがお茶を運んできて、風呂の説明や食事の説明をした。これも今までの宿ではなかったことだ。今までの宿では、風呂は公衆浴場、食事はどこか別の場所で食べていた。
「誰かと待ち合わせですか?」
悠然とヴァンがお茶をすすっているので、堪えきれずに質問してしまった。
返事は、まあね、というだけだった。
その続きを待ったけど、何もない。ちょっと不愉快だけど、俺は案内される側だし何も知らない。
しばらくすると、戸の向こうで声がして「フォウです」という告げた。ヴァンが机の上にカップを置いて、「入ってくれ」と応じる。
戸が開き、入ってきたのは四十代か五十代の男で、髪の毛は黒に白いものがだいぶ混ざっている。しかし服装は立派で、いかにも商人という感じだった。
「久しぶりだな、フォウ。新人が入ることになった」
椅子をすすめながらそういうヴァンに、フォウと呼ばれた男性が人好きのする笑みを見せ、それからこちらを見て頭を下げた。
「フォウ・カンスというものです。お名前をお聞きしても?」
丁寧な所作に、俺は思わず立ち上がり、深く頭を下げていた。
「リツ・グザというものです。今回、ヴァンさんに拾っていただいて、その、傭兵隊に参加します」
「それはまた、大変なことで」
不自然な言葉に顔を上げるとフォウはまだニコニコと笑っている。何かの冗談を言われたのだ、とわかったのはヴァンが声を上げて笑ったからだ。
「フォウも露骨だな。あまり新人をいじめるな」
「この少年の食べ物も、着るものも、武器も、私が手配するんですよ、ヴァンさん。少しくらいは嫌味も言いたくなる。それはあなたに対しても同じですが」
言葉とは裏腹に、フォウは嬉しそうに笑っているままだ。
そうか、本心と表情を別々にできる、そういう人なんだ。
商人体というのは嘘ではないだろう。
つまり、この男性が人類を守り隊の物資調達係ということか。
「適当な武器がまず必要だ、フォウ。具足はまだ大量生産品でいい」
ヴァンの言葉に、当然です、とフォウが応じる。
「特注の具足など、魔物の一〇〇か二〇〇でも倒してから、やっと与えられるものです。ヴァンさんはどうも、感覚がずれている」
「お前の財布の紐がきついだけだよ。武器は剣がいいか? 刀がいいか?」
その質問は俺に向けられたもので、ちょっと気後れするが「刀で」と答える。横目にフォウがこちらを見た。
「他に何か注文はありますか? どこの工場の製品がいいとか、職人はどこがいいとか、ありますかな?」
「いえ、大量生産品で、構いません」
ここまでの会話の流れで、人類を守り隊の資金が特別に潤沢ではないと匂わされているので、俺は遠慮するべきだろう。
「出来の悪い武器は命を左右しますよ、リツくん」
すっとフォウがそう言ったので、不意打ちでちょっと息を飲んでしまった。
そうか、遠慮などせず、ちゃんと注文するのが傭兵に求められることか。
知識は豊富ではないけど、後方にいるものは可能な限り現場にいるものを支える、ということかもしれなかった。
現場の者が一人倒れると、後方のものは楽になるわけではなく、収入が不安定になり、結局は全体に悪影響がある。だから後方のものは現場にいるものにギリギリまで支援を惜しまない、ということか。
「こいつはまだ素人でもある。戦場で勉強させるさ。それまでは適当な装備でいい」
ヴァンが助け舟という形で、何も知識のない俺の代わりに答えてくれた。
しかし単純に助け舟と思えないのは、ヴァンの口調が少しだけ厳しいからだ。
「この少年をむざむざ殺すつもりですかね、ヴァンさんは」
「これくらいで死ぬようなら、それまでさ」
重大な話題のはずがなんでもないように、承りました、とフォウが頭を下げる。
俺はいよいよ覚悟を決めた。
俺の命はささやかなものなのだ。
酒でも飲もう、とヴァンが言って、フォウは嬉しそうに笑ってそれに応じた。
すぐに宿のものに酒が注文され、程なく酒のボトルと肴が何種類も用意されて、運ばれてきた。
俺は特に話に加わるきっかけもなく、ヴァンとフォウが人類を守り隊について話しているのを聞いていた。でもさっぱりわからない。人の名前のようなものもいくつかあるけど、もちろん知り合いじゃない。
「今、実戦部隊はルッツェにいるようですな」
グラスを傾けながら、フォウがそう言うと、「いやに北じゃないか」とヴァンが応じる。目元に鋭いものがあった。フォウは今も笑顔のままだ。何を考えているか、よく分からない。
「ルスター王国軍が、二つほど、後退しています。だいぶ激戦が続いているようですな。しかそろそろ魔物の方が息が切れるでしょう。しかし、切れてもらわないと大変なことになりますな」
「残りの防衛線は、いくだったか」
「四つでしょう。まだ余裕はあります」
話の内容からするに、魔物との戦闘はルスター王国軍の守勢、防戦という形で、だいぶ押し込まれているということだろう。
魔物がそんなに多くいるのは、俺にとっては恐怖と興味を伴って想像される。
噂では地を覆い尽くすような魔物の群れと聞くけど、実際を知らない。
いきなりそんな場所に放り込まれるとは思えないけど、自分にどれだけ出来るのか、何ができるのか、それは気になる。
新人だから、素人だから、とあまり現場にいる仲間たちのお荷物にはなりたくない。
しばらくヴァンとフォウは話を続け、日が暮れかかる前にフォウは「次の仕事がありますので」と席を立った。酒をだいぶ飲んだはずだけどフォウの表情は少しも赤らんでいないし、口調にも乱れはない。本当に酒を飲んだのかと疑問に思うほど変化がない。
「部下に武器は届けさせます。明日の朝には、間に合うでしょう」
悪いな、とヴァンが応じるのに、フォウが頭を下げた。
フォウが去っていくと、ヴァンがあくびをして「眠い」と呟いた。
寝台の方へ歩いていくと、ばったりヴァンは倒れこみ、すぐにいびきをかき始めた。
俺は窓の向こうを見て、夕日が見えるのに思わず目を細めた。
武器を手にしたら、いよいよ後には引けないな。
今、逃げ出す最後の機会なのに、その理由はない。
でも今が、分水嶺だ。間違いなく。
俺はしばらく夕日をじっと見ていた。
(続く)




