5-37 愚かな存在
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この奇妙な事態を、イリューは「人間の愚かさの極致」と表現し、なるほど、と答えるよりなかった。
亜人がどれだけ賢いかは知らないが、ともかく、人間は愚かだった。
ジュンは仕事を続け、俺とイリューも仕事を探し始めた。俺の狭い人脈と、イリューのないも同然の人脈が仕事を運んでくるわけもなく、ジュンが結局は都合してくれた。
俺たちはともかく、イサッラは新教会領らしく、精霊教会の教会が新しく建てられ始め、どういうわけか、今までは決して戦争に興味を持たなかったのだろう男たちや女たちが、見る見る間に増えた。
男たちは信徒隊に組み込まれるか、建築や土木工事を行う工兵のような役割として戦場へ送られた。女たちは教会が運営する施設で、戦場から戻ってきたもの、戦場へ向かうものの世話を何から何まで行った。
結局、精霊教会は傭兵よりも魅力的であり、もちろん、ルスター王国などよりも魅力を持っていたのだった。
誰が扇動し、誰が号令をかけても戦う相手は魔物のはずだが、どうやら民衆は誰が音頭を取っているかを俺が想像する以上に気にするようだ。
「良いことではないか」
戦場へ戻る前日、俺とイリュー、ジュンで食事をしている時に、批判的な口調でイリューが言った。
「これで愚かな人間は揃って戦場に立ち、そのまま帰ってこない。静かになるというものだ。心地よい静寂が戻ってくるぞ」
残念ながら、とジュンがやり返す。
「戦場へ行く奴らは揃って今頃、子作りに励んでいるから、どんどん新しい愚か者が量産される。本当に静かになるのは、五十年後ね」
「五十年後をお前が生きられないのを残念に思うよ、ジュン」
本気で気遣わしげな口調でイリューが言ったので、俺もジュンも吹き出してしまった。きっとイリュー自身は反射的な口調だったのだろう、しかめっ面になっている。
ともかくこの夜は、一つの区切りとなった。
この前日、ヴァンから書状が届き、ジュンは北にある拠点、ヴァンが新人の養成のために開設した訓練施設へ下がるように、と通達があった。
この訓練施設には俺も顔を知っている人類を守り隊の傭兵が数人、既に入って調練を始めているという。ジュンが行けばより手厚くなり、有望な傭兵を戦場へ送れる、という見通しのようだ。
オー老師がいなくなり、ジュンもいなくなり、本当に俺はイリューと助け合うしかなくなった。
「あの少年みたいな細っこい男が、今はこんな立派なんだから、わからないものね」
ジュンが感慨深げにこちらを見て言う。俺も笑うしかなかった。そういう冗談だからだ。
自分でも、ジュンに鍛えられ、イリューに鍛えられ、二人に何度も救われて今があるだけで、どこかの段階で逃げ出したり、脱落したりしても、おかしくなかったと思う。
何が俺を引き止めたのかは、結局、わからない。
人間なんて、理由もなく決断したり、選択したり、行動するものだ。
これが今生の別れとは思いたくないが、何が起こるかわからないのが戦場の常である。
俺だけではなく、イリューもまた倒れる時が来るかもしれない。
想像したくない、考えたくないみたいではあるが。
「湿った別れは好きではない」
イリューが言いながら、ジュンと俺に酒の小瓶を投げ渡した。
「全ては夢のようなもの。明日の朝には消え、忘れ去られる。それでいいではないか」
片手で器用にイリューが栓を抜く。ジュンが微笑みながら、素早く栓を抜いた。二人がこちらを見るので、俺も栓を抜かないわけにはいかない。
「勇敢なる女傭兵に」
イリューがまずそう言った。
「亜人の剣士と人間の傭兵に」
ジュンがそう言った。
俺はなんて言えばいいのだろう。
「素晴らしき日々に」
反射的にそう口にしていたが、イリューは文句も言わず、ジュンは笑みを弾けさせた。
乾杯とも言わず、三人の瓶の口が涼しい音を立ててぶつかり合った。
翌日、ジュンは北へ去って行き、俺はイリューとともに南に向かった。馬でハヴァスまで行き、事前に契約が結ばれた傭兵隊の連中と合流する。馬はとりあえず、近くの牧に預けた。
傭兵隊の連中は俺のこともイリューのことも知っていた。
三本の剣を背負う長躯の人間と、美貌の亜人の剣士、そんなところだ。
「どうも俺の面目はないようだ」
傭兵隊を四つ合わせて五〇人を超える傭兵連合を取り仕切っている、アムガという若い男が俺たちにそんな冗談を飛ばし、他の連中も笑っていた。
どの顔を見ても戦意を滲ませ、凛々しく、余裕があった。
本当の傭兵。
宗教のためでも、国家のためでもなく、銭をもらうことさえもどこか忘れた、自由なる戦士たち。
戦いの後の安らぎのために戦い、戦いのために安らぎを求める、矛盾した存在。
家族や友のために、家族や友を悲しませることを厭わない、間違った生き方をする者たち。
人間は愚かだと亜人は言う。
愚かでもいいじゃないか、と俺は言い返せる気がした。
すぐに傭兵連合が二隊に分かれ、半数が先に南へ下ることになった。ハヴァスの南部の防衛を行う隊と交代するのだ。
荷馬車にぎゅう詰めになり、決して平坦ではない道を揺られていく。小刻みな振動と強烈な激しい揺れが休むことなく体を震えさせ続ける。
傭兵たちは口も聞かず、うつむき、目を閉じ、集中する。
俺もイリューも、そうしていた。
空気が湿り気を帯びてくるのがわかる。そしてどこか、何かが腐っているような粘っこさが混ざってくる。
川を超える合図があり、そのあともさらに南へ。
荷馬車が止まる。傭兵たちが合図も待たずに飛び出し、俺とイリューも狭い空間から解放された。
戦場は大昔の土塁のそばで、土塁の高さは背丈の倍ほどか。方角を即座に確認し、土塁は今いる地点から南東よりに斜めに伸びている。現在地は土塁の端で、北端のようだ。不思議とその土塁は破れておらず、今いる場所も不自然な途切れ方をしていた。
戦場を見渡すと広い範囲に点在して、稀にこういう部分がある。遥かな過去において、何らかの理由で造築が中断したと想像するしかない。
土塁を中心にして部隊が展開し、例のごとく複数の柵が巡らされて四方からの攻撃に備えられているが、やはり南側が激戦のようだ。
現地の指揮官と、アムガが何かを話している。土塁の上にある指揮所を少し見上げてから、俺は他の仲間とともに南へ走り、とりあえずは受け持ちの戦場についた。
土塁を上がり、その上に立つとはるかに南が見渡せた。
黒く染まった大地、空を埋め尽くす黒い雲。
そして数え切れない魔物が、今も北へ向かってくる。
土塁の下では、傭兵たちが槍や剣で無謀にも緩い傾斜の土塁に這い上がろうとする魔物を、物を突くように突き倒し、跳ね返している。
この不毛な戦場に、俺はまた戻ってきたのだ。
鉦が鳴らされ始めた。交代だ。
俺の横にいたイリューが静かに刀を抜いた。
俺も背中の剣に手をかける。
戦いだ。
いつ終わるともしれない戦い。
息を吐いて吸う、それだけで、何かが切り替わった。
(続く)




