5-36 歪み
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イリューは夕方に戻ってきて、出発は翌朝にした。
やや腹が立ったが、それよりもルティアについて考える余裕ができたことを意識した。
「逃げ出したのはそういうファクトがあるからだろう」
宿の二人部屋で簡単な夕食にしながら、イリューが言った。実際には料理が一人前しかなく、イリューが自分の分を断ったのだ。亜人たちの元でたらふく食ってきたからに違いない。
「逃げ出すファクトっていうと、えーっと、何があるかな」
「姿を消す奴があったはずだ」
「インヴィジブルのファクトか。あれはだいぶ上位だよ」
「ついでに言えば、自分がそのファクトを持っていることは、誰にも教えなかっただろうしな。タネが明かされている手品など、犬も食わぬ」
ありそうなことだ。
そう、それなら精霊教会の神官戦士団が魔物もろともに滅ぼされた時も、一人だけ姿を消して逃げ出したのだ。
でも今回はなぜ、あの時のようにこっそりと精霊教会に戻らなかったのか。
「精霊教会はあの男を捨てたのだろう。神鉄騎士団に殺された犠牲者がいれば、精霊教会が神鉄騎士団にどこまでも厳しくする大義名分ができる。しかし一人だけ生き残っていました、というのでは、ブレるだろう」
イリューの解説も、部分的にはありそうだった。ただ、確信は持てないし、強力でもない。
むしろ生き残りを押し立てる、というやり方もある。
自然、俺の返事はあやふやになった。
「そんなもんかな。例えば、別の名前を与えて、神官戦士の一人にすればいいのでは?」
「何があっても生き延びる男というのは、なるほど、英雄と呼ばれるにふさわしい。しかし卑怯な方法で生き延びているものは、英雄などではない。唾棄すべき、恥知らずというものだ」
それが亜人なりの価値観ではないのは、俺にも理解できるところがあることでわかる。
卑怯者か。
焼き討ちの時に、俺は大勢の人の死を目の当たりにした。あれだけの人間が犠牲になりながら、一人だけ生き延びるというのは、どういう気持ちなのだろう。
死にたくない、という一心で行動しても、生き残ったとしても、胸を張ることはできないのかもしれない。
生きるということは、ただ生きることではなく、何か、自信のようなものがないといけないのか。
何も恥じることなく、堂々としている人間は輝いて見える。
では、それ以外の人間は、恥を背負い、うつむいて生きるものは、生きているとは言えないのか。
あのルティアという男は、戦場で戦い、権力の場でも戦い、卑怯な手を使い、残酷なこともし、それでも生きようとした。最後には食う物に困って盗みを働き、そうしてまで生き延びようとした。
ため息が漏れる。
救われたものは、一人もいない。
俺はユナを救えなかった。ずっと彼女のそばにいたわけでもないし、彼女を守ることはほとんどしていない。ただ離れた場所にいて、ただ話を聞き、最後の最後に行動して、しかもそれは大きく出遅れていた。
頭の中で、レオンソード騎士領の、騎士家の屋敷の、あの応接間が広がった。
俺はあの時、胸を張ることはとてもできなかった。
この先、いつまで経っても、俺はアンリの前では、胸を張ることなんてできない。
俺は愚かで、何も知らなかった。
そして何もしなかった。
そんな俺はこの先、どうやったら自分に自信を持てるのか。
「くだらんことは考えるな」
急にイリューが鋭い声を投げかけてきたので、俺は無意識にうつむいていた顔を上げた。
亜人は不機嫌そうに、こちらを眼光鋭く睨みつけていた。
「お前はお前の戦場に生きれば良い。破滅したもの、死んだもののことを考える必要はない。私は常にそうしている。この世の中には罪も恥も、多すぎる。全てを背負って歩けるものなど、いはしない」
「別に、俺は何も背負うつもりはないけど」
「自分の顔を見てみるのだな」
手元に茶の入った器があり、俺はそれを見下ろした。
光の加減で、水面に歪んで俺の顔が映っていた。
……特にいつも通りだけどな。
「激励と思っておくよ、イリュー」
鼻を鳴らして、イリューは器の中の酒を一気飲み干した。
イサッラにたどり着いた時、真っ先にジュンを訪ねたが、彼女は長期契約の宿のひと部屋を借りていて、しかし一日の大半は留守のようだ。調練の仕事を再開して、それに打ち込んでいると宿のものが教えてくれた。
俺とイリューが宿を訪ねた時も彼女はおらず、部屋は施錠されていた。
宿のものにおおよその場所を聞いて俺は一人でそこへ向かった。イリューは例の如く、亜人の仲間の元へ行ってしまった。
イサッラにいくつかある広場の一つで、ジュンの声が聞こえ、見てみると十人ほどの傭兵が真剣を抜いてそれを振っている。型を繰り返しているようだ。
十人ともがそれなりに使える実力があるとわかる。それでもジュンは細かく一人一人を見て、助言していた。
こういう生き方もあるのか、と俺は広場の端に立って様子を見守った。
生き残るため、死なないための技を教え、戦場へ送り込む仕事。
つらい事の方が多いだろう。帰ってこないものが多いのだから。
ただ充実があるのもわかる。ほんの刹那の、錯覚のような充実だとしても、誰かが成長する様を見るのは、心が震えることだろう。
ジュンは俺に指導した時も、それを感じたか。
オー老師も、感じただろうか。
少しするとその日の稽古は解散になり、あとは自由のようだ。広場に残るものが、お互いに指導し合いながら型を復習している。それを横目に、ジュンがこちらへ来た。
「だいぶ遅かったわね」
彼女が最初にそう言って、口をへの字にした。
「オー老師に最後に顔を見せてやろうとは思わなかったの?」
「その、もっと長生きすると思っていた」
ふざけてるわね、と言ってジュンは俺の胸を拳で打った。俺は微動だにせず、ジュンの方が痛そうに手をブラブラさせる。
行きましょう、と彼女の先導で宿へ戻り、やっと部屋に入れた。
部屋の奥に形だけの祭壇があり、そこに骨壷が置かれている。
なんとなく瞑目して祈り、それきりになった。
「オー老師は身寄りもないし、どこかに葬らなきゃいけないんだけど、どうすればいいと思う?」
ジュンがお茶を用意して、そんなことを言うのにはさすがに俺も言葉に詰まった。
「どうするって……、合葬されている共同墓碑のところに持って行くくらいか、可能性がないけど?」
「それはそれでさみしくない?」
「いや、どうだろう」
死後のことなんて、大して考えたことがなかった。
傭兵をしていれば、戦場で倒れ、死体が回収されないどころか、焼却された後の灰も骨も拾ってもらえないのが当たり前だ。
俺は自分がそうなるだろうと思っていただけで、他人がどうなるのか、もし最悪の事態が起こらず、平穏のうちに世を去ることになったらどうなるか、あまり真剣に考えたことがない。
「私たちは、なんていうか、不自然なのかもしれないわね」
お茶をすすりながら、ジュンがどこか悲しげに言葉を紡ぐ。
「死者を捨てることはあっても、死者を送ることはない。歪んでいるわ」
そうかもしれない。
でもそれを言い出せば、全てが歪んでいる。
捻れに捻れ、もう、表も裏もわからない。
終わることのない戦争。人間どうしの権力争い。商人たちの戦い。
何かが一つに結束されることもないし、共同歩調はいずれは乱れ、破綻する。
どれ一つにも決着がつくことがなく、争いの全てが果てしなく継続する世界。
困ったわね、とジュンが呟いたが、俺は何も言えなかった。
その日の夜、ジュンに書状が届き、俺はそれを見せてもらえた。
ルッツェにおいて、ルティアがルスター王国の法のもとで裁かれ、斬首された、という内容だった。
俺もジュンも何も言えないままだった。
(続く)




