5-32 想像
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ゆっくりと呼吸を繰り返して、しかしアンリは顔を上げないまま話し始めた。
「娘のことは噂では聞いていたよ。勇敢な傭兵として、部下を率いて、立派に戦っていると」
予想していた言葉だ。その言葉にどう反応するべきか、ここまでの道すがら、長い時間をかけて想定していた。
していたけれど、言葉にはできなかった。
アンリの言葉が続く。
「魔物の攻勢を防ぎ、人間の文明のための盾であり矛である、と聞いている。あの子の髪の毛は私が知っている中では美しい金髪だったが、今は白い髪になり、それはそれで美しいと聞いたこともある。正しいかな?」
ええ、と俺は頷いた。
あの白い髪が最後にどうなったかを考えると、どうしても胸が詰まった。
そのことをアンリにどう伝えるべきか。
老いを隠せない傭兵の父親は、淡々と言葉を続けた。
「神鉄騎士団という大手の大傭兵団に参加し、隊を一つ任されている。そして様々な武功を挙げ、大勢の有能な部下と共に戦場を駆けている。できることなら、その姿をこの目で見たかった」
急にアンリが顔を上げ、その顔が涙に濡れているのに気付き、俺はまじまじと彼に視線を返した。
「あの子は魔物と勇敢に戦って死んだのだね?」
これも予想していた言葉。
そしてやはり、答える言葉がない。
頭の中で言葉をどうにか組み立てようとしても、全くできなかった。
沈黙。
その沈黙に絶望が否応なしに差し込んでくる。
「魔物に殺されたわけではない」
アンリの視線が声を発したイリューの方を見た。
「あの娘は人間の陰謀に殺されたのだ。もっとも最後には死を覚悟したというより、死が決定している局面に自ら望んで飛び込んだのだ」
「……なぜ」
「知らぬ。あの娘しか知らぬ。怒りに駆られたのか、憎しみに駆られたのか、ともかく、あの娘は暴挙に出て、栄光も栄誉も捨て、死んだ」
アンリが緩慢な動作で立ち上がった。
「大馬鹿者だ!」
大音声は、やはりイリューだった。俺はうつむき、誰の顔も見れなかった。
「どいつもこいつも、命の重さを知らぬ! 自分の後ろに誰がいるのか、戦友よりも後ろに誰がいるのか、気づきもせぬ! 大馬鹿者め!」
一息に怒鳴り、イリューは部屋を出て行ったようだった。
棒立ちになっていたアンリが、急に糸を切られたように椅子にヘナヘナと座り込み、卓の上の小さな袋に手を伸ばした。
「アンリ殿」
俺は息を吸った。イリューは俺が言いたいことをおおよそ言ってくれた。
ここからは俺が話す番だ。
「ユナは神鉄騎士団の傭兵として、立派に戦いました。その中で精霊教会との衝突が起こり、それが最後まで尾を引きました。ユナは、尊敬するものを精霊教会に奪われ、さらに精霊教会に裏切られ部下を失いました。その決着をつけるために、彼女は、死んだと思います」
返答はない。
両手で袋を包み込むようにして、老人は静かに泣いていた。
ユナはこんな光景を想像しただろうか。
あの幼い日、もしくは戦場で再会した時、そうでなければ髪が白くなった彼女は、自分の死が一人の人間を心底から悲しませることを想像したか。
きっとしなかった。
きっと、できなかった。
だから彼女は傭兵になれたし、戦うことができた。俺にも似たようなところがあるから、間違いない。
家族のこと、友のことを思いやっていては、命を賭けるのは難しい。
誰かの涙や悲しみを考えていては、危険など冒せない。
「ユナが目的を果たしたかといえば、おそらく辿り着けませんでした。これは推測ですが、精霊教会はユナを捕縛し、生きたまま監禁し、ユナは長い時間をかけて死にました」
泣いている死者の父親は、確かに腹を立てているようだった。
精霊教会をこの人が憎んで、どうなるものでもない。
憎しみが何も生まないなどという理由ではなく、恨んでも憎んでも、どうしようもない存在がしっかりとこの世に根付いているのだ。
「アンリ殿、ユナは死にましたが、傭兵にとっては定められた最後です」
怨嗟に燃える瞳が俺を見る。
「リツ。きみたちがあしらった用心棒は、ユナの噂を聞いて流れてきた傭兵志望だ。たいした技術もなかったが、日々を学びに費やし、あれだけの使い手になった」
何の話か、わからなかった。だから俺は、じっと耳を傾けた。
「ユナは最初から、才能があった。ファクトではなく、才能だ。私はの子が消えた後、よく考えた。あの子にはあの子の望むことがあり、私や妻が、それを引き止めていいのか。結論は出ない。出ないまま、ユナは立派になり、私の悩みなどうやむやになった」
そっと皺だらけの手が袋を卓の上に戻す。
「あの用心棒が来た時、私はあの男を引き止めることにした。傭兵になって生きていけるとは思えなかったこともあるが、無駄に命を散らすのを受け入れることができなかった。それはこうしてみると、正解だった。だったが……」
一度、目を閉じる男の口元が、わずかに震える。
「その正解を、なぜ、あの子の時に導き出せなかったのか」
後悔。そしておそらく、懺悔。
アンリは今、誰よりも悔いている。娘の死を、その運命を、一直線に伸びていた道筋を、どこかで止められなかったかと、真剣に思っているようだ。
俺がそれを見て感じたのは、最初は共感だった。
共感はしかし、すぐに崩れた。崩れて、消えた。
俺たちは、何も後悔なんてない。俺たち自身が後悔していなければ、他のものが、他人が、後悔したところでどうでもいいのだ。
目の前にいる男はユナの父だが、ユナの理解者にはなれなかった。
「話はこれだけです」
俺は椅子から立ち上がって、深く頭を下げた。
「失礼します」
返事はない。顔を上げると、五年ぶりに見た幼馴染の父親は、ぼんやりと卓を見ている。俺の方を見ようともしない。
やはり俺とは住む世界が違う。
俺はもう一度、頭を下げて部屋を出た。
玄関を入ったところのホールに出ると、彫像のようにイリューが立っているのが見えた。
違う、例の用心棒が剣を構えて、彼と向かい合っている。
剣が閃き、イリューの直蹴りがその刃の到達より早く用心棒を蹴り飛ばした。
「話は終わったか」
平然としたイリューに、ああ、とだけ俺は答えた。
(続く)




