5-27 殺戮
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地響きと同時に建物が揺れた。
寝台から降りた時には、怒声か罵声が外で行き交っている。
この地面の揺れ方は、馬蹄が地を蹴る音の重なりだ。
俺は刀を持って寝巻きのまま表に出た。
正確には、出ようとして、そこにいる宿の用心棒や宿泊していた男女の群れにぶつかり、その頭越しに光景を目の当たりにした。
駆け回っているのは訓練された騎馬隊だ。装備は統一を欠いているが、動きは完璧に統一されている。
ほとんど同時に馬群を追うのは歩兵だが、やはり兵士としての装備の統一がない。
声を発しているのは小隊長だろうか。火を放たせるな、という言葉が繰り返されている。
急に熱風が吹いた。
そちらを見ると、遠くの夜空が赤く照らされ、その光はすでにもうもうと立ち込める煙を浮かび上がらせている。
俺は周囲にいる人々をかき分けて進む。
火が上がっている方にあるのは、精霊教会の今の本部だ。
そのことに気づいた途端、全てが腑に落ちた。
騎馬隊も歩兵も、神鉄騎士団だ。彼らが精霊教会を襲撃している。
この先、遠い先、近い先に何があるかはわからないが、今はとにかく現場へ行くべきだった。
人ごみを飛び出した途端、馬に轢き殺されそうになり、身をかわす。
火の手が次々と上がる。それを神鉄騎士団の歩兵が消して回っている。
そうか、精霊教会のものを殺すのが目的で、火の中で灰になられては困るのか。
標的がしっかりと存在していて、火が最も激しい場所を重ね合わせれば、目的は一つだ。
神鉄騎士団は精霊教会のルティアを狙っている。
しかし、あの男は奇妙なファクトを使う。傭兵に包囲され、魔物共々に滅ぼされた時も、生き延びているのだ。
移動しづらいが、人ごみの中を抜けなければ、馬に轢き殺されるかもしれないと判断して、俺は少しずつ精霊教会の建物へ向かった。近づくほどに神鉄騎士団だろう男たちが増える。
ルッツェの中央に近い部分は、濃密な煙に包まれ、火炎は容赦なく建物を焼いていた。そこへ歩兵たちが井戸や形ばかりの用水路からも水を汲み上げ、ひたすら撒いている。
どうにか精霊教会の建物の前に出た。騎馬隊が包囲し、出てくるものを槍で突き倒している。
戦闘などというものではない。
ただの虐殺だった。
唐突に腕を掴まれた。背後からだ。反射的に振りほどき、刀の柄に手を置こうとすると、相手は一瞬で俺の刀の柄頭を抑えて抜刀を止めた。
「冷静になれ」
相手の顔を見て、なるほど、俺は自然と冷静になった。
そこにいるのはイリューだった。険しい顔を炎に照らされ、顎の動きで俺を下がらせた。二人で野次馬の中に紛れる。
「お前、亜人の地区にいたのに、いつここまで来た?」
そう確認すると「馬鹿にするな」という短い答えがあった。
あとは二人とも、沈黙した。
目の前で精霊教会の建物が焼け落ち、倒壊していく。精霊教会の男も女も、すでに大半が命を奪われていた。歩兵たちが遺体をまとめて荷車に積んでいくのは異常な光景だった。
徐々に夜が明けていく。野次馬はまだ大勢が残っていた。馬蹄も響き続け、空気は未だに喧騒に包まれている。
行くぞ、と急にイリューが言うと、俺を連れて野次馬を抜けた。
ちょうど一騎が目の前を通るところで、イリューがその前に立ちふさがると、相手が槍を構え、動きを止めた。俺の視線と彼の視線がぶつかる。
「ラーン……」
そこにいるのは、神鉄騎士団の総隊長のラーンだった。
無言が三人の間に降りてきて、ラーンが馬を降りた。
「あんたは」
俺はラーンが言葉を口にする前に、勢いで言葉を投げつけていた。
「あんたはこんなことをして、どうするつもりだ!」
「悪を排除しただけだ。もはや根絶は不可能な悪だが、潰しておくべきだと判断した」
急に周囲が極寒の空気に席巻された気がした。
ラーンは本気の殺気を放ち、本気の殺意によって行動している。
「僕たち、神鉄騎士団はルスター王国から撤退する。もはや彼らも僕たちと共闘しようとは思わないだろう。これは最期の餞だ」
いくつかのことに一本の線が通った。
神鉄騎士団がイサッラに集結したのは、ルスター王国から無事に撤退するためだ。そのまま東にあるウェッザ王国に行くのだろう。
ここにいるのはラーン直下の最精鋭で、神鉄騎士団の結集を隠れ蓑に、ルッツェに忍び寄ったのか。
「ルティアはどうした」
冷静な声で言ったのはイリューだった。イリューの声もまた、ラーンの気配と同様のものを帯びていた。
「亜人が精霊教会の心配か?」
空気が軋み、背筋が冷える。
そんなものは感じないように、イリューが鼻で笑った。
「心配などするか。あの恥知らずをあんたが斬り殺したなら良かったのに、と思っただけだ」
「そうか」
ラーンの表情には、少しの感情もないのが火の照り返しでよく見えた。
「ルティアは行方不明だ。建物だったものの中で焼かれたか、あるいは逃げ出したかもしれない。とにかく今は、対処する術がない」
イリューが舌打ちをして、ラーンはもう話が終わったように馬にまたがった。
「僕たちは撤収する。あとは好きにしてくれ」
好きにしてくれも何もない。
ルッツェは人が焼かれる臭いに包まれ、人々は完全に怯えていた。歴戦の傭兵も兵士も、神鉄騎士団の残虐行為を理解することも、許容することもできずにいた。
声がかけられ、馬群が通りを駆け抜けていく。歩兵たちが集団を作り、駆け去った。
最後に残されたのは火がくすぶる一角と、積み上げられた無数の死体だった。
どこからともなく人が集まり、死者に祈りがささげられ、火がつけられた。
傭兵たちは誰もが疫病の怖さを知っており、もはや個人の判別など無意味だとも理解していた。魔物との戦場と同じだ。死んだものはそのまま、誰とも分からず灰と煙になるしかない。
俺とイリューも死体の処理を手伝い、そのまま精霊教会の建物の敷地に入った。
地獄という言葉を、以前、ルティアが使っていた。
今、俺の目の前にあるのもやっぱり地獄だった。まるで地獄がルティアを追いかけてきたのではないかと思うほど、悲惨な光景だった。
傭兵たちが建物だったものに残る火を消すために、水を運んでいた。
建物の横手へ回った時、それが目に付いた。
枯れ井戸があるのは、前も見ていたのだ。しかし今、その上に蓋のように板が渡されている。
あの中に誰かが隠れている? 例えば、ルティアが?
本当の枯れ井戸なら、その底に穴を掘って地下道を作っておけば、容易に逃げられる、かもしれない。
ただ、板を渡す理由がわからない。
さらに言えば、井戸の底に地下道を掘るより、建物のどこかから地下道を掘る方が理にかなっている。
ならあれは、誰かが板を渡しただけか。
それでもと俺がそこへ近づいたのは、いったい、どういう理由だっただろう。
そっと板を外すと、腐臭が鼻を付いた。それもここ数日などという感じの生々しい腐臭ではなく、すでにおおよそが地に帰った後のような、薄く、しかしいやに記憶に残る類の腐臭。
すぐそばにイリューがやってきて、奥を覗いた。
「何かあるが、よく見えぬ」
俺はそばに作られている、すでに夜が明けて意味をなさなくなった篝火から、細く短い薪を持ってきて井戸の底へ投げた。
光が奥で弾け、ぼんやりと井戸の底を照らす。
「人……」
人がいる、そう俺は言おうとした。
しかし言えなかった。
井戸の底でちらちらと見える、黒い着物のようなもの。
あれは、亜人が作る反物だ。
似たものを俺は、見たことがある。
きっとイリューもあるだろう。
ずっと前、あれを見たんだ。
隣でイリューが何か言った。
俺の耳にはそれは聞こえなかった。
「ユナ」
声がした。
俺の声だ。俺が無意識に発した声。
遠くで人が声を交わしている。
しかし、まさか。
なぜ……。
(続く)




