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傭兵は命を散らす  作者: 和泉茉樹
第四部 地獄に向かい、地獄に消える
171/213

4-42 闇

      ◆



 私の額を雫が打っている。

 ポタリ、ポタリ、ポタリと、一定の間隔で。

 雨ではない。

 急に体が揺れているのを感じた。

 いや、体は動いていない。目が回っている。

 目を見開く。光が見える。遠い。おそらく円形。その輪郭がグニャグニャと歪み、私自身も歪んでいる。

 声が漏れた。か細い、うめき声だ。

 自分の声とは思えない。

 しかし自分の声だ。

 立ち上がれない。仰向けの体を横にひねり、うつ伏せ、四つん這いに。

「起きたか」

 声が遠くから聞こえる。頭上。

 振り仰ぐ。歪んで大きさが一定しない光に影が見える。

「お前はそこで死ぬことになる」

 声は、誰の声だ?

 記憶が繋がらない。そもそも、記憶が見当たらない。

 私は誰で、ここはどこだ? 何があった?

 私、私は……。

 名前……。

 ユナ。

 そう、私はユナで、レオンソード騎士家の娘。

 傭兵になった。

 唐突に全ての記憶が蘇った。

 頭上を見る。不思議と歪みは消え、丸い光は、この枯れ井戸に差し込む光だとわかった。

 そこに身を乗り出しているのは、遠くてよく見えないが、声はわかる。

 ルティア。

 みんなを殺した、その首謀者。

 こいつに、カリルも、ファドゥーも、コルトやホークも、殺された。他にも多くの仲間が、この男に殺された。

 ファクトを発動したが、距離がありすぎる上に、照準が合わない。枯れ井戸の円筒の壁がわずかに削れ、その破片が私に頭上に降ってきた。

「どういう気分でそこにいるのか、知りたくもないが」

 声は愉快げだった。

「お前はそこで飢えて、死んでいくことになる。誰もこの井戸には注意を向けない。酷い死に方になるが、私の部下を殺したものを放っておくのも危険だ。何かとな」

 くそったれの精霊教会。

 思わず声が口をついた。言葉ではなく、吠え声だった。

 イレイズが円筒を削るが、どうしても光の中にいるあの男には届かない。

「登れるなら、登ってみればいい。いつか、誰かが助けに来てくれると思うなら、そうだな、その井戸の底を這う虫でも食べて、飢えをしのぐといい。お前は自由だよ、ユナ。その狭い世界は、お前のためだけの世界だ」

 水が落ちてくる。

 一滴、また一滴。

 それさえも、悪意か。

 私たちはいつの間にか、人間同士で悪意をぶつけ合っている。

 魔物からすれば、さぞかし滑稽なことだろう。

 私はうずくまり、体を丸めた。

「考える時間はたっぷりある。何を考えてもいい。何をしてもいい。相応の報いだよ、ユナ。私の部下を殺し、お前がお前の仲間を殺したことに対する、報いさ」

 私が、私の仲間を殺した。

 そうかもしれない。

 ファドゥーの最期、カリルの最期、大勢の仲間の死に様。

 意味のある死がこの世界のどこかに存在するとして、私はそれを誰にも与えることはできなかった。

 意味のない流血。

 意味のない犠牲。

 それを命じた私は、間違っていたのか。

 ルティアの陰謀を止められない私は、愚かなのか。

 止めようとして、さらなる犠牲を生み出した私は、悪魔なのか。

「では、私は忙しいのでね。そこで自分のことを考え、せいぜい苦悩するがいい。悪魔の女、破滅の女神、栄光からは程遠い傭兵」

 頭上の光の中から気配が消えた。

 無音がやってきた。遠くで風が鳴っている。そして雫が落ちる音。その二つが無音を乱して静寂を否定しているはずが、今は逆に純粋な無音を強調していた。

 耳が痛くなる。

 人の気配がないこと、日常の空気がないことが、塵が降り積もるように周囲を満たしていく。

 空腹を感じても、食べるものなどない。

 壁をよじ登ろうにも、その体力もない。

 水が落ちてくる。

 井戸の底に、小さな水溜りができている。

 無様にも、私はそれを舐めた。

 腹痛に苦しみ、嘔吐するだけのこと。

 体は徐々に硬くなっていき、弾力を失い、痩せ細っていく。

 どれくらいが過ぎたのか。

 光は長い間隔での明滅を繰り返し、変わることはない。

 気温さえも変化しない。

 何も変わらない日々。何も変わることのない日々。

 ただその変化がないはずの世界で、私だけが人ではなくなっていく。

 命が少しずつ、霧散していく。

 肉体から生気が流れ出ていき、肉体としての機能を喪失していく。

 いつまで生きればいいのか。

 生きるべきなのか。

 考えていたのは、昔のことだった。

 性別も決まっていない頃の私は、夢を語っていた。

 傭兵になって、名を上げる。

 それだけの簡単な子どもの夢は、やはり幼い時にだけ持つことを許される、無謀な願望なのか。どこかでそれを捨てて、別の道を選ぶのが、本当の生き方、生きるということなのか。

 夢は捨てるためにあるのだろうか。

 あいつは今、どこにいるのか。

 あいつは今も、光の下にいるのだろうか。

 憎悪にも、憤怒にも、染まることなく。

 私ができなかった生き方を、しているだろうか。

 ぼんやりと頭上の光を見た。

 日に日に光の強さが弱くなっていく。

 闇が私を包み込む時間が多くなり、音は本当に何もなくなり、時間が停止したような沈黙が私のいる世界の当たり前になった。

 水が頬を打っても、私は少しも動けない。

 その水の冷たさ、刹那だけの冷感が、かろうじて私に命を意識させた。

 無限に続く時間。

 有限のはずなのに、終わりが見えなければ、無限と同じこと。

 魔物と向き合い、剣を抜いている時こそ、私は生きていた。

 今、私は生きていない。

 死んだ世界の中で、死のうとしている。

 どうか、あいつには光が差すように。

 それだけが頭を占め、私の思考の全てになった。

 どうか。

 どうか。

 光が消えていく。夜が来る。終わることがない夜が。

 風が吹いた気がした。

 死神が舞い降りるような、冷ややかで、透き通った風だ。

 冥府からの使者がついにきた。

 どうか、リツ。

 あんたは、生きなさい。

 雫が首筋を流れ、そのまま消えた。

 無が思考を漂白し、私という存在の最後の欠片が、空に溶けていった。




(第四部 了)

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