4-42 闇
◆
私の額を雫が打っている。
ポタリ、ポタリ、ポタリと、一定の間隔で。
雨ではない。
急に体が揺れているのを感じた。
いや、体は動いていない。目が回っている。
目を見開く。光が見える。遠い。おそらく円形。その輪郭がグニャグニャと歪み、私自身も歪んでいる。
声が漏れた。か細い、うめき声だ。
自分の声とは思えない。
しかし自分の声だ。
立ち上がれない。仰向けの体を横にひねり、うつ伏せ、四つん這いに。
「起きたか」
声が遠くから聞こえる。頭上。
振り仰ぐ。歪んで大きさが一定しない光に影が見える。
「お前はそこで死ぬことになる」
声は、誰の声だ?
記憶が繋がらない。そもそも、記憶が見当たらない。
私は誰で、ここはどこだ? 何があった?
私、私は……。
名前……。
ユナ。
そう、私はユナで、レオンソード騎士家の娘。
傭兵になった。
唐突に全ての記憶が蘇った。
頭上を見る。不思議と歪みは消え、丸い光は、この枯れ井戸に差し込む光だとわかった。
そこに身を乗り出しているのは、遠くてよく見えないが、声はわかる。
ルティア。
みんなを殺した、その首謀者。
こいつに、カリルも、ファドゥーも、コルトやホークも、殺された。他にも多くの仲間が、この男に殺された。
ファクトを発動したが、距離がありすぎる上に、照準が合わない。枯れ井戸の円筒の壁がわずかに削れ、その破片が私に頭上に降ってきた。
「どういう気分でそこにいるのか、知りたくもないが」
声は愉快げだった。
「お前はそこで飢えて、死んでいくことになる。誰もこの井戸には注意を向けない。酷い死に方になるが、私の部下を殺したものを放っておくのも危険だ。何かとな」
くそったれの精霊教会。
思わず声が口をついた。言葉ではなく、吠え声だった。
イレイズが円筒を削るが、どうしても光の中にいるあの男には届かない。
「登れるなら、登ってみればいい。いつか、誰かが助けに来てくれると思うなら、そうだな、その井戸の底を這う虫でも食べて、飢えをしのぐといい。お前は自由だよ、ユナ。その狭い世界は、お前のためだけの世界だ」
水が落ちてくる。
一滴、また一滴。
それさえも、悪意か。
私たちはいつの間にか、人間同士で悪意をぶつけ合っている。
魔物からすれば、さぞかし滑稽なことだろう。
私はうずくまり、体を丸めた。
「考える時間はたっぷりある。何を考えてもいい。何をしてもいい。相応の報いだよ、ユナ。私の部下を殺し、お前がお前の仲間を殺したことに対する、報いさ」
私が、私の仲間を殺した。
そうかもしれない。
ファドゥーの最期、カリルの最期、大勢の仲間の死に様。
意味のある死がこの世界のどこかに存在するとして、私はそれを誰にも与えることはできなかった。
意味のない流血。
意味のない犠牲。
それを命じた私は、間違っていたのか。
ルティアの陰謀を止められない私は、愚かなのか。
止めようとして、さらなる犠牲を生み出した私は、悪魔なのか。
「では、私は忙しいのでね。そこで自分のことを考え、せいぜい苦悩するがいい。悪魔の女、破滅の女神、栄光からは程遠い傭兵」
頭上の光の中から気配が消えた。
無音がやってきた。遠くで風が鳴っている。そして雫が落ちる音。その二つが無音を乱して静寂を否定しているはずが、今は逆に純粋な無音を強調していた。
耳が痛くなる。
人の気配がないこと、日常の空気がないことが、塵が降り積もるように周囲を満たしていく。
空腹を感じても、食べるものなどない。
壁をよじ登ろうにも、その体力もない。
水が落ちてくる。
井戸の底に、小さな水溜りができている。
無様にも、私はそれを舐めた。
腹痛に苦しみ、嘔吐するだけのこと。
体は徐々に硬くなっていき、弾力を失い、痩せ細っていく。
どれくらいが過ぎたのか。
光は長い間隔での明滅を繰り返し、変わることはない。
気温さえも変化しない。
何も変わらない日々。何も変わることのない日々。
ただその変化がないはずの世界で、私だけが人ではなくなっていく。
命が少しずつ、霧散していく。
肉体から生気が流れ出ていき、肉体としての機能を喪失していく。
いつまで生きればいいのか。
生きるべきなのか。
考えていたのは、昔のことだった。
性別も決まっていない頃の私は、夢を語っていた。
傭兵になって、名を上げる。
それだけの簡単な子どもの夢は、やはり幼い時にだけ持つことを許される、無謀な願望なのか。どこかでそれを捨てて、別の道を選ぶのが、本当の生き方、生きるということなのか。
夢は捨てるためにあるのだろうか。
あいつは今、どこにいるのか。
あいつは今も、光の下にいるのだろうか。
憎悪にも、憤怒にも、染まることなく。
私ができなかった生き方を、しているだろうか。
ぼんやりと頭上の光を見た。
日に日に光の強さが弱くなっていく。
闇が私を包み込む時間が多くなり、音は本当に何もなくなり、時間が停止したような沈黙が私のいる世界の当たり前になった。
水が頬を打っても、私は少しも動けない。
その水の冷たさ、刹那だけの冷感が、かろうじて私に命を意識させた。
無限に続く時間。
有限のはずなのに、終わりが見えなければ、無限と同じこと。
魔物と向き合い、剣を抜いている時こそ、私は生きていた。
今、私は生きていない。
死んだ世界の中で、死のうとしている。
どうか、あいつには光が差すように。
それだけが頭を占め、私の思考の全てになった。
どうか。
どうか。
光が消えていく。夜が来る。終わることがない夜が。
風が吹いた気がした。
死神が舞い降りるような、冷ややかで、透き通った風だ。
冥府からの使者がついにきた。
どうか、リツ。
あんたは、生きなさい。
雫が首筋を流れ、そのまま消えた。
無が思考を漂白し、私という存在の最後の欠片が、空に溶けていった。
(第四部 了)




